新人に「パワハラだ」と申告されました。自分も人事を逆にハラスメントで申告しました。
「桐生さんから、佐伯さんのご指導について、ご相談がありまして」
人事部の小会議室は、空調が効きすぎていた。
向かいに座った西岡係長は、ノートパソコンの画面と佐伯の顔を、交互に見ていた。どちらかといえば、画面のほうを長く見ていた。
「はい」
「ご本人は、パワーハラスメントを受けたと感じておられます」
佐伯は、手元の紙コップを見た。部屋に入ったときに出された麦茶で、まだ一口も飲んでいない。
「具体的に、僕が何をしたんです?」
「ええと、ですね」
西岡は、画面をスクロールした。
「十分な教育がないまま、難易度の高い案件を任された。質問しづらい雰囲気があった。トラブルのあとも、圧迫的な対応が続いた。……という認識だそうです」
「認識」
「はい」
「具体的には」
「ですから、今申し上げたような」
「いや、それって全部まとめですよね。いつ、僕が、何て言ったっていう話は」
西岡は、困った顔をした。困った顔のまま、ハンカチで額を拭いた。部屋は寒いのに。
「そのあたりは、今後、確認していく形になります」
「今後」
「はい。ただ、桐生さんは現在、体調を崩されてお休みされていますので。会社としては、まずそちらへの配慮を優先させていただいている、という状況でして」
佐伯は、麦茶を一口飲んだ。ぬるかった。
難易度の高い案件。
十分な教育がないまま。
質問しづらい雰囲気。
頭の中で、ひと月分のTeamsの画面をめくってみる。
どこにも、当てはまる場面が見つからない。
「……それ」
佐伯は、紙コップを置いた。
「僕の知ってる話と、だいぶ違いますね」
西岡は、返事をしなかった。
画面を、もう一度スクロールした。
◇
ひと月ほど前。
「佐伯さん。これ、何のためにやってるんですか」
桐生悠真は、顧客管理システムの入力画面から顔を上げずに言った。
四月に入ってきた新卒で、佐伯がOJTを担当している。都内の、名前を言えば誰でも知っている私大の出身だ。本人が、配属初日の自己紹介で三回言った。
「何のためって」
「顧客の担当者の内線番号とか、名刺の住所とか。これ、全部入れる必要あります? 名刺見ればよくないですか」
「名刺は、お前の机にしかないだろ」
「はい」
「お前が休んだ日に、その会社から電話来たら、誰が名刺探すの」
「……まあ、そうですけど」
桐生は、キーボードを叩き始めた。叩きながら、聞こえるか聞こえないかの声で言った。
「正直、これ僕じゃなくてもできますよね」
佐伯は、聞こえなかったことにした。
隣の島から、三浦がキャスター付きの椅子ごと滑ってきた。
六年目の後輩で、口が少し悪い。悪いのは口だけで、仕事は早い。
「佐伯さん、これ、明日の見積もりの件なんですけど」
三浦は書類を差し出しながら、目だけで桐生のほうを示した。
それから、佐伯にしか聞こえない声で言った。
「今年、ハズレ引きましたね」
「本人の前で言うなよ」
「言いませんよ。私だって社会人です」
今、半分言ったようなものだと思ったが、佐伯は黙って書類を受け取った。
その日の昼、三人で社食に行った。誘ったのは三浦だった。新人を一人で食べさせるのも何なので、と言って。
桐生は、日替わり定食の唐揚げを箸でつつきながら、三浦に聞いた。
「三浦さんって、どこの大学でしたっけ」
「急に何」
「いや、営業の人って、どういうとこ出てるのかなって」
三浦は、味噌汁を一口飲んでから、地元の短大の名前を言った。
「へえ」
桐生はそれだけ言って、続けた。
「佐伯さんは」
「俺?」
佐伯が地方の私大の名前を言うと、桐生は「あ、聞いたことあります」と言った。
三浦が、テーブルの下で、佐伯の靴を軽く蹴った。
社食を出たあと、三浦は佐伯の横に並んで、小声で言った。
「今の『聞いたことあります』、何点ですか」
「知らない」
「私、二点です。百点満点で」
◇
桐生は、頭は悪くない。
研修の最終発表では、役員の前で、配属希望の部署の改善案を十五分でまとめて喋った。資料もきれいだった。人事部長が「今年は当たりだ」と言ったらしい。
話も早い。こっちが説明の途中まで言うと、「あ、つまり、比較表つけて出せってことですよね」と先回りする。だいたい合っている。
ただ、細かいことをやらない。
議事録の日付を前の週のままにする。見積書の宛名の「御中」と「様」を間違える。顧客への返信を「あとでまとめて送ります」と言って、翌日になる。
指摘すると、「あ、すみません」と言う。それで終わる。次の週も、同じことをする。
「桐生。議事録、日付が先週のままになってる」
「あ、すみません。テンプレートからコピーしたんで」
「先週もそれ言ってたよな」
「……テンプレートの日付が、そもそも消しづらいんですよね。あれ、設定変えたほうがよくないですか?」
「そうかもしれないけど、まず今日のを直して」
「いや、根本的な話をしてるんですけど」
「根本の前に、今日の」
「……はい」
桐生は直した。直してから、隣の席で、聞こえる大きさで息を吐いた。
佐伯は、テンプレートの設定を変える方法を調べて、その日のうちに変えておいた。桐生は、それに気づかなかった。
「佐伯さん」
ある日、桐生がTeamsに書いてきた。隣の席にいるのに。
〈もう少し大きい案件をやらせてもらえませんか。定例業務だけだと、自分が成長している実感がなくて〉
佐伯は、画面を見て、それから横の桐生を見た。
桐生は、正面のモニターを見ていた。
その日の夕方、佐伯は森田課長の席に行った。
「課長。桐生が、もう少し大きい仕事やりたいって言ってまして」
「おお、いいじゃないか。やる気あって」
森田課長は、四十七歳で、腹回りと声が大きい。部下の話はよく聞く。細かい話になると、だいたい「まあまあ」と言う。
「何か一件、任せてみようかと思うんですけど」
「じゃあ、北陸物流の更新やらせてみりゃいいだろ。あそこは毎年同じだし。先方の担当も、うるさくないし」
「そうですね。僕が横で見ます」
「おう。悪いようにはしないから、伸ばしてやってくれ」
北陸物流は、十年来の顧客だ。年間契約の更新で、毎年秋に、利用ライセンス数の確認と、保守範囲の見直しと、見積もりの再提出がある。
手順は、ほとんど去年と同じでいい。ただ、先方の情報システム部と経理部の両方に、それぞれ別の確認を取る必要がある。毎年、そこだけ面倒くさい。
その夜、佐伯は残業して、共有フォルダに「北陸物流_更新_引き継ぎ」というフォルダを作った。
去年の見積書。去年のメールのやりとり。先方の担当者の一覧。確認の順番をまとめたメモ。経理部のほうの担当者が、毎年九月の最終週に休暇を取ることも書いておいた。
「何してるんですか、こんな時間まで」
帰り支度をした三浦が、後ろから覗き込んだ。
「桐生に、北陸物流の更新をやらせてみる」
「うわ、それで引継ぎのフォルダまで作ってあげるんですか?」
「作っとかないと、あいつ去年の資料探すのに半日かけるから」
「探させればいいのに」
「探してるあいだに締め切り来るんだよ」
三浦は、ふうん、と言って帰っていった。
帰りがけに、佐伯の机にのど飴を一個置いていった。
翌朝、佐伯はフォルダの場所をTeamsで送って、桐生の席に行った。
「北陸物流の更新、お前に任せる。資料は全部ここに入れてある。去年の流れ、一回見といて」
「ありがとうございます」
桐生は、ぱっと顔を上げた。こういうときの顔は、素直に嬉しそうだった。
「最初だから、分からないところあったら聞いて。特に、経理のほうの確認。あそこ、情シスとは別に取らなきゃいけないから」
「大丈夫です」
「先方に送る前に、一回見せて」
「分かってます」
分かってます、の言い方が、硬かった。
佐伯は、まあいいか、と思った。
◇
一週間後。
〈北陸物流、進捗どう?〉
佐伯がTeamsで聞くと、五分後に返事が来た。
〈問題ありません。予定どおり進めています〉
三日後にも、同じことを聞いた。
〈問題ありません。今週中に見積もり出せます〉
経理のほうは確認取れた? と打ちかけて、佐伯は消した。
問題ないと言っている。本人が任せてほしいと言った案件だ。あれこれ聞くと、また「信用されてない」という顔をされる。
その週の金曜、先方から電話が来た。
情報システム部の課長ではなく、経理部の部長だった。
「おたくの見積もり、もう情シス経由で稟議に回ったって聞いたんですけどね。保守範囲、去年から変えるなんて話、こっちは一回も聞いてないんですよ」
声が、受話器から漏れていた。
桐生は、経理部への確認を飛ばしていた。
情報システム部の担当者と話して、「保守範囲を少し広げたほうがいい」という話になり、その場で見積もりを作り直して、そのまま送っていた。値段が去年より一割上がっていた。経理部は、それを稟議の書類で初めて知った。
「経理の方には、情シスの方から話が行くと思っていて」
電話を切ったあと、桐生は言った。
「情シスの担当者、そう言ってましたし。僕から別にお伝えする必要はないかと」
「その担当者、経理に話すって言った?」
「……そういう感じでした」
佐伯は、時計を見た。三時半。
北陸物流の本社まで、電車で一時間半かかる。
「行くぞ」
「え、今からですか」
「今から」
◇
先方の会議室で、経理部長は四十分喋った。
途中で一度、机を叩いた。
佐伯は、そのたびに頭を下げた。桐生も、佐伯より半拍遅れて下げた。
見積もりは、去年と同じ保守範囲で出し直すことになった。広げる話は、改めて経理部と情シスの三者で相談する。再来週の水曜。
最後に、経理部長は、もう怒っていない声で言った。
「佐伯さんが来てくれたから、まあ、いいですけど。次からは、ちゃんと両方に話通してくださいね」
帰りの電車は、混んでいた。
二人で吊り革につかまって、しばらく何も話さなかった。
「原因、ここだな」
駅を三つ過ぎたあたりで、佐伯は言った。
スマートフォンに、共有フォルダのメモを出して、桐生に見せた。
「確認の順番。経理が先。情シスと話して内容が変わったら、変わった分をもう一回経理に。そこだけ押さえれば、今日のは防げた」
桐生は、画面を見ていた。
「次は、ここ確認すれば大丈夫だから」
「……はい」
桐生は、それきり何も言わなかった。
佐伯も、何も言わなかった。
大丈夫だったな、と言えばよかったのかもしれない。
初めてにしては、とか。あとになって、そう思った。そのときは、三者打ち合わせの資料を、誰が作るかを考えていた。
会社に戻ったのは、七時過ぎだった。
佐伯は森田課長に経緯を報告して、それから桐生にTeamsを一本送った。
〈今日はお疲れ。三者打ち合わせの資料、たたき台はこっちで作っとく。月曜に一緒に見よう〉
既読がついたのは、夜の十時過ぎだった。
返事は、来なかった。
◇
月曜日、桐生は来なかった。
火曜日も来なかった。
水曜日の朝、森田課長に呼ばれた。
「佐伯。桐生、しばらく休むってさ。診断書も出てる」
「……え。体調ですか」
「まあ、そういうことなんだろうな」
課長は、目を合わせずに言った。
「それでな。人事のほうから、ちょっと話があって。お前、北陸物流の件、しばらく桐生には連絡取らないでくれって」
「取りませんよ。休んでるのに」
「うん。あと、北陸物流も、いったん俺が持つ。お前は触らなくていい」
「来週の水曜、三者打ち合わせですけど」
「俺が出る。大丈夫、大丈夫」
「それと、OJT、いったん外れてくれって」
「……何でです?」
「いや、まあ、人事がそう言ってるから」
「人事が、何でそう言ってるんです?」
森田課長は、頭をかいた。
「なんか、桐生のほうから、相談があったらしくてさ。お前の指導のことで。いや、俺は、お前がおかしなことしてないのは分かってるよ。分かってるけど、調査終わりゃ分かるって。な? 今は黙っとけ。悪いようにはしないから」
佐伯は、何か言いかけてやめた。
課長に言っても、しょうがない気がした。
その日から、周りの空気が変わった。
隣の課の主任が、すれ違うときに目をそらした。朝礼のあとの雑談に、なんとなく入れてもらえなかった。営業事務の女の子が、いつもより丁寧に「佐伯さん、お疲れ様です」と言った。
誰も、何も聞いてこなかった。聞いてこないことが、いちばん居心地が悪かった。
翌週の火曜日の夜、九時過ぎに、佐伯のスマートフォンが鳴った。森田課長だった。
「おう、悪いな、こんな時間に。あのさ、北陸物流のフォルダって、どこにあったっけ」
「共有の、第一営業課の、顧客別の中です。『北陸物流_更新_引き継ぎ』」
「引き継ぎ、な。……あった。で、経理の部長さんの名前、何だっけ」
「メモの二行目に書いてあります」
「二行目。……おお、書いてある。お前、こういうの全部書いとくよな」
「はい」
「助かるわ。いや、これ、俺がお前に聞いてるのは内緒な。人事が触るなって言ってるから」
佐伯は、課長がこっちに触ってくるのはいいのか、と思ったが、言わなかった。
「明日、頑張ってください」
「おう。悪いようにはしないから」
電話が切れた。
何を、どう、悪いようにはしないのかは、最後まで分からなかった。
翌日の三者打ち合わせは、どうにか終わったらしい。
「お前のメモ読み上げたら、経理の部長さん、『あ、これ佐伯さんが作ったやつですね』って笑ってたぞ」と、あとで課長が言った。
その週、佐伯は一人で昼を食べた。社食の端の席は、窓から駐車場しか見えなかった。
唐揚げ定食は、いつもと同じ味だった。
金曜の昼休み、自販機の前で、三浦が缶コーヒーを二本買って、一本を佐伯に押しつけた。
「聞きましたよ。桐生君の件」
「早いな」
「営業事務の子が、ひそひそ言ってたんで。……佐伯さん、何したんですか?」
三浦は、半分冗談の顔で、半分本気の目をしていた。
「何もしてない、と思う」
「思う」
「俺の知ってる限りでは。資料渡して、進捗聞いて、トラブったから一緒に謝りに行った」
「それだけ?」
「それだけ」
三浦は、缶のプルタブを開けて、しばらく黙っていた。
「でも、相談されたってことは、何かはあったってことじゃないんですか」
「かもしれない」
佐伯は、缶を開けなかった。
「でもさ、三浦」
「はい」
「これ、もう俺やったことになってない?」
三浦は、缶を口に当てたまま、佐伯を見た。
OJTから外された。顧客にも連絡するなと言われた。課長は目を合わせない。
佐伯への事情聴取は、まだ始まってもいない。
「……なってますね」
三浦は、ゆっくり言った。
◇
翌週、社内メールが一通届いた。
〈件名:ご面談のお願い(人事部)
佐伯様
お疲れ様です。人事部労務課の西岡です。
先般より一部社員の方からご相談をいただいている件につきまして、関係者の方々に順次お話を伺っております。
つきましては、下記日時にてお時間を頂戴できますと幸いです。
なお、本件は現時点で何らかの判断を行うものではございませんので、ご安心ください〉
最後の一文を、佐伯は二回読んだ。
OJTから外して、顧客から外して、課長に口止めして、それでまだ何も判断していないらしかった。
◇
そして、人事部の小会議室。
「僕の知ってる話と、だいぶ違いますね」
佐伯がそう言ってから、西岡係長は、たっぷり十秒は画面を見ていた。
「佐伯さんのお気持ちも、分かるんですよ」
ようやく、西岡は言った。
佐伯は、持ってきたクリアファイルから紙を出して、机に並べた。
桐生とのTeamsのやりとりを印刷したもの。共有フォルダの作成日と更新履歴。去年の見積書の写し。〈もう少し大きい案件をやらせてもらえませんか〉。〈問題ありません〉。〈問題ありません。今週中に見積もり出せます〉。
「これ、全部、桐生君とのやりとりです。日付も入ってます」
西岡は、紙を見た。
見ただけで、手には取らなかった。
「ありがとうございます。参考にさせていただきます」
西岡は、ノートパソコンのほうに向き直った。
「ただ、佐伯さん。ハラスメントっていうのは、した側にそんなつもりがあったかどうかだけで決まる話じゃないんですよ」
「はい」
「受けた側がどう感じたかも、重要です。桐生さんは実際に苦痛を感じて、会社にも来られなくなっている。会社として、それを無視するわけにはいきません」
「それは、心配です。本当に」
佐伯は、西岡の言葉が切れるのを待ってから言った。
「でも、桐生君が体調を崩したことと、僕がパワハラしたことって、同じなんですか」
「同じとは申し上げていません」
「じゃあ、僕がOJTから外されて、北陸物流にも触るなって言われてるのは、何なんです」
「暫定的な措置です」
「暫定的に、僕は加害者ってことですか」
「そういうわけでは」
西岡は、ペンの頭で机を二度叩いた。
「佐伯さんも、大人なんですから」
声が、低くなった。
「ここは、一度、佐伯さんのほうから、言い方に配慮が足りなかった部分があった、というような形で、桐生さんにお伝えいただければ。それで、穏便に収まると思うんですよ」
「どの言い方です?」
「ですから、桐生さんが圧迫的だと感じられた――」
「どの発言です?」
「……」
「電車の中の『原因ここだな』ですか。それとも、『進捗どう?』ですか」
西岡は、また額を拭いた。
「佐伯さん。このまま、まったくお認めにならない、ということになりますと。今後の配置ですとか、そういったことにも、影響が出る可能性がありますので」
佐伯は、黙った。
西岡が、ほっとした顔をした。話が通じた、と思ったらしかった。
「今」
「はい?」
「認めないなら、配置に影響するかもしれないって、言いましたよね」
「可能性の話です」
「配置って、人事が決めるんですよね」
「……最終的には、そうですね」
「評価も?」
「可能性の、話です」
佐伯は、机の上の紙を、もう一度そろえた。
そろえながら、しばらく黙っていた。
「さっき、西岡さん、言いましたよね」
「……何をです?」
「本人が苦痛を感じてるなら、会社として無視できないって」
西岡の手が、止まった。
「僕、今の対応、かなりきついです」
「……え?」
「出した資料は見てもらえない。まだ調査中なのに、認めないなら配置や評価に影響するかもしれないって言われる」
佐伯は、紙から手を離した。
「なので、僕も正式に、ハラスメントの相談をさせてください」
「……は?」
「人事の対応についてです」
「いや、ちょっと待ってください」
西岡が、初めて佐伯の言葉を遮った。
「私を、ですか?」
「はい」
「いやいやいや。それは違うでしょう。私は人事として、必要な確認をしているだけですよ?」
「はい」
「佐伯さんを責めようとしているわけでもないですし。これは、業務ですから」
「桐生君のときも、会社からの指示で、僕は業務として指導してました。別に彼に暴言を言ったり、恫喝をしたり、彼の人格を否定するようなことを、少なくても故意にしたりはしていません」
「いや、それとこれとは――」
西岡は、そこで止まった。
「何が違うんです?」
「いや……だから」
西岡は、ペンを持った。置いた。ノートパソコンを閉じかけて、途中でやめた。
「私は、人事なんですよ」
「知ってます。だから相談してるんです」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、どういう意味です?」
西岡は、答えなかった。
しばらくして、声を落とした。
「佐伯さん。これ、わざわざハラスメント相談という形にすると、話が余計に大きくなりますよ」
「そうですか」
「そうですよ。今ここで、私と話せば済むことじゃないですか」
「桐生君にも、そう言ったんですか」
「……」
「相談にしないで、当人同士で話せって」
「それは……」
「言ってないですよね」
西岡は、額を拭こうとして、ハンカチがないことに気づいた。ポケットを二回叩いた。
「西岡さんが僕にハラスメントしたって、今ここで決めてほしいわけじゃないです」
佐伯は、言った。
「相談として受け付けて、調べてください。桐生君のときと同じように」
「……窓口が、私なんです」
「ですよね。なので、別の方でお願いします」
「いや、ちょっと……それは、私だけで決められる話じゃ」
「じゃあ、決められる人に回してください」
西岡は、返事をしなかった。
それから、机の上に目を落とした。
佐伯が並べた紙の、一番上の一枚を、初めて手に取った。
「今、見るんですね」
西岡の手が、止まった。
◇
小会議室を出て、エレベーターホールまで歩いた。
ボタンを押してから、一度だけ、長く息を吐いた。
ほんとに、めんどくさいな、と思った。
◇
「人事を?」
その日の夕方、給湯室で話すと、三浦はマグカップを持ったまま固まった。
「うん」
「ハラスメントで?」
「うん」
「……マジでやったんですか」
「やった」
「人事に?」
「人事に」
三浦は、本気で呆れた顔をした。
「佐伯さん、たまにすごいことしますね」
「向こうが、本人が苦痛を感じてるなら会社として無視できないって言ったから」
「はい」
「じゃあ俺のほうも、同じように調べてもらうだけ」
三浦は、マグカップを置いて、腕を組んだ。
「いや、でも……」
言いかけて、止まった。
「……待ってください」
「うん」
「人事って、異動とか、評価とか、そういうの決められるんですよね」
「決められるね」
「で、佐伯さんは今、調査される側で」
「そうだね」
「その人事から、認めないと配置に影響するかもって言われた」
「言われた」
三浦は、天井を見た。
換気扇が、低い音で回っていた。
「……あれ?」
三浦は、佐伯の顔を見た。
「今、立場強いのって、佐伯さんじゃなくて、人事ですよね」
佐伯は、答えなかった。
自分の湯呑みに、ポットのお湯を注いだ。
「うわ。え、待って。私、何故かハラスメント事案だから、申告があったら人事がどんな態度でも当たり前に受け入れないといけない、とか思いこんでいたかも」
三浦はため息をついた。
「最初、桐生君が何か人事に言ったなら、それは佐伯さんにも何か問題があったのかなって、ちょっと思ってたんですけど」
「知ってる」
「知ってたんですか」
「顔に出てたから」
三浦は、むっとした顔をして、それからマグカップを持ち直した。
「……あの、北陸物流のフォルダ」
「うん」
「佐伯さんが夜遅くまで残って作ってたやつ。あれ、私、見てますからね。のど飴置いて帰ったの、あの日ですよね」
「そうだっけ」
「そうです。聞かれたら、そう言います」
三浦は、コーヒーを一気に飲んで、熱っ、と言った。
◇
人事担当者が当事者になったことで、案件は西岡の手を離れた。
管理本部長の指示で、人事部の部長代理、高瀬真紀が調査を引き継いだ。念のため、顧問の社会保険労務士にも手順を確認したらしい。佐伯が聞いたのは、それくらいだった。
二週間で、記録が集まった。
桐生が自分から書いた〈もう少し大きい案件をやらせてもらえませんか〉。
森田課長の「北陸物流の更新やらせてみりゃいいだろ」課長は、聞かれて、思ったよりちゃんと答えたらしい。
共有フォルダの作成日時。中のメモの、経理部の確認に関する一行。
〈進捗どう?〉が二回。〈問題ありません〉が二回。
先方の経理部長からの、佐伯宛ての「先日はご足労いただき」から始まる礼のメール。
三浦の、「夜遅くまで残って、引継ぎ用のフォルダを作っていた」という証言。
桐生の申告書には、「業務に必要な資料は、ほとんど渡されなかった」と書いてあったらしい。
共有フォルダのアクセス記録には、桐生のアカウントが「北陸物流_更新_引き継ぎ」を開いた日時が、二回残っていた。
一回目は、佐伯がフォルダの場所を送った日の朝。二回目は、トラブルの翌日の、土曜の夜十一時だった。
高瀬は、佐伯との面談で、紙を一枚ずつめくりながら言った。
四十代の終わりくらいの、声の低い女性だった。西岡と違って、こちらを見て話す人だった。
「なるほど。で、資料は、この日にこのフォルダで渡したと」
「はい」
「本人は開いてますね。二回」
「……そうなんですか」
「二回目は、トラブルの翌日の夜です」
佐伯は、何と言えばいいのか分からなかった。
土曜の夜十一時に、一人でフォルダを開いて、経理の確認のメモを読んでいる桐生の顔を、少しだけ想像した。
「桐生さんの申告と、記録が、かなり違いますね」
「そうですか」
「佐伯さんのほうで、何か付け加えることは」
佐伯は、考えた。
「経理のほう、確認取れたかって、途中で一回聞けばよかったとは思ってます。新人なんで。本人が問題ないって言うから、それ以上聞かなかったんですけど」
「それは、指導の改善点ですね」
「はい」
「パワーハラスメントとは、別の話です」
高瀬は、それだけ言って、紙を閉じた。
結論が出たのは、月末だった。
佐伯の行為は、パワーハラスメントに該当しない。
OJT担当からの解任と、顧客への接触制限は、撤回する。
桐生がハラスメントの相談をしたこと自体について、処分はなかった。
一方で、北陸物流の案件での確認不足と報告の不備、それから会社への事実説明と記録との食い違いについては、指導記録が残された。
故意に嘘をついた、とまでは認定されなかった。本人の認識と記録が、大きく違っていた。報告書には、そう書いてあったらしい。
体調を崩していたこと自体は、診断書のとおり扱われた。それを嘘だと言う人間は、少なくとも佐伯の耳に届く範囲にはいなかった。
西岡係長も、ハラスメントには該当しないと判断された。
ただ、提出された資料を確認しなかったこと、調査の手順が適切でなかったこと、調査の途中で配置への影響をほのめかしたことについて、厳重注意を受けた。ハラスメント相談の担当から外れ、研修を受け直すことになった。
これは、あとで三浦が人事部の同期から聞いてきた話だが、西岡は高瀬に呼ばれたとき、最後にこう言ったらしい。
「でも、桐生さんが実際に休職されていた以上、慎重に対応するのは――」
「慎重にするのは、当然よ」
「でしたら――」
「でも、慎重にするのと、片方の話だけで進めるのは、別でしょう」
「……はい」
「佐伯さんの資料、いつ確認したの?」
「それは……」
「いつ?」
「面談の、後です」
「そう」
高瀬は、しばらく黙ってから、聞いたそうだ。
「じゃあ、面談の前に配置の話をした理由は?」
西岡は、答えられなかったらしい。
高瀬は、それ以上は何も言わずに、書類にハンコを押したそうだ。
◇
その週の木曜、佐伯はエレベーターで西岡と乗り合わせた。
二人きりだった。
西岡は、階数表示を見上げたまま、咳払いをした。
「……その節は、どうも」
「いえ」
「あの、私としても、決して佐伯さんを、その、悪く思っていたわけでは」
「はい」
「ただ、会社としては、ああいう状況ですと、どうしても休んでおられる方のほうを、ですね」
三階で、エレベーターが止まった。
人事部のある階だった。
扉が開いた。
西岡は、降りなかった。
「西岡さん」
「はい」
「僕の資料、結局、読まれました?」
西岡は、階数表示を見上げたまま、黙った。
扉が閉まった。
二階で、また開いた。
「……では」
西岡は、そこで降りていった。
佐伯は、閉まる扉の向こうを見送った。
◇
翌週、佐伯は、森田課長と高瀬に呼ばれた。
「これで、誤解も解けたということで」
森田課長が、いつもより明るい声で言った。
「桐生も、来週から復帰できそうなんだよ。会社にも残る。でな、佐伯。いろいろあったけど、ここは一回、関係リセットして、もう一回OJTを――」
「嫌です」
佐伯は、即答した。
森田課長が、口を開けたまま止まった。高瀬は、手元の紙から目を上げた。
「いや、でもな、もう誤解は解けたわけだし。お前、教えるのうまいじゃないか。フォルダとか、メモとか。あれ、俺も助かったんだよ、正直」
「知ってます。電話もらったんで」
高瀬が、ちらりと課長を見た。課長は、咳払いをした。
「いや、だからな、もう誤解は解けたわけだし」
「誤解が解けたことと、僕がもう一回担当することは、別ですよね」
「そりゃそうだけど。ほら、人手がな。今、第一営業課で、新人見られるのお前くらいしか」
「それ、会社の問題ですよね」
課長は、助けを求めるように高瀬を見た。
「……そうですね」
「え?」
「そこは、会社側で考えることです。佐伯さんにもう一度担当してもらう前提で考える話では、ないでしょう」
課長は、口を開けて、閉じた。
「桐生君をどうするかは、会社で決めてください。辞めさせろとかは、思ってないです」
佐伯は、言った。
「ただ、僕はもう担当しません」
部屋が、静かになった。
高瀬が、紙を一枚めくった。
「桐生さんの配置は、こちらで検討します」
森田課長は、何か言いたそうな顔で、結局「まあ、そうだよな」とだけ言った。
◇
翌月の初め、三浦は経費精算の書類を持って、三階の総務部へ下りた。
書類を出す相手は、総務課の黒田さんだ。
三浦が入社したときには、もう黒田さんだった。たぶん、今の部長が入社したときにも、もう黒田さんだった。
総務部に入ると、黒田さんの机の前に、総務部長が立っていた。
「黒田さん、悪い。この備品発注、今日中に――」
「無理」
「まだ最後まで言ってないんだけど」
「今日中でしょ」
「……何で分かるの」
「顔」
「そこを何とか」
「昨日持ってくればできた」
「昨日は役員会だったんだよ」
「知らないよ」
「昼、おごる」
黒田さんが、初めて顔を上げた。
「蕎麦?」
「蕎麦」
「天ぷら?」
「つける」
「じゃあやる」
「ありがとう」
部長は、ほっとした顔で去っていった。
入れ替わりに、若い男性社員が小走りでやってきた。
「黒田さん、会議室Bのエアコンが――」
「リモコンの電池。二段目」
「まだ何も言ってないんですけど」
「昨日から三人目」
「……ありがとうございます」
男性社員は、黒田さんの机の後ろの棚の、二段目の引き出しから電池を出して、走っていった。
三浦は、机の端に書類を置いた。
「黒田さん、これお願いします」
「そこ」
それから、窓際の、ずっと誰も使っていなかった机に、桐生が座っているのに気づいた。
机の横に、段ボール箱が三つ積んである。
桐生は、ファイルを一冊持って、心底つまらなそうな顔をしていた。
「黒田さん。これ、どう分ければいいんですか」
「見りゃ分かるでしょ」
「年度なのか、取引先なのかって話です」
「両方。背表紙に書いてあるじゃん」
「……全部ですか」
「箱三つでしょ。百箱あったら私も考えるけど」
桐生は、段ボールの中を覗き込んで、ため息をついた。わざと聞こえる大きさだった。
「僕、一応、営業採用なんですけど」
「知ってる」
「じゃあ、何でこんな仕事を――」
「営業の仕事でやらかしたから、こっち来たんでしょ?」
黒田さんは、自分の書類から目も上げずに言った。
「じゃあ、今はこれが仕事」
桐生は、黙った。
人事の通達は、三浦も見ていた。
顧客対応で確認と報告に不備があったため、営業の単独担当からいったん外し、基礎業務を総務部付きで行う。期間は三か月。申告の件は、一言も書いていなかった。
しばらくして、桐生が一枚の表を持って立ち上がった。
「これ、確認お願いします」
「ん」
黒田さんは、表を受け取って、上から指でなぞった。
「合ってる」
「……それだけですか」
「何が?」
「いや……」
「合ってるのに、何で文句言うの」
桐生は、表を受け取って、窓際へ戻った。
戻りながら、聞こえる大きさで言った。
「正直、こういうのって、誰でもできる仕事ですよね」
「できるよ」
「だったら――」
「でもあんた、できてないじゃん」
黒田さんは、ようやく顔を上げて、桐生の机の上のファイルの山を、ペンの先で指した。
「それ。令和五年度と六年度、混ざってる。三冊目から」
桐生は、ファイルを見た。
耳が、赤くなった。
「……僕、一応、明央大出てるんですけど」
「知ってる」
「……知ってるんですか」
「履歴書、回ってきたからね。で?」
「いや、こういう作業するために――」
「明央大って、令和五年度と六年度の見分け方は教えないの?」
「は?」
「三冊目から混ざってるよ。大学の話は、それ直してからにして」
「そういう言い方――」
「学歴の話、始めたのあんたでしょ」
三浦は、自分の書類を見下ろして、唇を噛んだ。
吹き出しそうだった。
桐生は、ファイルを机に置いた。置き方が、乱暴だった。
「正直、こういう仕事、僕じゃなくてもできますよね。もっと効率的に、僕に合った仕事を――」
「さっきから、僕は僕はってうるさいねえ」
黒田さんは、ペンを置いた。
「誰でもできる仕事は嫌」
指を、一本折った。
「明央大出てる」
二本目。
「営業採用だ」
三本目。
「仕事できない理由じゃなくて、仕事しなくていい理由ばっか探してるじゃん」
総務部が、静かになった。
奥の席の誰かが、キーボードを打つ手を止めた。
「……その言い方、さすがにハラスメントじゃないですか」
三浦は、思わず息を止めた。
黒田さんは、桐生を見た。
「そう思う?」
「思います」
「じゃあ、相談しな」
「……え?」
「人事。今の時間と、私が何言ったか、書いときな。私も聞かれたら、そのまま全部言うから」
黒田さんは、ペンを持ち直した。
「あ、盛らないでね」
「は?」
「私、だいたい覚えてるから」
黒田さんは、三浦の書類に判子を押した。
押してから、二枚目をめくって、眉を寄せた。
「三浦。これ、日付違う」
「えっ」
「直して」
三浦は、書類を受け取った。日付が、先月のままだった。
黒田さんは、ついでのように窓際へ声を投げた。
「桐生君。さっきの交通費の集計、一件、四十円合ってない」
「四十円くらい――」
「じゃあ、君が四十円入れときな」
「え?」
「四十円くらいなんでしょ。自分の金だと惜しい? 会社の金も同じ」
窓際で、桐生が何か言いかけて、やめたのが見えた。
それから、段ボールに手を突っ込んで、三冊目のファイルを引っぱり出していた。
三浦は、総務部を出た。
エレベーターを待ちながら、さっきの「じゃあ、相談しな」を思い出していた。言われた桐生の顔も。
◇
「西岡さん、ハラスメントの担当、外れたらしいですよ」
給湯室で、三浦がコーヒーの粉をすくいながら言った。
「そうなんだ」
「ハラスメントで人を指導しようとして、ハラスメントで申告し返された人ですからね」
三浦は、スプーンを持ったまま、考えた。
「ハラスメント・ハラスメントの……ハラハラさん」
「本人の前で絶対言うなよ」
「言いませんよ。私、社会人なんで」
「今の、ちょっと言いそうな顔だったけど」
三浦は、聞こえなかったふりをして、マグカップにお湯を注いだ。
「桐生君、黒田さんのとこらしいですね」
「知ってる」
「私、新人のとき、経費精算四回返されましたからね、黒田さんに」
「何間違えたの」
「一回目は日付で、二回目は金額で、三回目は勘定科目で」
「四回目は」
「判子が薄いって」
背中のほうから、声がした。
「薄かったんだから、しょうがないでしょ」
「うわっ」
三浦が、マグカップを取り落としかけた。
黒田さんは、自分の湯呑みにお茶を注いで、何も言わずに出ていった。
佐伯は、それを見送ってから、自分のカップを洗った。
「佐伯さん、今日は定時ですか」
「帰る」
「珍しい」
「しばらく、人の面倒見なくていいらしいから」
三浦が、佐伯の顔を見た。
「なんか、嬉しそうですね」
佐伯は、答えなかった。
カップを水切りかごに伏せて、給湯室を出た。
自分の机に戻ると、メールボックスに、北陸物流の経理部長から一件、メールが来ていた。
来月の三者打ち合わせの日程だった。
佐伯はそれに返信して、カレンダーに入れて、パソコンを閉じた。
「佐伯さん」
振り返ると、三浦が廊下の自販機の前にいた。
手に、缶コーヒーが二本あった。
一本を、佐伯のほうへ放ってよこした。
「何」
「祝杯です」
佐伯は、缶を受け取った。
「缶コーヒーで?」
「いいじゃないですか。もう勤務時間じゃないんだし」
「何に乾杯するの」
三浦は、考えた。
「定時退社?」
「しょぼいな」
「じゃあ、無事生還」
「大げさ」
「文句多いですね。返してください」
「やだよ」
佐伯は、プルタブを開けた。
三浦が、それを見た。
「今日は、開けるんですね」
佐伯は、一瞬だけ三浦を見た。
「ぬるくなるから」
一口飲んだ。
三浦も、自分の缶を開けた。
「じゃ、お疲れさまでした」
「お疲れ」
お互いの缶が、小さくぶつかった。
(了)




