#1
僕の住んでいるマンションは一階の入り口がオートロック式だ。中に入るにはパネルに鍵を差し込んで、エントランスの自動ドアを開けなければならない。
外出するときには当然鍵を持ち歩くので問題ないのだけど、ちょっとごみ出しに行くようなとき、鍵を忘れて締め出されてしまうことがある。何度もやって、気をつけないといけないということはわかっているのに、ポケットを探すと鍵を持っていないのだ。自分でもあきれてしまう。
自分のこういうところは直さなければならないと思っている。でも、そう思ったことすら忘れてしまうのだからどうしようもない。
ちなみに、今日もポケットの中には鍵が入っていなかった。
こういうとき、僕は隣の部屋の佐々木さんをインターホンで呼び出す。
佐々木さんは60過ぎのおじさんだ。白髪まじりで、いつも顔をしわくちゃにして笑っている。
廊下で会って、挨拶をするうちに話をするようになった。佐々木さんは僕の父親よりも年上なのに、少しも偉ぶるところがない。なんだか話も合うし、いつも暇そうだったから、ときどき食事に誘ったり遊びに行ったりしていた。
朝は自宅にいて、囲碁の勉強をする。昼からは碁会所に行って、夕方に帰る。それが佐々木さんの一日のスケジュールらしい。
「囲碁ってそんなに面白いんですか?」
とたずねたら、佐々木さんは、
「そうじゃないけど、家族がいないから、会社を退職したらそれくらいしかすることがなかったんだ」
と笑っていた。
「佐々木さん、佐々木さん。鍵を忘れて締め出されてしまいました」
僕はインターホンに向かって言った。
「あはは、わかりました。またやっちゃいましたね」
佐々木さんの声がして、エントランスの自動ドアが開いた。
外部からの訪問客のために、マンションの部屋にはオートロックの解除ボタンが備え付けられている。それを押してくれたようだった。
「ありがとうございます!」
と声をかけて、僕はドアに駆け込んだ。自動ドアはすぐ閉まるから、急いで入らないといけない。
自分の部屋に戻ると、僕はキッチンにおいてある菓子パンの山からいくつかを取って、佐々木さんのところへ向かった。マンションに入れてもらったお礼だ。
僕がパンを渡すと、佐々木さんは難しい顔になって、
「君はまだ学生なんだし、こんなことをして気を使わなくていいんだよ」
と言った。
佐々木さんはときどき、ちょっと頑固になる。
「私は年上なんだから」
とか、
「子供には子供の役割があるんだから」
とか言って、譲ろうとしなくなる。
威張り散らすわけでもないのに自分が年上だということにはやけにこだわる佐々木さんの考えは、よくわからない。でも、そういうときは佐々木さんに話を合わせるようにしていた。
特別に否定するようなことでもなかったから。
ただ、今回のパンはどうしても受け取ってもらいたかった。なにしろ次があるかもしれないのだ。お礼をしておいたほうが、次に頼むときも気が楽だ。
学生と言っても僕は大学生だし、パンはコンビニのアルバイトでもらったものだ。たくさんもらっているのでどうせ一人では食べきれない。
そうやって根気よく説明を続けているとようやく、
「じゃあもらっちゃうね」
と受け取ってもらえた。
***
「でも、オートロックって不便だよねえ」
佐々木さんが言った。
僕はいま、パンを渡した後引き止められて、玄関で立ち話をしているところだ。佐々木さんは話好きだから、顔を合わせると大体こういう流れになる。
「鍵がないと締め出されますからね。今日の僕みたいに……」
「うん、それもあるし、防犯にはあまり役に立ってないみたい」
「そうなんですか?」
と僕が尋ねると、佐々木さんは驚いた顔をした。
「聞いてないの? このマンション、何件か空き巣が入ったらしいよ」
「へえ、そうですか」
これは知らなかった。佐々木さんはどこからかこんな情報を仕入れてくる。
「うん。どうやってるのかわからないけど、オートロック、空き巣は入れちゃうんだ」
「意外ですね。オートロックだから、そういうのは安心だと思ってました」
エントランスの中に入るには、いちいち鍵をパネルに差し込まなければいけない。いちおう、鍵を忘れたときは僕のようにマンション内の住民に開けてもらうという方法もある。
どちらにしろ面倒くさいのだけれど、部外者が入れないので防犯という点では安心だ。僕はそう考えていた。
「それがいけないんだと思う。マンションの人たち、そういう油断があるから、自宅の鍵をかけ忘れたりして狙われるんだと思う。空き巣が入ったのはそういう部屋だったらしいよ。だから、君も戸締りは気をつけたほうがいい」
「そうします。でも僕のところは盗られるようなもの、ないですけど」
「あはは、なら心配ないか」
しばらくそんな話をして佐々木さんの部屋を出ると、廊下の奥で女性が騒いでいるのを見つけた。
30歳くらいだろうか。ゆったりとしたセーターにジーンズ姿。顔色は悪く、不健康そうな印象の女性だった。
「あ、開かない? 開かないわよ?」
と言いながらドアノブをガチャガチャひねっている。
その様子を見て、ああ、オートロックに締め出されてしまったのか、さっきの僕と同じだなあと思いかけて、いや待てそんなわけないと首を振った。
オートロックなのはマンションのエントランスだけで、部屋の玄関のドアは違うはずだ。
現に僕は、自分の部屋の鍵を持たずに佐々木さんのところに行っている。部屋のドアもオートロックなら、こんなことはできない。帰れなくなってしまうから。
それなら、この女性はいったいなんで騒いでいるのだろう、と思った。
「どうしたんですか?」
と声をかけると、女性は若干パニックになっている様子で、
「あの、これ、手紙」
片言になりながら手に持った画用紙を僕に見せてきた。
クレヨンで人間らしきものが描かれていて、横に「えみこおかあさん、はやくかえってきてね。まさはる」とひらがなが並んでいた。
それから女性はドアを指差した。ローマ字で「MINAMIEMIKO・MASAHARU」と書かれたプレートが吊り下げられている。
「うん。みなみ……えみこ……まさはる……。ここの子供が描いた絵ですか?」
「そう、これ、さっきうちのポストに届いて」
「あれ、ここの部屋の人じゃないんですか。知り合いですか?」
と聞くと、「うんん」と首を振る。知り合いではないようだ。
「ふーん? いたずらですかね」
「違う、……聞こえたの」
「聞こえた?」
「そう、子供の悲鳴、ここから」
「えっ」
僕もドアのノブを回してみたが鍵がかかっている。開かない。ノックして声をかけても何の反応もなかった。
「開きませんね」
「そう、開かないの」
「あっ、待ってください。僕、そこの部屋で」
と言いながら佐々木さんの部屋を指差した。
「いま、そこの部屋の玄関で立ち話をしてたんですよ。子供の悲鳴とか、聞こえませんでしたよ」
女性はそれを聞いてちょっとあっけにとられたような顔になった。視線がきょろきょろと空中をさまよっている。
それから、
「でも……えっと……空耳?」
と首をかしげた。
本人はふざけているつもりはないのだろうけど、その様子がおかしかったので笑ってしまった。
「たぶんそうでしょう。ほら……何も聞こえないですよ」
ドアの向こうは静かだった。人の気配もしない。
女性はしばらく考え込んで、それからうんうんと何度も頷いて、
「……そうかも……ありがとう」
と帰っていった。
女性はどうやら同じ階の住人らしい。ほかの階に住んでいるならエレベーターへ向かうはずだけど、反対のほうへ歩いていた。
ちょっと変わった人だな、と思いながら、僕はその女性の背中を見送った。
***
少しテレビを見てから、そろそろ大学に向かおうかと思って部屋を出ると、女性がさきほどと同じようにドアのノブをガチャガチャとやっていた。
僕に気づくと、ばつの悪そうな表情になった。なんとなく顔を見合わせて、あはは、と笑いあう。
やがてドアを開けようとするのをあきらめて、女性は帰っていった。途中、どうしても気になるのか、ドアのほうを何度も振り返っていた。
やっぱり変わった人のようだった。