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結局、ぼくのお昼は野菜ジュースだけで、空腹のまま午後の授業を耐え忍んだ。帰りのホームルールが始まる頃には空腹で目が回りそうだった。
……昨日も似たような状況だったな、最近食べ物運がないのだろうか?
そしてようやく放課後。今日もぼくと江麻さんは校舎の屋上にいた。人の多い時間帯を避けて帰るためだ。
屋上は、ぼくたち以外には誰もいなかった。江麻さんが色々手を回して人を遠ざけているのだろう。
「災難な一日、だったみたいね」
ぼくたちはフェンスにもたれかかるように二人並んで座っていた。空腹で立っているのも辛い。
「そ、それより江麻さん。姉ちゃんから弁当を預かってない?」
藁にも縋る思いでぼくは尋ねた。すると江麻さんは首を傾げて「弁当?」と答えた。
その様子から、姉から弁当を受け取っていないのは明らかだった。今日、迎えにきたのが彩夏じゃなかったので、姉は渡しそびれたのかもしれない。
ぐぐうぅ……、と、腹の虫が大きく鳴った。
「弁当はないけど……、これなら」江麻さんは鞄から黄色い箱が特徴のショートブレッド風栄養食品(プレーン味)を取り出した。「……食べる?」
「い、いただきます!」
溢れる涙を拭くことも忘れ頭を下げると、卒業証書授与のように両手で恭しく箱を受け取った。
そして一気にパクリ。「……み、水ぅ」
水分をほとんど含まない物を急いで食べたせいで、のどに詰まらせてしまった。
「馬鹿……」
江麻さんがミネラルウォーターのペットボトルを差し出してくれた。これもありがたく受け取って、喉に流し込んだ。
健康な高校生男子の腹を満たすには少々足りないが、それでも胃に何かが入ったおかげで少しだけ楽になった。
「ふーっ」と息をついて、水をもう一口飲もうとしたところ、ペットボトルから目が離せなくなってしまった。
……このペットボトル、未開封だったか? それとも既に開封済みだったか?
慌てていたから、全く覚えていない。力を入れて封を切ったかもしれないし、既にキャップは外されていたかもしれない。前者だったら、江麻さんにはあとでお代を払えばいいだけだ。しかし問題は後者だ。もちろんここで議論したいのは、飲んだ量がこれだけだから、お代はいくら支払わないと、なんて経済学上の些細な問題ではない。それよりもずっと重大な生物学上の問題が間の前に突き付けられたのだ。
もし既に開封済みで、江麻さんがいくらか飲んでいたのであれば、これは世に言う、間接キスというやつではないのか!
ぼくの視線に江麻さんが気付いた。
「どうしたの?」
「べ、べ、べ、べ、別に、な、何でもありません!」
慌ててそっぽを向く。
心臓が激しく動悸している。江麻さんといるたびにこんな展開ばかりだ。寿命が縮まる……。
「ところで健吾」真剣味を帯びた江麻さんの声が聞こえてきた。「今日の一連の出来事……」
「分かってるよ。《権益者たち》でしょ」
ぼくは鞄から一枚のルーズリーフを取り出した。そこにはパソコンから打ち出されたような活字で、
〈研究会を諦めろ、さもなければ続ける〉
と、あった。
「昼休み、教室に戻ったら机の引き出しに入っていた」
朝の画鋲に始まり、食堂の出来事まで全部《権益者たち》の差し金、というわけだ。画鋲はともかく、食堂を無理やり休みにさせ、購買で卵祭りを始めるなんて、恐ろしく壮大な、と言うよりも、
「い、陰険だなあ……」
と、偽らざる感想を述べる。
てっきり、最初の帰りの道で起こったような、車に轢かれそうになったり、動物の生首や白い粉が送り付けられたりするのかと思っていたけど、昨日の怪電話にしろ、彼らの脅迫、妨害工作はどれもこれも地味と言うかみみっちいと言うか……。
「妨害工作なんてこんなもんよ。これがじわじわとボディーブローのように効いてくるから。現に、今日だけでだいぶ疲れたでしょ?」
「……はい」
確かに今日一日だけでへとへとだった。もしこんなことが毎日続くと考えると、気が滅入りそうだった。
「でも《権益者たち》の手先がこの学校にいることはほぼ間違いない」
江麻さんの言葉に、ぼくは思わずごくりとのどを鳴らした。
学校内で様々な工作がされていることから、あまり考えたくはない話だけど、それが一番妥当な結論に思えた。
「わたしがその工作員を探し出してみる」
「できるの、そんなこと?」
「難しいけど、相手が行動すれば必ず痕跡を残すから、それを少しずつ集めていけば、不可能じゃない」
江麻さんの力強い声に、少しだけ安心感が湧いてきた。
でも江麻さんだけに押し付けることが正しいだろうか? ぼくにも何かできないだろうか?
「……なにか、ぼくに手伝えることはある?」
しかし、江麻さんは首を振った。
「健吾、素人の貴方には難しい。でも、今の状況をとにかく耐えて……。これは貴方じゃないとできないから」
悔しいが江麻さんの言うことはもっともだ。
ぼくは耐えるしかない。でもそれがぼくのすべきこと、ぼくだけができることだと言われると、少しだけ勇気が湧いてきた。
江麻さんに送られて自宅に帰ってきた。しかし、今日は家の中まで来てくれなかった。残念だ。
自室に入ると同時に、スマートフォンが震えた。
博士からの電話だった。
『ボンジュール、助手よ。ワシじゃ』
博士の上機嫌な声が聞こえてきた。
「博士、無事だったの!」
随分久しぶりに博士の声を聞いた気がする。とは言え、博士が逃げ出したのはまだ二日前なのだけど。
それでも博士の声を聞けて安堵の気持ちが半分、もう半分は……、
「なんでぼくを置いて逃げたんだ!」
逃げるならぼくも一緒に連れて行ってほしかった! 一人だけ逃げるなんてずるい。なんて薄情な博士だ。この人のせいで今日どれだけ苦労したことか!
そんなぼくの怒りに博士はただハッハッハッと笑うだけだった。
「博士、今どこにいるの?」
もちろん、ぼくも今からそこに行く、わけではないが場所ぐらいは知っておきたかった。
「まあそこそこ安全なところに身を潜めておる」
博士の声の後ろの方から、『……ほんに、博士さんはお強いどすなあ』と、上品な女性の声が聞こえてきた。三味線の音色もかすかにしている。
……場所は、詮索しない方がいいのかもしれない。
『ところで助手よ、そっちの方は大丈夫か?』
博士の声はいつになく穏やかで優しげだった。
その言葉にぼくの胸が熱くなる。……一人勝手に逃げ出しても、ぼくのことはやっぱり心配で、電話してくれたのだ。そんな博士の優しさに、ぼくも博士に心配をかけてはいけない、そんな気がした。
「いろいろ大変だけど、なんとか。江麻さんもいろいろ助けてくれるし」
『そうか、それは良かった』不意に博士が大声を出す。『……ん? 雑音が酷いのう』
確かに博士の声が途切れ途切れだ。でもそれは博士が電波の悪いところにいるだけだろう。
『ワシのことは案ずるな。自分の身のことだけを考えておけ」
「分かった。博士も気を付けてね」
『無論じゃ。じゃあ研究会の日に会おう……と言いたいところじゃが、助手よ、一つ頼みごとがある』
「何?」
いつもはぼくのことを顎でこき使う博士が、改まって頼みごとをしたいと言ってきたのだ、これは重要なことに違いない、近くにあったメモ帳と鉛筆を引き寄せて、聞き漏らすまいとスマートフォンを耳に強く押し当てた。遠くで女性たちの笑い声が聞こえ、その後、ガガガッと、一際大きな雑音が響いた。
『実はな、慌てて研究所を飛び出してきたものじゃから、懐が心許なくてな。ワシの口座にいくらか振り込んでくれんか?」
……その魂、さっさと悪魔に奪われてしまえ!
ぼくはすぐさま電話を切った。




