15
翌朝、今日も玄関扉のドアスコープからこっそりと外を覗いていた姉は、ぼくが階段を降りる足音に気づいて、振り返った。
「まさかあっちの彼女を選ぶとはねえ……、健吾も女泣かせだな」
その言葉から、外の光景がおおよそ想像ついた。
昨日、姉が帰ってきた時はこの世の終わりかと覚悟した。……やましいことなど(表面上は)何もなかったのだけど、姉になんと言われるか想像しただけで、首を吊りたくなった。
リビングに入ってきて、予想通り好奇な目を向ける姉に対して、あわあわと一人パニくっているぼくの横で、江麻さんは、きびきびとした動きで姉の前に立ち、「健吾くんのお姉さんですね。今度、健吾くんの高校に転校してきました、神宮寺江麻と申します。健吾くんにはこの街のことをいろいろ教えていただき、今も大変おいしい紅茶を淹れていただきました。これからもどうぞよろしくお願いいたします」と言って礼儀正しくお辞儀をした。その姿に、姉も毒気を抜かれた様子で「こ、こちらこそ、弟のこと、よろしくお願いいたします」と、お辞儀を返しただけで、それ以上詮索してこなかった。
あの姉を黙らせるなんて、江麻さんはやはり只者ではない、と思い知らされた。
勿論、江麻さんの本当のことは姉も含め家族には言えない。だから、姉の勘違いをむきになって否定して、深く問いただされるのも嫌なので、あいまいに返事をした。
「だから、昨日言った通り、ただのクラスメートだから……」
「こいつのどこがいいんだか……。まあ、女の怨念は怖いからな、気を付けろよ」
などと、未だ失恋から立ち直りきれない姉は、実に生々しい言葉を残して台所の方へ立ち去って行った。
玄関を出ると、家の前で江麻さんが一人立っていた。
彩夏はいない。なんだか不思議な感覚だった。ずっと目の前にあって気にも留めなかったものが、いざなくなった時の違和感に近い。
彩夏は怒っているだろうか?
……怒る? どうして?
そりゃ、ずっと習慣だったものを突如止めろと言われたら腹が立つだろうさ。
……それだけ?
分からない。でも彩夏を巻き込まないためには必要なことなんだ。全部終わったら説明すればいい。
一瞬、先ほどの姉の言葉を思い出し、ぶるっと体が震えた。
「寒いの?」と、江麻さん。
「そ、そんなことないよ!」
大きな声で言って、江麻さんの隣に並んで歩き出した。
「じゃあいいんだけど」
と、言って、江麻さんは突然ぼくの右腕を掴み、なんと、体を密着させてきたではないか。
「ちょ、ちょっと、江麻さん? こ、これは一体……」
どういうことでしょう? まるで昨日の続きじゃないか! 朝から血圧が急上昇で頭がくらくらしてきた。
「深い意味はないけど。こっちの方が、何かあった時に対処がしやすいから」
「な、何かあった時って?」
「この前みたいに、突然暴走自動車が突っ込んできたら、身を挺して庇えるし、こうやって……」
突然、江麻さんは民家の塀にぼくを押し付け、自らも両手を塀に押し当て、ぼくの体に覆いかぶさる格好になった。
「のあっつ!」
つい、意味不明な奇声を発してしまった。
江麻さんの両手に挟まれ、彼女の顔がすぐ目の前にあった。
このシチュエーション……。まさかこれが、夢見る乙女が死ぬまでに体験したい三大事象の一つ、《壁ドン》ってやつなのか!
しかし、普通は逆じゃないのか、壁ドンするほうがイケメン男子ではないのか? 確かに、江麻さんには宝塚の男装役のような凛々しさもあり、キラキラと輝く瞳、形の整った唇に吸い込まれそうになる。
「……と、まあ、こんな感じで、守るわけ」
江麻さんは体を離したが、その場から動けなかった。心臓は破裂しそうなほど激しく脈打っていた。
……なんとなく、乙女が憧れる理由が分かったような気がする。……ポッ。
「フフッ」と江麻さんは何やら意味深な笑みを浮かべると、ぼくの腕を引っ張って再び歩き始めた。
ぼくは研究者に連れ出される類人猿のように、すごすごと江麻さんの後ろをついていく。
いったい彼女は、何を考えているのだろう? 本当にぼくのことを保護対象以上の存在として見ているのか? ……気になってしようがない。
そんなわけで、登校中、ずっと江麻さんの横顔を見ながら、江麻さんはぼくのことをどう思っているか、昨日の仮説の続きを考えていた。状況証拠は積み重なっている、のだろうか? 江麻さんは大昔に流行った刑事ドラマの話をしていたが、さっぱり頭に入らなかったし、登校中の同級生たちがぼくたちを見てひそひそと何かささやき合っている姿も気にする余裕はなかった。
そうこうするうちに高校の昇降口に到着した。
未だ心ここにあらずのまま下駄箱から上履きを引っ張り出す。そして無造作に足を突っ込んだ瞬間、足裏がチクリと痛んだ。
「痛!」
思考が強制的に現実に連れ戻される。
慌てて上履きをのぞき込んだ。
そこには画鋲が入っていた。




