第二話
「――この女の価値も分からぬとは、随分と節穴な王子がいたものだ」
絶対零度の声が、アレクシス殿下の顔面を無慈悲に張り倒しました。
殿下は、生まれて初めて自分以外の人間から公然と侮辱されたかのように、顔を真っ赤にしてわなわなと震えています。
「き、貴様…! いかに隣国の公爵とはいえ、王族である私に向かって無礼であろう!」
「無礼?」
黒狼公爵――カイゼル・フォン・ヴォルフシュタイン様は、心底おかしいというように、片方の眉を吊り上げました。
その血のように赤い瞳が、射殺さんばかりの光を帯びてアレクシス殿下を捉えます。
「国家の至宝となり得た女性を、根拠もなき嫉妬と痴情のもつれで断罪し、公衆の面前で辱める。その愚行こそ、我が国に対する、いや、この大陸全ての国々に対する『無礼』ではないのか?」
「なっ……!?」
ぐうの音も出ない、とはこのことでしょう。
カイゼル公爵の言葉は、単なる個人への非難ではありませんでした。
ソフィアという人間を、「国家の損失」というレベルにまで引き上げて断罪したのです。
アレクシス殿下では、到底太刀打ちできるはずもありません。
(……この方、一体何を仰って…? わたくしが、国家の至宝?)
わたくしは、目の前で繰り広げられる光景を、ただ呆然と見つめることしかできませんでした。
なぜ、あの冷酷無比で知られる黒狼公爵が、わたくしを庇うような素振りを見せるのか。
接点など、あるはずもないのに。
周囲の貴族たちも、手のひらを返したように囁き合っています。
「まさか、黒狼公爵がソフィア様を…?」「一体どういうことだ…?」
先ほどまでの嘲笑は鳴りを潜め、今は困惑と恐怖が渦巻いていました。
カイゼル公爵は、もはやアレクシス殿下など存在しないかのように無視を決め込むと、その赤い瞳をわたくしに向けました。
先ほどの凍てつくような厳しさはどこへやら、その眼差しには、不思議なほどの熱が宿っているように感じられます。
「ソフィア・フォン・クライフォルト嬢。――いや、『賢者クロノス』と申し上げるべきか」
「……っ!」
その名を聞いた瞬間、わたくしの心臓が、大きく、痛いほどに跳ね上がりました。
『賢者クロノス』
それは、わたくしが三年前に、身分を隠して王立アカデミーの学術論文大会に提出した際のペンネーム。
テーマは、『持続可能な食糧供給と物流改革に関する考察』。
当時のこの国は、数年に一度の不作のたびに、地方の民が飢えるという問題を抱えていました。
その状況を憂い、解決策を論文としてまとめたのです。
結局、その論文は「机上の空論」「女子供の戯言」と一笑に付され、賞を取るどころか、誰の記憶にも残らなかったはず。
なのに、なぜ。
「な、なぜ、その名を…」
震える声で尋ねると、カイゼル公爵は、まるで愛しいものを見るかのように、その唇の端をわずかに持ち上げました。
「なぜ、だと? 探したからだ。三年間、ずっと」
彼は、懐から一枚の羊皮紙を取り出しました。
それは、わたくしが提出した論文の写しでした。所々が擦り切れ、何度も読み返されたことが一目でわかります。
「貴嬢のこの論文は、我が領地を救ってくれた。いや、我が国そのものを、だ」
カイゼル公爵の領地は、痩せた土地が多く、常に食糧難に苦しんでいたと聞きます。
「この論文に書かれていた、輪作農法の改良案、そして天候に左右されない貯蔵技術と効率的な輸送路の確保。全てを試した。結果、我が領地の穀物収穫量は三年間で五倍に増え、民が飢えることはなくなった」
彼の言葉に、会場が大きくどよめきました。
アレクシス殿下も、マリア嬢も、信じられないという顔でわたくしを見ています。
(あの論文が…そんなことに…?)
わたくし自身が、一番信じられませんでした。
誰にも認められず、書庫の片隅で埃を被っているだけだと思っていた、自分の努力の結晶。
それが、海を越えた隣国で、多くの民を救っていた。
じわり、と目の奥が熱くなるのを感じます。
今まで、誰にも褒められたことなどなかった。
妃教育で完璧な成績を収めても、「公爵令嬢なのだから当然」と言われ、
国の未来を案じても、「女は黙って刺繍でもしていればいい」と笑われるだけ。
この胸の奥に積み重なっていた、誰にも理解されない孤独と諦めが、カイゼル公爵の言葉によって、少しずつ溶かされていくようでした。
「わたくしは、ただ…当たり前のことをしたまでですわ」
「その『当たり前』ができる者が、この大陸に何人いる? その類稀なる知性を、先見の明を、持ちながら腐らせているこの国は、愚かとしか言いようがない」
カイゼル公爵は、論文の写しを懐にしまうと、驚くべき行動に出ました。
彼は、その場に、すっと片膝をついたのです。
黒狼公爵が、わたくしの目の前で。
騎士が主に忠誠を誓う、最も敬意のこもった作法で。
そして、わたくしの右手を取り、その甲に、恭しく唇を寄せました。
「ソフィア・フォン・クライフォルト嬢」
彼の赤い瞳が、まっすぐにわたくしを射抜きます。
その瞳に映るのは、紛れもない、一人の女性としての『ソフィア』でした。
公爵令嬢でも、王子の元婚約者でもない、ありのままのわたくしを。
「貴女のその頭脳を、その魂を、私に預けてはくれないだろうか」
「……え?」
「私の妃となり、私の隣で、共に国を創ってほしい。私が剣となり、貴女を守ろう。貴女は知性となり、私を、我が国を導いてくれ」
これは、求婚…?
あり得ません。
つい数分前まで、わたくしは国中の笑い者だったのです。
婚約者に裏切られ、濡れ衣を着せられ、価値がないと断じられた女。
それなのに、この方は。
大陸最強と謳われる英雄が、わたくしを「導いてくれ」と。
「ま、待て! 待ってくれ、カイゼル公爵!」
それまで呆然としていたアレクシス殿下が、慌てて二人の間に割って入ろうとします。
その顔は焦りで歪んでいました。
「そ、ソフィアは、まだ私との婚約が…! いや、その…、先ほどの婚約破棄は、誤解だったんだ! そうだ、マリアの嘘に騙されただけで…!」
「殿下っ!?」
今度はマリア嬢が悲鳴を上げます。
アレクシス殿下は、いとも容易く、先ほどまで腕の中にいた彼女を切り捨てました。
あまりの見苦しさに、会場からは失笑すら漏れています。
(……ああ、なんて愚かな方。あなたという人は、最後まで)
わたくしが本当に欲しかったのは、地位でも名誉でもありませんでした。
ただ一人でいい。
わたくしの努力を、わたくしの本質を、理解してくれる人が欲しかった。
それだけだったのに。
カイゼル公爵は、立ち上がると、わたくしを自分の背に庇うようにして、アレクシス殿下に冷たく言い放ちます。
「聞こえなかったか、王子殿。貴殿は先ほど、彼女との婚約を『破棄した』。ならば、彼女は今、自由の身だ。誰に求婚しようと、誰の手を取ろうと、貴殿に口出しする権利はない」
「ぐっ…!」
正論でした。
彼は、自分の手で、唯一の宝物をゴミ箱に捨てたのです。
そして、その宝物が、自分には到底手の届かない高みへ行こうとしている。
カイゼル公爵は、再びわたくしに向き直りました。
その瞳は、ただひたすらに真摯でした。
「ソフィア嬢。返事を聞かせてほしい。もちろん、考える時間は必要だろう。だが、私の想いだけは信じてほしい。私は、貴女という人間そのものを、心から欲している」
彼の言葉に、嘘はありませんでした。
政略でも、同情でもない。
彼は、わたくしの価値を誰よりも理解し、必要としてくれている。
わたくしは、ゆっくりと顔を上げました。
そして、いつも貼り付けていた完璧な淑女の仮面を外し、心の底からの、ほんの少しだけ戸惑いを含んだ微笑みを、彼に向けました。
震える指先で、彼が差し伸べてくれた、大きくて武骨な手を取ります。
「……喜んで、お受けいたしますわ。カイゼル・フォン・ヴォルフシュタイン公爵様」
その瞬間、わたくしの新しい人生が、幕を開けたのです。
カイゼル公爵は、満足そうに微笑むと、わたくしの手を引いて、毅然と会場を後にしようとします。
その背中に向かって、アレクシス殿下が何か叫んでいるのが聞こえましたが、もう、どうでもいいことでした。
去り際、カイゼル公爵は、足を止め、振り返りもせずに、ただ一言、凍てつくような言葉を投げかけました。
「宝石の価値も分からぬ者に、国を治める資格はない。貴国がこの『頭脳』を失った代償は、いずれ払うことになるだろう」
それは、未来を予言する、冷酷な宣告でした。




