第一話
「ソフィア・フォン・クライフォルト公爵令嬢! 俺は貴様との婚約を、今この場を以て破棄する!」
王立アカデミーの卒業を祝う、きらびやかなシャンデリアが輝く大広間。
その中央で、私の婚約者である第二王子アレクシス殿下が、高らかにそう宣言しました。
彼の隣には、潤んだ瞳で王子を見上げる、庇護欲をそそる小動物のような令嬢――マリア・ベルンシュタイン男爵令嬢が、彼の腕にしがみついています。
(……ああ、やっぱり。この日が、来てしまいましたのね)
周囲から突き刺さる、好奇と侮蔑と、ほんの少しの同情が入り混じった視線。
扇で隠された口元が、意地悪く歪んでいるのが見えます。
わたくしは背筋を伸ばし、完璧な淑女の笑みを顔に貼り付けたまま、内心で静かにため息をつきました。
驚きは、ありません。
むしろ、ようやくか、という安堵すらありました。
この茶番のために、わたくしは一体どれほどの時間を無駄にしてきたのでしょう。
「ソフィア! 聞いているのか!?」
「はい、アレクシス殿下。よく聞こえておりますわ」
芝居がかった彼の声に、わたくしは表情一つ変えずに応えます。
感情を殺し、ただ事実だけを受け止める。
次期王妃として、幼い頃から骨身に叩き込まれた処世術です。
(あら、マリア嬢。そんなに震えて、まるでわたくしが悪者のようですこと。……まあ、そういう筋書きなのでしょうけれど)
心の中で冷静にツッコミを入れながら、目の前の二人を観察します。
アレクシス殿下は、燃えるような金髪に空色の瞳を持つ、絵画から抜け出してきたような美しい方。
けれど、その美しい見目に反して、中身は驚くほど空っぽだということを、わたくしは誰よりも知っていました。
「貴様という女の、その冷たい態度が俺は昔から気に入らなかった! いつもいつも、表情一つ変えず、まるで能面のようだ!」
(能面? 失礼ですわね。あなたのあまりに稚拙な国政に関する質問に、目眩を堪えていただけですのに。あの時、わたくしが笑顔で『素晴らしいご慧眼ですわ!』とでも言えば、ご満足でしたか?)
「それに比べてマリアは、どうだ! いつも笑顔を絶やさず、俺の心を温かくしてくれる! 愛らしく、可憐で、太陽のような女性だ!」
殿下がマリア嬢の肩を抱き寄せると、彼女は「そんな、もったいないお言葉ですわ…!」と頬を染めて彼の胸に顔を埋めます。
会場のあちこちから、「まあ、なんてお似合いのお二人…」「それに比べてクライフォルト令嬢は、いつも氷のようで…」という囁き声が聞こえてきます。
ええ、ええ、そうでしょうとも。
わたくしは、太陽にはなれません。
あなた方が夜会で愛を囁き合っている間、わたくしは書斎に籠もり、この国の治水計画の問題点をまとめた報告書を作成していました。
あなた方が温室で甘いお茶を楽しんでいる間、わたくしは高騰する小麦の価格を安定させるための経済政策を、匿名で財務卿に提出していました。
あなた方が詩を詠み、愛を育んでいる間、わたくしは、次期王妃として、この国の未来を、民の生活を、ただひたすらに考え、学び、身を粉にして働いてきました。
そのすべてを、アレクシス殿下、あなたの治世を支えるために。
「ソフィア。貴様は公爵令嬢という立場にあぐらをかき、努力を怠ってきた。その上、愛らしいマリアに嫉妬し、彼女を階段から突き落とそうとしただろう!」
(……は?)
予想通りの展開に、さすがのわたくしも眉がぴくりと動くのを止められませんでした。
階段から、突き落とす?
わたくしが?
いつ、どこで?
「まあ、殿下…! もう、おやめくださいまし! ソフィア様は、きっとわざとでは…わたくしが、ソフィア様のドレスの裾を踏んでしまったのがいけないのですから…!」
マリア嬢が、いかにも健気に、涙ながらに訴えます。
その言葉に、周囲の貴族たちは「なんてお優しい方なんだ…」「それに比べてソフィア様は、なんて恐ろしい…」と、完全にマリア嬢の味方につきました。
ああ、なるほど。
そういうこと。
先日、マリア嬢が階段で足を滑らせたという噂は耳にしていました。
幸いにも軽い捻挫で済んだとか。
まさか、その原因がわたくしに仕立て上げられるとは。
(濡れ衣もいいところですわね。そもそも、その日、わたくしは王宮の書庫で古文書を読んでおりましたのに。アリバイは完璧です)
けれど、今、この場でそれを主張したところで、誰が信じるでしょう。
王子の寵愛を一身に受ける、か弱く愛らしい男爵令嬢と、
「氷の令嬢」と揶揄される、無表情で可愛げのない公爵令嬢。
どちらの言葉に真実味があるかなど、火を見るより明らかです。
わたくしは、ゆっくりとアレクシス殿下に向き直り、カーテシーの礼をとりました。
「アレクシス殿下。事実無根の罪状、謹んでお受けいたします。このソフィア・フォン・クライフォルト、殿下との婚約を、ただ今この時を以て、解消させていただきますわ」
「なっ…!?」
わたくしが、少しの涙も見せず、あっさりと受け入れたことが意外だったのでしょう。
アレクシス殿下は、一瞬、虚を突かれたような顔をしました。
ですが、すぐに気を取り直し、勝ち誇ったような笑みを浮かべます。
「ふん、物分かりが良くて助かる。いいか、ソフィア。お前はもう俺の婚約者ではない。クライフォルト公爵家も、王家との繋がりを失うのだ。せいぜい、今後の身の振り方を考えることだな!」
それは、脅しでした。
王子の婚約者という立場を失えば、わたくしだけでなく、我が公爵家も苦しい立場に追いやられることになる。
そうすれば、わたくしが泣いて縋ってくるとでも思ったのでしょうか。
(残念でしたわね。お飾りの王子妃になるよりも、家の領地経営に専念する方が、よほど有意義というものです)
父であるクライフォルト公爵は、温厚ですが、少々人が良すぎるのが玉に瑕。
わたくしが裏で手綱を引かなければ、とっくに悪徳商人にいいようにされているでしょう。
「ご忠告、痛み入ります。それでは殿下、マリア嬢、どうぞ末永くお幸せに」
これ以上、この場にいる意味はありません。
最大の侮辱を受けた後でも、完璧な淑女として、優雅に去る。
それが、クライフォルト公爵家に生まれた女の矜持です。
踵を返し、一歩、踏み出そうとした、その時でした。
「待て」
低く、静かで、けれど有無を言わせぬ威厳に満ちた声が、大広間に響き渡りました。
その声に、今までわたくしを嘲笑っていた貴族たちのざわめきが、ぴたりと止まります。
まるで、水を打ったように静まり返る会場。
アレクシス殿下も、マリア嬢も、そしてわたくしも、声のした方へと視線を向けました。
そこに立っていたのは、一人の男性。
夜の闇を溶かし込んだような黒髪。
血のように赤い、射抜くような鋭い瞳。
軍服に身を包んだ長身の体躯は、鍛え上げられた鋼のようでした。
その姿は、まるで戦場を支配する、孤高の狼。
この国で、彼を知らぬ者はいません。
隣国、ガルヴァニア王国の英雄。
若干二十代にして公爵の位に就き、その卓越した武勇と冷徹な頭脳で、国境の蛮族を瞬く間に平定した稀代の天才。
―――“黒狼公爵”カイゼル・フォン・ヴォルフシュタイン。
敵には死を、味方にすら恐怖を与えると言われる、あまりにも有名な、そして恐ろしい人物。
彼がなぜ、我が国の卒業パーティーに…?
カイゼル公爵は、誰にも目をくれず、ただまっすぐに、わたくしだけを見つめていました。
その赤い瞳が、何を考えているのか、まったく読むことができません。
彼は、静寂を切り裂くように、ゆっくりと歩を進め、わたくしの目の前で止まりました。
そして、信じられない言葉を、その場にいるすべての人間に向かって、はっきりと告げたのです。
「この女の価値も分からぬとは、随分と節穴な王子がいたものだ」
その声は、絶対零度の刃のように、アレクシス殿下のプライドを、容赦なく切り裂きました。
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