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それからしばらくは、似たような日々が続いた。
彩夏の代わりに江麻さんと登下校するようになった。最初はこれまでと違う朝に違和感もあったが、すぐに慣れていった。ぼくの腕を掴んで一緒に歩く江麻さんの姿に、好奇な目を向けていた生徒たちも徐々にいなくなり、日常の光景と同化していった。
一方で、《権益者たち》の工作員による、嫌がらせ、もとい、脅迫は続いた。
毎日、上履きの中には何かしらが放り込まれていた。画鋲が入っていたり、泥が入っていたり、上履きの代わりに鼻緒が切れた下駄が入っている日もあった。
教室の机も、ある日は一輪の菊が挿さった花瓶が置かれていたり、また別の日は賽の河原にありそうな石積みがあったりした。
そして決まって机の引き出しには脅迫状が入れられていた。ルーズリーフに〈研究会に出るな〉とか〈研究を続けるな〉などと文言は様々で、書体もパソコンから打ち出されたようなものや、新聞の切り抜きで作られたものがあった。
それから、また山ジイに呼び出された。再度高校に匿名電話があり、今度は小学生をカツアゲした疑惑をかけられていた。そんなことはしていないと弁明したら、山ジイはあっさりと信じてくれた。山ジイは「尾野がそんなことする人間には見えないからな、逆に小学生にカツアゲされたなら分からんでもないが」と言っていた。……ここは素直に、日頃の誠実な態度で先生たちの信用を得ていると、受け取っておこう。
こうした嫌がらせは、最初こそ辛かったけど、あくまで《権益者たち》によるものだと分かっていたので、耐え忍ぶことができた。本当にクラスメートたちによるイジメだったら三日と経たずに登校拒否しそうだ。
しかし、これを本当にイジメだと思い込んでいる森川と本田さんは犯人探しに躍起になっていた。金属バットを持つ森川を従え、本田さんはクラスの男子生徒を片っ端から捕まえて尋問していった。
森川や本田さんのぼくを思ってくれる気持ちは、涙が出るほど嬉しかったけど、その結果、男子生徒たちは自分の無実を証明しようと、気持ち悪いほど腰が低い態度でぼくに接するようになってしまった。東で滑って転びそうになったら我先にと手を差出し、西で荷物を運んでいたら奪ってでも代わりに運んでくれるような状態だ。正直言って、どんな嫌がらせよりもクラスメートたちのよそよそしい態度を見ている方が辛かった。
嫌がらせの理由が分かっているけど、それが言えない以上、本田さんたちにそんなことしてくれなくても大丈夫、と伝えるわけにもいかず、黙って見ていることしかできなかった。クラス内での本田さんによる尋問が終わっても犯人が見つからなかったので、調査の手はクラス外にも広がっている。これ以上事が大きくなる前にはやく研究会に日が来てくれる事を祈るばかりだった。
それとは別に、昼食の問題も残っていた。
カフェテリアは再開したけど、購買も含めて何故か連日、卵料理祭りが続いていた。当然ぼくは食べたくないし、さすがに毎日オムライスやスクランブルエッグでは、一般生徒たちも不満を漏らし始めた。しかし、卵を大量に入荷してしまったため、食堂も購買もしばらく卵祭りが続くという。最近では、名古屋の喫茶店のモーニングサービスのように、全員にゆで卵を無料で付けるようになっていた。
こうなってしまうと、ぼくとしては、弁当を持参せざるをえない。いや、そもそも普段は弁当なのだ。これまで姉は彩夏に弁当を渡していたのに、江麻さんには渡していないようだ。であるなら、ぼくに弁当を渡してくれるよう姉に頼んだ。考えてみれば、そもそも自分の弁当は自分に渡されるべきで、今までが異常だったのだ。これを機に是正しよう、いつまでも子供扱いされてはたまらない。
しかしぼくの訴えを聞いた姉は眉間に皺を寄せた。
「弁当……?」
「そうそう、いつも彩夏に渡していたでしょ」
風呂上がりの姉はドライアーで髪を乾かしつつ、ぼくに肩を揉まれながら、「うーん」としばらく首を捻っていたが、しばらくして「ああ、そういうことか」と手をぽんと叩いた。そして「仕方ないな、分かった」と言ってくれた。
しかし次の日、台所には弁当箱の代わりに五百円玉が一枚置かれていただけだった。
何か違う気もするが、姉には逆らえない。
しようがないので、その日以来、登校途中でコンビに寄って、パンやおにぎりを買う生活が続いている。
こんなことが日常化していった頃、遂に弩級の事件がぼくの身に降り掛かってきた。
それは体育の授業が終わって、更衣室で制服に着替える時のことだった。自身の学生服がしまってあるロッカーを開けると、折り畳んだ制服の上に、異物が置いてあることに気付いた。それは白く、最初はまた脅迫状か? と直感した。しかしよくよく見てみると、紙ではなくどうやら布のようだ。気になって広げてみると、それはほぼ三角形の形をしていた。中央には可愛らしい猫が描かれている。
なんだこれは? でもどこかで見たことあるような……。しばらく頭をひねらせる。確か姉を手伝って洗濯物を干している時に見かけるなあ。
「んっ?」
今、手に持っているものとは別に、もう一つ白い布が学生服の上に置いてあった。それを見た瞬間、今まで靄に覆われていた視界がすっと晴れたような感覚がした。
「な、何じゃこりゃーーーー!」
すぐさまロッカーを力一杯閉じた。
ぼくのロッカーに入っていたもの、それは紛れもなく女性ものの下着一式だった。
どうしてこんなものが、ここにある?
もちろん思い当たる節は、もちろんない。
「おい、どうした? 奇声なんかあげて。腹に銃弾でも受けたか?」
背後から森川が声をかけてきた。最近ぼくのことを繊細な蝋細工のように扱う男子たちも近寄ってきた。
ぼくはロッカーに背中を押し付けて森川たちを見た。「べ、べ、別に何でもないよ?」
「そんな顔中汗びっしょりな様子で、何でもないなんて言われても信じられるか?」
森川の言葉に、集まっていた男子連中は一斉にうなずいた。
「ほ、本当だって。何にもないよ。あ、汗だって、体育なんだら、しようがないじゃない」
ぼくはぶるぶると顔を左右に振った。
「まさか、またイジメか? 今度は何だ? 学生服を盗まれたか? それともネズミの死骸でも放り込まれていたか?」森川が真剣な表情でぼくに詰め寄ってきた。「ちょっとロッカー見せてみろ」
「だ、大丈夫だから。本当に何もないから!」
両手で森川を押しとどめる。相手が森川といえども、今ロッカーの中にあるものを見せるわけにはいかない。
「変な声が出ちゃったのは、ちょっと重要なことを思い出したからなんだ、……えっと、そうそう、今日ゲームの発売日だったけどお金持ってくるのを忘れたって」
ぼくを押しのけようとしていた森川の体がピタリと止まった。
「まさか今日発売のゲームって『お兄ちゃんの卒業大作戦Ⅱ』のことか! 恋愛研究仲間の間で伝説と謳われた前作から二年、満を持して発売される」
……ええっと、何ですって? お兄ちゃん、卒業……? 全く分からないけど適当に合わせておくことにした。
「そ、そうなんだよ。楽しみに今日を待ってたんだけど、財布にお金を入れてくるのをすっかり忘れちゃって……」
「俺も部活が終わったら、いや部活を休んで、いやいや午後の授業をすっぽかしてでも買いにいこうと思ってたところなんだ。そうかそうか尾野も買う予定だったか。じゃあ、とりあえず二十周ぐらいしたら作品の感想について語り合おうじゃないか!」
森川はそう言い残して、意気揚々と更衣室を出て行った。続いて取り巻いていた男子たちも次々と更衣室を出て行った。
更衣室に一人だけになって、ぼくは額の汗を拭きながら大きく溜息をついた。
「さすがにノベルゲームを二十周やる時間なんてぼくにはないよ……」
いやいや、そういうことじゃなくて。
もう一度、恐る恐るロッカーを開けて中を確かめる。
やはりブツはロッカーの中にあった。
頬をつねる。痛い。
……夢ではない。
どうしてこんなものが、ここにある? 問いを繰り返した。
「これも、《権益者たち》の工作員の仕業、なんだろうね、きっと」
それにしても危なかった。こんなものを他人に見られたら、確実にぼくは下着泥棒のレッテルを貼られて学生生活、いや人間として終わりだ。ぼくをイジメる誰かがぼくを嵌めようとしたんだ、なんて言い訳は通じないだろう。
まさかこんな嫌がらせをされるだなんて、予想だにしていなかった。
さてこれからどうしたらいいだろう?
別に難しくはない。さっさとここから持ち出して、《男の大切なコレクション》の一つとして加える……じゃなかった、処分してしまえばいいのだ。幸い運動着を入れる袋があるので、これに詰め込んでしまえば持ち出すことは難しくない。あとは見つからないようにゴミ置き場に紛れ込ませてしまえば、万事解決。
もう一度更衣室にはもう誰もいないことを確認して、制服に着替える。ブツは体操着と一緒に袋に押し込んだ。これで一安心。
更衣室を出ようとしたところで、次なる疑問がよぎった。
はたしてこれは誰のものだろう? と。
その瞬間、稲妻に打たれたかのような衝撃が体中に走った。そして、興奮で体が震え始める。
ち、違う、断じて欲情的興奮の意味じゃない。もっと理性的なものだ。
もしこの下着がぼくを貶めるためだけに存在するのであれば、今すぐにでもゴミ置き場へゴーだ。しかし《権益者たち》とは全く関係のない、別の誰かの持ち物だったとしたら……。その子は完全に被害者であり、今とても困っていることになってはいないだろうか?
……うっ、鼻が痛くなってきた。もっと落ち着かないと。
大きく深呼吸する。
可能性は低いながらも一応考慮しなければなるまい。もしこの推論が正しければ、ゴミ捨て場に持って行くわけにはいかない……、既にぼくの汗が染み込んだ運動着と一緒に丸まっている時点で手遅れかもしれないけど。
でも待て、体育で下着まで着替えるか? 女子のその辺りの事情はよく知らないけど、さすがにそこまではしないんじゃないか?
が、すぐさまその考えは否定された。今日の男子の体育はサッカーだったけど女子は何だったか?
そう、水泳だ。
地方都市のありふれた高校のくせに、水泳系の部活が強いおかげで、小さいながらも温水プールが完備されているのだ。だから春夏秋を問わず時々水泳の授業が行われる。
何で知っているかだって? そりゃ、もはや御馴染みとなった、江麻さんの周りに集まる女子たちの「江麻ちゃん、今日水泳だって」「江麻ちゃんの大人っぽい体、た、の、し、み。ウフフ……」「ちょっと、恥ずかしいこといわないでよー」という、横で聞いているこちら側が赤面したくなるような会話があったからだ。
……こうなると、確認してみる必要があるなあ。
男子更衣室を出たぼくは、校舎と体育館の間の渡り廊下へと目を向ける。着替え終わった女子たちはそこを通るはずだ。
近づいて様子を伺っていると、三人の女子が一塊になってこちらへやってくる。みんな髪が濡れていて、やはり水泳の授業だったようだ。
「あっ!」
ぼくは急いで物陰に隠れた。女子たちはぼくに気付かず、楽しそうにおしゃべりしながら渡り廊下を進んでいった。
三人組の一人に彩夏がいた。クラスは違うけど体育は合同なのだ。
昇降口で弁当を投げつけられて以来、面と向かって彩夏に会っていない。電話やメールはしていないし、向こうからも来ていない。もし、今バッタリ出会ったら、何を話せばいいのか分からない。今までずっと一緒に登下校して、たわいのない話をしていたのに、だ。
彩夏がどう思っているか分からないけど、彩夏を巻き込まないためには、今は近づかない方がいいだろうと、自分に言い聞かせる。
再び、廊下の様子を確認すると、今度は五人ぐらいの女子集団がこちらへやってきた。江麻さんに本田さん、それにぼくと同じクラスの女子たちだ。江麻さんは楽しげな表情をして、いつもの女子向け口調で喋っていた。
やっぱり江麻さんに話を聞くのが一番だろう。
彼女たちが渡り廊下にやってくるのを待っていると、突然背後から肩をトントンと叩かれた。振り返ると、そこには片手に鉄道模型用のレールを持った山ジイが立っていた。
「尾野、こんなところで何ストーカーしている? もうすぐ次の授業が始まるぞ」
「ストーカー! ……ぼくが?」
何言ってるんだ、山ジイは。実直と誠実がモットーのぼくに向かって!
山ジイはいつものゆっくりと抑揚のない声で言った。
「先生、お前が更衣室を出てくるところから見ていたけど、明らかに挙動不審だぞ。女子更衣室の方を覗いているかと思ったら、突然物陰に隠れたりして。前も言ったが、思春期の男子が女子を好きになるのは当たり前の話から、健全な交際なら先生は何にも言わないけど、恋が成就されないからってストーカーは止めろよ、人生棒に振るぞ」
「違いますよ、学校でそんなことするわけないでしょ!」
「じゃあ、それは何だ?」
山ジイは、体操着と例のブツが入った袋が指差していた。「何だか、空き巣の戦利品を大事そうに抱える泥棒か、麻薬の密売場に向かうブローカーみたいだぞ」
「な、何でもありません」
慌てて、山ジイの目から遠ざけるように、袋を背中に隠した。それを追うように山ジイの細長い腕がこちらへ伸びてきた。
「ちょっと、見せてみなさい」
山ジイから離れようと、一歩後ずさった。すると山ジイは一歩こちらに近づく。
……山ジイはどうしてここにいるんだ? そんな疑問がふと湧き上ってきた。
社会科の先生が放課後でも昼休みでもないこんな時間帯に体育館近くにいることが、とても奇異に感じられる。授業がないだけか? しかし教師は授業をするだけが仕事じゃない、普通だったら職員室で別の仕事をしているはずだ。
そして結論に至った。
……まさか、ぼくのロッカーに女性の下着を放り込んだのは山ジイの仕業じゃないだろうか? そして今、ぼくが持っているブツをこの場で暴いて、ぼくへ再起不能な精神的ダメージを与えようとしているのでは?
……山ジイが、《権益者たち》の工作員?
それなら、これまで起こった幾つかの出来事について納得いく説明がつく。
例えば、学校にかかってきたというぼくにまつわる幾つかの匿名怪電話。山ジイの一人芝居だったのでは? そして、食堂で毎日行われている、ぼくへの嫌がらせとしか思えない卵料理祭りも、教員の力を以てすれば、可能じゃないだろうか?
すると、今まで昼行灯のようにいるかいないか分からない山ジイの存在感も、感情がないお経のような声も、この学校で怪しまれず振る舞うための計算し尽くされた行動のように思えてくる。
冷や汗が背中を伝っていく。
「おい、どうした尾野? さっきから顔色が青いぞ」
無表情な山ジイが迫ってくる。
ヤバい。ここは逃げた方が良い? でもそれだと、ぼくが山ジイの正体を知ってしまったと教えるようなものだ、そうしたら山ジイはなりふり構わずぼくに襲いかかってくるかもしれない。ここは慎重にことを運ばないと。
「……そ、そうなんです。ちょっと体育で頑張りすぎて、さっきから気分が悪いんです。今から保健室へ行こうと思っていました」
ぼくはもう一歩後ろへ下がった。
「それは大変だ。……でも保健室は全くの反対方向だぞ?」山ジイが後ろを指差す。
「あ、ほ、本当だ! 目眩で方向感覚までなくなったみたいで」
「おい、相当危険な状態だぞ。顔も青い、声もさっきから台本の棒読みみたいだし、なんなら先生が付き添うぞ?」
ぼくに近寄ろうとした山ジイを、手を伸ばして押しとどめた。
「大丈夫ですから、じゃ、ぼく行きますんで……」
ぼくは片手でおでこを抑え、走るようにその場を後にした。




