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無能と罵られた令嬢は、隣国の黒狼公爵にその頭脳を見初められ、世界で一番甘く愛される~私を捨てた祖国は、もはや手遅れです~  作者: 九葉


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第三話

ヴォルフシュタイン公爵領に移り住んでから、一年が過ぎました。

私の人生は、あの日を境に、まるで違う色に塗り替えられたかのようです。


「ソフィア様! 新しい水路のおかげで、今年は日照りが続いても畑が潤っています!」

「さすがは我らが聖女様だ!」


領地の民は、私のことをいつしかそう呼ぶようになりました。

カイゼル様は、私の提案を何一つ疑うことなく、全て実行に移してくれました。

古文書の知識を応用した灌漑システムの構築、天候データを分析した上での最適な農作物の輪作計画、そして、これまで未開の地とされていた北の山脈を越える、隣国との新たな交易路の開拓。


私が「こうすればもっと良くなる」と地図を指させば、次の日にはカイゼル様が最高の技術者と潤沢な予算を用意してくれる。

私の知性が、何の障害もなく、ただ純粋に人々の幸福のために活かされていく。

それは、胸が震えるほどの喜びでした。


痩せ細っていた土地は大陸有数の穀倉地帯へと変わり、公爵領は目覚ましい発展を遂げました。

いつしか『賢者クロノス』の正体がヴォルフシュタイン公爵夫人ソフィアであるという事実は大陸中に知れ渡り、人々は私を「黒狼公爵に知恵を授ける若き賢婦」と称えました。


「……また難しい顔をしているな」


書斎で報告書に目を通していると、背後から優しい声がかかり、肩に温かい毛布がふわりとかけられました。

振り向くと、そこにはカイゼル様が心配そうな顔で立っています。


「カイゼル様。いえ、あなた。お仕事中では?」


「ああ。だが、私の愛しい妻が根を詰めすぎていないか、見回りに来た」


そう言って、彼は私の隣に腰を下ろし、私の手からそっと書類を取り上げます。

そして、労わるように、私の指先に自らの指を絡めました。

戦場では鬼神と恐れられる彼の、大きくて武骨な手が、今は世界で一番優しいものに感じられます。


「無理はするなと言っているだろう。君が倒れたら、私が困る」


「うふふ、心配性ですわね。でも、嬉しいです。……あなた」


「なんだ?」


「わたくし、今、とても幸せです」


心からの言葉でした。

彼に見つけてもらうまで、私の人生は灰色でした。

けれど今は、こんなにも色鮮やかで、温かい。


彼が、私の努力を、私の価値を、見つけてくれたから。

彼が、私を心から信じ、愛してくれるから。


カイゼル様は何も言わず、ただ愛おしげに目を細め、私の髪を優しく撫でてくれました。

言葉はいりません。その眼差しだけで、彼の深い愛情が痛いほどに伝わってくるのです。


――そんな穏やかな日々は、一通の国書によって、終わりを告げました。


「……アレクシス殿下が、親善大使として、我が領地を訪問したい、と?」


カイゼル様の執務室で、私は眉をひそめました。

差出人は、私の祖国、クライデル王国。

一年前に私を捨てた国からです。


この一年、クライデル王国が凋落の一途を辿っているという噂は、嫌でも耳に入ってきていました。

私が去った後、誰も国の経済を立て直すことができず、凶作が重なったことで深刻な食糧危機に陥っている。

外交でも失策を重ね、周辺国から孤立しつつある、と。


(親善大使、ですって? 見え透いた嘘を…)


その真の目的は、火を見るより明らかでした。


そして数日後。

やつれた顔をしたアレクシス殿下が、私の前に姿を現しました。

隣には、以前の輝きを失い、どこか怯えたような表情のマリア嬢が寄り添っています。


「ソフィア…! 会いたかった…!」


アレクシス殿下は、再会するなり、私の手を取ろうと駆け寄ってきました。

しかし、その手が私に触れる寸前、カイゼル様が一歩前に出て、冷たい視線でそれを制します。


「――我が妻に、気安く触れるな」


「くっ…カイゼル公爵…。私は、ソフィアと話をしに来たのです」


「話ならば、私も聞こう。貴殿が今更、何の用だ」


カイゼル様の威圧感に気圧されながらも、アレクシス殿下は必死の形相で私に訴えかけました。


「ソフィア、私が間違っていた! どうか国へ戻ってきてはくれないか!? 君がいなければ、この国は…!」


「お断りいたします」


私は、彼の言葉を遮り、間髪入れずに、きっぱりと告げました。

その声は、自分でも驚くほど、冷たく、穏やかでした。


「なっ…なぜだ! 君をあれほど侮辱したのは、このマリアに唆されたからなんだ! 全ての元凶はこの女で、私は騙されていただけなんだ!」


「殿下!?」


マリア嬢が、顔面蒼白になって悲鳴を上げます。

ああ、まただ。

この方は、いつだってそうです。自分の過ちを認めず、全てを誰かのせいにする。

一年前と、何も変わっていない。


「もう一度、やり直そう、ソフィア! 君を、私の妃として、正式に迎え入れると約束する! 君のその素晴らしい頭脳が、今こそ国に必要なんだ!」


彼の必死の言葉に、私の心は、もはや一片たりとも揺らぎませんでした。

私は、静かに微笑んで、彼に問いかけます。


「殿下。あなた様が必要としていらっしゃるのは、本当に『ソフィア』という人間なのでしょうか?」


「…どういう、意味だ?」


「あなた様が求めているのは、国の問題を解決してくれる、都合のいい『道具』ではありませんこと? かつて、あなた様が『女子供の戯言』と一笑に付された、あの論文のような」


私の言葉に、アレクシス殿下の顔から血の気が引いていきます。


「殿下。今、王国が直面している食糧危機は、私が五年も前から、治水工事の不備と旧態依然とした農業政策の危険性を指摘していたものですわ。外交の孤立は、私が考案した周辺国との融和策を、あなた様が『弱腰だ』と蹴り飛ばした結果です。全て、あなた様ご自身が招いたこと」


「そ、それは…」


「わたくしは、もうクライデル王国の人間ではございません。この方の妻であり、ヴォルフシュタイン公爵領の人間です。わたくしの知性は全て、愛する夫と、この地の民のために使うと誓いました」


私は、そっとカイゼル様の腕に自分の腕を絡めました。

彼は、力強く、そして優しく、私の手を握り返してくれます。

その温かさが、私の決意をさらに固くしました。


アレクシス殿下は、最後の望みを託すように、声を絞り出します。

「ま、待ってくれ! 君の家族が…! クライフォルト公爵家が、国で苦しい立場に置かれているのだぞ! 君が戻らなければ、どうなるか…!」


それは、卑劣な脅しでした。

けれど。


「あら、ご心配には及びませんわ」


私は、くすりと笑って、彼にとどめの一撃を放ちました。


「父や母、そして我が家の者たちは、半年前から、このヴォルフシュタイン領に移住しておりますもの。父は今、カイゼル様の農業顧問として、それは生き生きと働いておりますわ」


「な……なんだと…!?」


絶望に染まるアレクシス殿下の顔は、実に見物でした。

彼の切り札は、もうどこにも残っていません。


私は、氷の微笑を浮かべたまま、はっきりと宣告しました。


「あなた様が、婚約破棄を宣言し、わたくしの心を、長年の努力を、全て踏みにじった、あの日。

いいえ――わたくしが差し出した数多の忠告を、あなた様がそのプライドのために、一度でも聞き入れていれば、未来は変わっていたやもしれません。

ですが、あなた様はそうしなかった」


一歩、彼に近づく。

そして、その耳元で、囁くように、けれど誰よりも残酷な真実を告げました。


「もう、手遅れですのよ。王子殿下」


膝から崩れ落ちるアレク...

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