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頭が痛い。
本当に気分が悪くなってしまった。色んな意味で興奮しすぎたようだ。
結局、本当に保健室へ行くことにした。
ベッドに横になって、うとうとしていると、突然目の前に江麻さんの切羽詰まったような表情が現れた。
「ちょっと、大丈夫。まさか、襲われた!」
「違う、違う」
ぼくは首を振った。視界の隅に咳払いをする保健室の先生の姿が映っていた。
「声が大きいよ、江麻さん。……単純に気分が悪くなっただけだよ」
「そ、そう」
江麻さんはほっと胸を撫で下ろすように、ふーっと息を吐いた。
「心配してくれたの?」
「当たり前でしょ!」
江麻さんが再び大声で叫んだ。そして、冷たい視線をぼくへ向けながら、近くにあった円椅子を引き寄せて座った。
と、ここへ保健の先生が顔を覗かせると、「ちょっと、出かけてくるからそのまま休んでて。もし体調が戻らないなら、さっさと早退しなさい」とぼくに向かって伝え、部屋を出て行ってしまった。
「さ、邪魔者は去った」江麻さんはスマートフォンを弄びながら言った。「ちょっと手を回して、保健の先生には席を外させてもらった」
えっ? どういうことですか? 保健室に男女が二人というシチュエーション。これはまさか!
「何グヘへって笑っているの、気持ち悪い。……それよりさっきのメール、山路先生が怪しいってどういうこと?」
なんだ、そっちの話か。そりゃそうだよね……。
先ほど体育館前で行きついた結論、すなわち山ジイが《権益者たち》の手先ではないか、とメールで送っておいたのだ。
ぼくはベッドから体を起こした。
「メールの通りだよ、山ジイならぼくに関する匿名電話もでっち上げられるし、カフェテリアのメニューだって操作できるに違いないよ。それに上履きへの画鋲混入とか、生徒より帰りの遅い先生なら難しくない」
「うーん」江麻さんは濡れて艶やかに光る黒髪を手で押さえつつ、眉間に皺を寄せていた。「わたしの調査とは違うかな」
「否定する理由は?」
「仮にカフェテリアのメニューを操作できたとして、どうして山路先生が、健吾の嫌いな食べ物を知っているのか? 小学校の先生ならまだしも、高校教師が生徒全員の好物を知っているとは思えない。……健吾の卵嫌い、本当に身近な人しか知らないんでしょ」
「うう、確かにそうだけど……」
正鵠を射た指摘だった。ただあまりにもあっさり否定されちゃあ、男がすたる。勢いに任せて、ベッドの脇に置いてあるそれを指差した。
「でも、先生の正体が分かる、有力な証拠がここにある袋に入っている。中に入っている証拠物件を調査すれば、きっと何か分かるはずだよ!」
「これのこと?」
と、言って、江麻さんが体操着の入った袋に手を伸ばそうとした瞬間、正常な感覚が戻ると同時に、後悔の波が押し寄せてきた。
「ちょっと待った! やっぱなし!」
制止は間に合わなかった。江麻さんは袋の中身を一気にベッドの上に広げた。
「……」
江麻さんは体操着に紛れた例のブツを凝視したまま、石のように固まっていた。
あ、あ、あっ、やっちまった!
ついイラッとして、後先考えず思わず叫んじゃっただけなんだよ。自分のちっぽけな自尊心を守るために、より大切なものを犠牲にしてしまった!
江麻さんの肩が小刻みに震え始めた。そして、ぎゅっと拳を作り、真っ赤な顔をこちらへ向け、腕を振り上げると、ぼくの腹へ向けて力一杯振り下ろされた。
「ぐへぇ!」
腹に激痛が走った。ベッドの上でのたうち回る。
「なるほど、健吾にそんな趣味があったとは。……典型的な草食男子って印象だったけど、意外にやってくれる。……わたしの下着を盗むなんて」
えっ? 今なんとおっしゃいました? わたしの下着?
「えーーーーっ!」
猫さん柄が趣味なんですか!
ドス!
もう一度腹に激痛が走った。い、息ができない。
江麻さんは、ぼきぼきと拳を鳴らした。「さて、あと何発耐えられるかしら……」
ヤバい、目がマジだ。普通に死の恐怖を感じた。
「ご、誤解だよ、誤解! これこそ《権益者たち》の手先の仕業だよ」
江麻さんの拳を鳴らす動きは止まらない。氷のように冷たい視線をこちらへ向けてくる。
「し、信じてよ。これをやったのが山ジイに違いないんだ。体育の時間中に江麻さんから盗んでぼくのロッカーに投げ入れ……」
ちょっと待て、何か、忘れていないか? 女子が水泳の時間、更衣室に忍び込んで、盗まれたということ、は……。今、江麻さんは……。
彼女が着ている制服のブラウス、そしてスカートの裾へと視線を移していく。
次の瞬間、
バキ!
三度腹に激痛が走った。胃から色んなものが逆流しそうになった。
「変な心配してくれてありがとう。でも、わたしはいつも予備を用意してあるから」
そ、そうなんだ。ほっとしたような、残念だったような。
……でも、予備が必要な状況って、どんな状況だ?
「……痛!」
今度は頭を叩かれた。
江麻さんは姿勢を正して、わざとらしく大きな咳払いをした。
「ま、まあ、冷静に考えればこれを健吾がやったとは思えない。明らかに《権益者たち》の手先の仕業。どうにかしてわたしの更衣室のロッカーから盗んで、健吾のロッカーに放り込んだんだと思う。腹立たしいのはその手先のはずなのだけど、健吾に対しても怒りが収まらないのは何故?」
「抑えて、お願いだから抑えて!」
ぼくは江麻さんをなだめようと身を乗り出した。
その時、ぼくのスマートフォンから電話着信音が鳴り響いた。江麻さんは黙って顎をしゃくった。出ていいという合図だ。
最近、博士にしろ、江麻さんにしろ、顎一つで指示されることが多いなあ、なんて思いながら、ぼくはスマートフォンを拾い上げて、相手を確認する。
珍しいことに母親からだった。ぼくは電話に出る。
……
母親からの電話にぼくはしばらく放心していたらしい、気付いた時には江麻さんがぼくの体を揺すって問いかけていた。
「ちょっと、大丈夫? 誰から、何の電話だった?」
カラカラに乾いた唇を動かし、何とか声を絞り出した。
「姉ちゃんが、事故った」




