2 出張の夜は煙る
上司視点です。
「明日からの大阪出張のチケットです」
机の上に置かれたのは新幹線のチケットとスケジュール表。
いつもなら必ず秘書が同行するので、チケットやスケジュールは全て同行する第一秘書が把握している。
だから、こんな形でチケットを渡されたのは初めてだった。
もしかして。
「君は?」
まさか同行しないつもりとか?
「今回は取引先との会合だけですから、まだ経験の浅いわたくしの同行は不要では?」
私の問いに不愉快そうに眉をピクリと跳ね上げながらも謙虚そうに答える。
「経験が浅いからこそ、一緒に来て欲しいものだが?」
嫌だと言われたらどうしよう?
内心ではビクビクしながら訊ねると、溜息を吐いた新任の秘書は「判りました」とだけ告げて出て行く。
やっぱり嫌われてるのかな?
急で強引な異動だったからなぁ。
それに彼女は辞めたがってたし。
でも、初めて廊下でぶつかった時の彼女のあの目つき。
女性からあんな視線を投げられたのは初めてだった。
入社して5年目で任されたプロジェクトが運よく大当たりしてから、何故か次々と怖いくらいに上手く進んで行く仕事に、与えられた役職は異常なまでのスピードで大きくなっていき、気づけば30代でCOOなんて分不相応な地位にまでになってしまった。
仕事は忙しく、結婚どころか恋人を作る暇もない。
言い寄って来る女達は、金目当てが咋で恐ろしい。
それに立場が上がるに連れて圧し掛かる巨大なプレッシャー。
ミスをしない様に務めるのが精一杯で、心が休まる暇が無い。
今まで上手くサポートしてくれていた第一秘書の内田さんの中国赴任が決まった時は、自分も辞めてしまおうかと真剣に悩んだものだった。
無口で冷徹そうな第二秘書の朝霧は何だか怖いし、適任そうな後任が見つからなければ、引退か転職を考えていた処で、出会った彼女。
小柄で地味な格好をしていたが、明るい色の髪と眼鏡の奥の瞳は大きくて可愛い感じなのに、あの蔑むような鋭い目つき。
いい年をして不覚にもときめいてしまった。
名前を聞いて調べてみれば、何故広報部に居るのか判らないような優秀な人材。
TOEICが900以上ならどうして海外事業部とか営業じゃないんだ?
英語以外はダメらしいが、あれだけ可愛ければ秘書室勤務だって可能な筈だ。
それに入社時に提出する書類に書かれていた保証人の名前。
人事と役員の一部以外は気づいていないかもしれないが、あの名前は前CEOの血縁者の筈。
彼女とどんな繋がりがあるんだろうか?
身元と実力の確かさを提示して、強引に内田さんの後釜につけたが、どうも嫌われているらしい。
ずっと傍に居て貰えば、少しは・・・と思ったのは甘かったのか?
あっさりと私の下心を見抜いた内田さんは「無理せず頑張って下さいね~」と無責任に応援するだけで、前途は多難だ。
明日からの出張で一緒に居る時間が増えれば・・・彼女も私の事を少しは見直してくれるだろうか?
「君の席は?」
新幹線に乗ると、彼女は私をグリーン席に置いて「では、わたくしはこれで」と立ち去ろうとした。
「急な事でしたのでわたくしの席はあちらの普通車両で取って在ります」
それに一般社員の出張旅費規定では指定席が相応ですし、と告げた彼女に、車掌を呼んで空いている隣の席を取らせた。
「秘書なら役員と同等の規定が認められている筈だ」
強引だったかな?
でも、離れた席に座って移動するんじゃ一緒に出張に来た意味が無いし。
憮然とした表情で彼女は隣に座った。
新大阪までの時間、私はいつものようにノートパソコンを取り出してメールのチェックと返信を行っていたが、静かな隣の席をチラリと見れば、朝が早かった所為か、彼女はスヤスヤと眠っていた。
か、可愛い!
いつもキャリアウーマンっぽく装う為か、無骨な感じさえする分厚いアセテートのフレームの眼鏡は彼女の鼻からずり落ちそうだが、そのお陰で長い睫毛が良く見える。
首を傾げて薄っすらと開いた唇は小さく、誘っているようにも見える。
キスしたいけど、こんな公衆の面前で・・・いや、グリーン車両はガラガラだけど・・・それでもこんな所で、そんな大胆な事なんて出来やしない!
それに寝込みを襲ってますます嫌われたらどうしよう?
チラチラと彼女の寝顔を見るだけで新大阪に着くまでの間はあっという間に過ぎた。
取引先数社との会合なんて挨拶回りみたいなもんだ。
役職が上がるに連れて、肝心な仕事よりもこう言った無駄に時間を割かれる付き合いが増える。
もちろん、挨拶だって大切だとは思ってる。
特に日本に於いては外資系と言えど、根回しや日頃の付き合いが後々の仕事に影響するのは自明の理だし。
だから気の遣い方も半端じゃない。
ああ、早く嫁さんを貰って家で癒されたい・・・出来れば田村さんみたいな可愛い人を。
夜になって、やっと終わった取引先回りにホッとして宿泊先であるホテルに辿り着く。
「お疲れさまでした」
田村さんから部屋の鍵を渡されて、折角二人で一緒のホテルに泊まるのに、このまま別れるのは嫌だな、と思いながらも、どうやって誘えばいいのか判らない。
「それでは明日の8時にお迎えに参ります」
自分の部屋に戻る彼女を黙って見送る事しか出来ないとは我ながら情けない。
だって、食事は会合で済ませてるし、初めての出張で彼女は疲れているかもしれないし・・・ホテルのバーで酒でも誘ってみるのはどうだろうか?
彼女は確かかなりイケるクチだった筈だ。
秘書室での歓迎会の時には、内田さんに勧められるままにグイグイとグラスを空けていたし。
よし!一緒に二人だけで酒を飲んで、上手く行けばそのまま部屋に誘って、今夜は・・・
頭の中でシュミレーションをしていたら、頭が煮えそうになって来たので、慌てて冷静さを取り戻すのに少し時間が掛かった。
お陰で、彼女の部屋の前に立ってノックをする時には、別れてから一時間は経っていた。
「はい?どうしましたか?」
ノックに応えた彼女は既に風呂を済ませたのか、浴衣姿で・・・濡れた髪と普段はスーツの下に隠れていた胸のラインが色っぽい・・・ドキドキしながら誘いの言葉を掛けようとした。
「良かったら・・・」
上のバーで酒でも一緒にと言い掛けて、部屋の中から煙草の匂いがする事に気付いた。
誰か部屋に居るんだろうか?
もしや、男が?
今日、彼女と回った得意先では彼女に色目を使うものや彼女の知り合いらしき人物に出会う事は無かった筈だが・・・まさか、待ち合わせしていたとか?
「誰かいるのかね?」
思いっきり不機嫌になった私の質問に、彼女は眉を顰めて「はあ?」と訝しげな声を上げた。
惚ける気なのか?
「失礼するよ」
腹が立った私は、強引にドアを大きく開いて彼女の部屋に押し入った。
狭いシングルルームは、ユニットバスの前の通路を数歩で過ぎれば、鏡台と小さなソファとテーブル以外はベッドだけ。
直ぐに見渡せる部屋の中には誰もいなかった。
ただ、ガラスのテーブルの上には、缶ビールと吸い掛けの煙草が灰皿の上で煙を上げていただけで。
缶ビールは数本出ていたが・・・彼女は喫煙者だったのか?
「何ですか?いきなり?」
私の後ろから彼女の苛立ったような声が聞こえて振り返る。
「あ、いや」
腕を組んで私を睨みつける彼女にどう言ったものか?
酒を誘うにも彼女は既に自分一人で飲んでいるようだし、バーに誘うにも着替えを強いるのは・・・嫌がりそうだな、この分では。
「明日の確認をしたいと思って」
苦しい言い逃れだが、私の言葉に彼女は呆れた様な溜息を吐いてから私を押しのけ、ビジネスバックから書類を取り出して私に突き出した。
「こちらをよくご確認ください。ご自分のお部屋で」
そう言って、私に出ていくように促した。
「一緒に・・・」
飲まないか?と誘い掛けたが「お疲れさまでした。お休みなさい」と笑顔で遮られ、私は大人しく自分の部屋に戻る事しか出来なかった。
その後、私は一人で彼女と同じ様に缶ビールを開けたが、酒にあまり強くない私は1本も空けないうちに眠ってしまった。
折角、一緒の場所に泊っているのに・・・何の成果も挙げられなかった。
こんな事で、彼女の気を引けるのだろうか?
ますます嫌われてしまったような気がするんだが。
前途多難だ・・・
上司は実はとってもヘタレで下僕気質?
蔑まれるような視線に一目ぼれって・・・M体質?
女王様とはお似合いですが、さてはて?
次は女王様の視点です