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夏が覗く

作者: Yoi


 雨音が響く。

 遥か遠い記憶に、しとしとと降る雨の。

 忘れ去った古傷に、ぺたぺたと張り付く雨の。

 色を失った心に、ぽたぽたと落ちる雨の。



 ほとんどの生徒が帰路につく中、僕は図書室の窓から校舎の外を眺めていた。


 乾いた地面を深く色付けるように降る雨に、なぜか心が落ち着く。

 窓についた雨粒が重力に従って流れ、描かれる歪んだ景色にどこか親しみを感じる。


 今週はずっと雨だ。

 傘を持って家を出ることが、靴を履くくらい当たり前になった。


 今朝、登校時に傘立てにさした傘は、おそらくまだ乾いていないだろう。

 そんな些細なことを考えながら、今日も雨空を眺めていた。



 引き戸の開く音がした。

 振り向かなくても、誰が入ってきたか僕には分かっていた。


「今日もここにいるんだね」


 僕の声よりもずっと高く、透き通った声が耳に届く。


「君こそ、今日も来たんだね」


 声のする方には目を向けず、目を逸らしたところで変わらない外の景色を見つめたまま、そう彼女に言った。


 すると彼女は、何も言わずに僕の隣の席に腰を掛けた。


 ふと目に入った右腕には、今日も変わらず包帯が巻かれていた。

 その下に隠された肌を、僕はまだ覗こうとしたことがない。


 彼女とこうして言葉を交わすのも、次第に僕の日常になりつつある。


 初めの頃は、ひとりの時間を邪魔されたような嫌悪感があった。

 それに、彼女の明るく優しい性格や、僕とは釣り合わないほどの美貌に戸惑いを隠せなかった。


 けれど今では、彼女と過ごす時間が、心の拠り所になっているとさえ感じている。


「もうずっと雨だね」


 机に置いた腕に頬を預け、外の景色を見つめながら、彼女がぽつりとこぼした。


「梅雨だからね、仕方ないよ」


「雨の季節って大変なんだよね。湿気で髪はぼさぼさだし、蒸れるし」


 顔を仰ぐような仕草とその言葉で、また右腕の包帯が目に入ったが、すぐに視線を逸らした。


「雨、嫌いなの?」


 不服そうな表情を浮かべる彼女に、僕は何気なく問いかけた。


「そうじゃないけど、晴れの方が好き。それに雨上がりの空って綺麗じゃない」


 外の景色を眺めながら、晴れ間を想像する彼女は少し楽しそうだった。


「それ何してるの?」


 彼女は、僕の手元に広がる教科書と書きかけのノートに視線を落とし、指をさしながら尋ねてきた。


「テスト勉強だよ、来週から始まるでしょ。君はしないの?」


 まるで先ほどまで真面目に取り組んでいたかのように、三行しか書かれていないノートに、文字を書き始める素振りを見せた。


「ああ、テストね。あんなの授業をちゃんと聞いてれば解けるよ」


 僕の中で彼女は、いわゆる〈天才〉という分類に入る存在だ。

 試験の度に順位表が貼り出されるが、彼女の名前が上位に載っていなかったことは一度もない。


 そんなふうに自信ありげに言う彼女だが、僕は知っている。

 休み時間に教室で勉強に勤しむ彼女の姿を。

 だから、問いかけずにはいられなかった。


「じゃあ、いつも教室で勉強してるのは?」


「よく見てるね。あれは受験勉強だよ」


「受験勉強? 早くない? まだ二年生だよ?」


 僕は驚いて、持っていたシャープペンシルをノートから離し、彼女の方を見た。

 すると彼女も僕の声に少し驚いたが、すぐに笑って言った。


「そんなこと言ってると、痛い目見るよ。一年と半年なんてすぐなんだから」


 まだ二年生も半ばだというのに、彼女はすでに行きたい大学を決め、受験に向けて対策を始めているらしい。

 それに比べて僕は、普段の成績は良くない上に、先日配られた進路希望調査の用紙も、まだ真っ白なままだ。


「それに、早く大人になりたいから」


 情けなくなる僕に目もくれず、再び窓に目を向ける彼女の眼差しは強く、熱を帯びていた。



 しばらくして、図書室の戸締りをしに用務員さんがやってきたので、僕たちは仕方なく帰る支度をし、下駄箱へと向かった。


「雨少し止んだんじゃない?」


 先に靴を履き替えた彼女が、校舎から空を見上げて言った。

 僕はその声を追いかけるように、小走りで向かった。


 傘立てにさしていた傘は、やはりまだ乾いていなかった。


 空を見上げたまま、立ち尽くす彼女に「一緒に入る?」と声をかけるべきか迷いながらも、勇気を振り絞っていると、そんな僕の気持ちを振り払うように、彼女は傘も差さずに走り出した。


 優しく降る雨の中、彼女は踊るようにはしゃいでいる。

 僕の方を振り返った彼女は、この雨の中、まるで真夏の太陽のように明るく微笑んでいた。


「早く晴れないかなあ」


 空に手を伸ばし、楽しそうに言葉を放つ彼女に、僕の胸の鼓動は高鳴ってゆく。


 鼓動をかき消すように、僕も傘を傾け空を見上げたが、彼女の見る空と僕の見る空とでは、どこか違うように思えてならなかった。


 僕は傘の外へと手を伸ばした。

 降り注ぐ雨を、そっと手繰り寄せるように。


 この先僕を置いて、見えない場所まで進んでいってしまいそうな彼女に、怖さを覚えている。

 その屈託のない笑顔に、どうしようもなく心が逸る。


 それでも僕はまだ、大人になりたくないんだ。


 だからこの薄灰色の空に願う「雨よ、まだ止まないで」と。

 それでも君は笑うんだろう「夏が来るね」と。

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― 新着の感想 ―
いやー、いいですね、この作品! 読んでいて、色合いの爽やかなアニメ映像のようなものが脳裏に浮かびました。 描写も、いいですね!
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