12
午後は何事もなく過ぎていった。
山ジイのお経授業があり、森川は昼ご飯を食べたばかりなのに、こっそりと牛乳パンをかじっていた。何でこいつはいつも何かしら食っているのに太らないんだろうか? 野球部で運動しまくっているせいなのか?
一方、ぼくは昼飯を食べそびれて腹ぺこだった。遅弁しようにも、肝心の弁当はいつも通り彩夏が姉から預かっているはずで、ぼくは持っていない。彩夏の教室まで貰いに行こうとも考えたけど、なんで昼休みに自分のところへ来なかったのか? と、厳しく詮索されるのは目に見えていたので、行くのは諦めた。
しかたなく森川にパンを少し分けてほしいと頼んだら、特に理由も聞かず、ただ親指を突き立てて、「友人が困っているときは助け合うのが当然じゃないか。だから尾野も友達が宿題やっていなくて困っていた時は、喜んで手を差し伸べるんだぞ」などと言ってきやがった。なるほど、持つべきものは友である。
牛乳パンで飢えを凌いで、なんとか午後を乗り切って、放課後を迎えた。ホームルームも終わり、部活へ行く者、帰る者、各々席を立つ。ぼくも席を立って神宮寺さんへ目を向ける。彼女は無言で小さく顎をしゃくってみせた。また屋上へ行けということだ。授業中に今度は彼女からメールがあって、帰宅者が集中する時間を避けて帰るという計画だった。
ぼくは神宮寺さんの横を素通りして一足先に教室を出る。そのまま屋上へ向かう階段へ向かおうとした時、ドタドタと大きな足音がこちらへ近づいてきた。振り返ろうと顔を上げた瞬間、ものすごい力で腕を引っ張られた。
彩夏だった。彼女はぼくの腕を掴んで、黙ったまま階段を駆け下りていく。ぼくは引きずられる形で、何度もつまずきそうになりながら、彩夏の後に続いて階段を下りて行った。
「おいおい、なんだよ、急に」
聞いても、彼女は無言のままだった。一階まで降り切って、初めて彩夏は足を止めた。急に立ち止まったものだから、危うく彼女にぶつかりそうになった。
彩夏が振り返る。
「何って、帰るに決まってるじゃない」
と、ぶっきらぼうな回答だった。
「えっと……、悪いけど、今日もちょっと用事があるんだ」
「……」
彩夏は黙ってぼくの顔を見据える。……うっ、目が怖い。
「あのう、聞いてます、彩夏さん?」
恐る恐る尋ねても、彩夏は黙ったままだ。
これは相当怒っているぞ。彩夏は怒れば怒るほど口数が少なくなるタイプだ。しかし何で怒っているのか? ……やっぱり、昼飯をすっぽかしたからかな。
「用って、何の用?」
ようやく、彩夏の口から一言発せられた。普段元気な口調だけに、いざ押さえつけたようなしゃべり方をされると迫力があった。
しかし、彩夏に凄まれても答えるわけにはいかない。博士の論文のせいで、怪しい連中に付け狙われていて、そんなぼくを守ってくれるためにやって来た神宮寺さんと今後の対策を相談して、護衛のために一緒に帰る、なんてスパイ映画みたいな話を聞かせて彩夏は信じてくれるだろうか?
……信じるかもな、彼女の趣味的には。「えっ、すごーい。あたしも混ぜて!」なんて平気で言ってきそうだ。
それよりも、彩夏が事情を知り、この事件に関わってしまうことの方が問題だ。何が起こるか分からない危険な状況に彩夏を巻き込みたくない。彼女だけではない。家族も学校のみんなも、巻き込みたくはない。これはぼくの問題だ——正確にはぼくもとばっちりを受けただけで、本当は博士の問題だけど。
「どうして何も言ってくれないの、ケンちゃん。あたし言ったでしょ。あたしはケンちゃんのお姉さんだから、困ったら何でも相談してって」
彩夏が、今度は怒っているというよりも懇願しているような口調で言った。
この言葉を聞いた時、ぼくの胸にもやもやとしたものが湧き上がってきた。
……お姉さん? こんな時までそんな言い方は止めてくれ。ぼくを子供みたいに扱わないでよ!
「ごめん、彩夏。ちょっと言えない。あと、しばらく一緒に学校へ行くのも、帰るのもやめよう」
その瞬間、元々大きな彩夏の目が更に大きく飛び出さんばかりに見開かれた。
「どう、して」
彩夏の声は震えていた。
「……」
心の中では彩夏を巻き込みたくないからだ、と言っていた。
……しかし、本当にそうなのか? ずっとべたべたとくっ付いてきてあたかも自分が姉のように振る舞う彩夏を最近うっとうしく思っていなかったか? ぼくのすることに一々口を出してきて。
別に誰と会おうと、誰と帰ろうとぼくの勝手じゃないか。ぼくも高校生。一々付きまとわないでほしい。
「まさか、あの転校生と関係があるの。……駄目、あいつと関わっちゃ」
「いいじゃないか、ぼくの勝手だろ!」
思わず叫んでしまった。彩夏は怯えたように顔を強ばらせ、ぼくの腕を掴んでいた手が力なく離れていった。
「とにかく、もう行かないと」
ぼくは踵を返して、駆け下りてきた階段を登り始める。
すると突然、背後で彩夏が甲高い声で叫んでいた。
「ケンちゃんの馬鹿! どうなっても知らないから!」
その言葉と同時に、ぼくの後頭部に衝撃が走った。
彩夏がぼくの弁当を投げつけてきたのだ。
米粒まみれの姿で屋上に登場したぼくを見て、さすがの神宮寺さんも驚愕した表情を見せた。しかしその後「男ってこういうことを何度も経験して、徐々に一流になっていくんだから」などと意味深なことを言って笑っていた。
ぼくはブレザーを脱いで、ちまちまと米粒を取り除きながら神宮寺さんの話を聞いていた。内容は昼休みに言われたことと大して変わらない。夜出歩くな、とか、緊張するかもしれないけどなるべく普通の生活を心がけること、などなど。
そして、何か変わったことがあったらすぐに神宮寺さんに連絡すること。その際電話はなるべく避けること、とも言われた。
「電話を避けるってどういうこと?」
ブレザーにくっついた残り僅かな米粒を指で弾きながら尋ねた。
「盗聴されるかもしれないから」
これまた、普段の生活では聞き慣れない単語が飛び出てきたぞ。本当にスパイ映画の世界に迷い込んだような気分だ。
「そうだ、一応見ておこうか?」
「見るって、何を?」
ぼくは首を傾げた。
「もちろん、尾野くんの家に盗聴器が仕掛けられてないか」




