リリの想定外
「は、はい!」
リリの声はひっくり返った。相手がこんな明け方に起きるなんて思わなかったのだ。
そんな彼女はおそるおそる振り返り、男がこちらを見ている事くらいは見て取った。日も昇る前なので、薄暗がりでは男の顔立ちなどろくにわからないし、それは相手も同じに違いなかった。
彼女からすると、仕事を放棄してしまったので申し訳なさと身の置き所のなさがあったが、彼が起き上がり、冷や汗の流れるリリに問いかけてきた。
「あなたは、この国をどう思っている?」
いきなりやたらに規模の大きな話をされ初めて、娘は目を白黒させた。いきなり何を言い出すのだと本気で思ったのだ。
リリからすると、国をどう思っているなんて考えた事もない規模の話で、毎日の食事や安全な寝床の確保の方が大事なものだった。
そのため、ちょっと言葉に詰まったリリは、とりあえずと言う調子で口を開いた。
「平和であり続けて欲しいな、と思うくらい? あって当たり前の物に対して、思い入れがどうこうと言う話にはならない……です」
「この国の人間を憎むと言う感情は?」
「えーっと、答えに困る問いかけという……ますか、人間なんて誰か一人くらいは憎んでいる物でしょう、それが人間という生き物では」
リリはない知恵を振り絞って答えた。大真面目に答えたのだ。
彼女は憎いと思う人間がさほどいない。そもそも憎むほど密な関係の人間をあまり持たないのだ。旅の団で生きると、ほとんどの街の人間とは浅い関係になるわけで、憎いと思うほどひどいことをされる回数も減るわけだ。
他の踊り子仲間達は知らないが、リリはそう言う考えを持っていた。
そしてこの返答に、相手は何か考えた様子だった。
「そうか。あなたはこの国が平和であって欲しいと願い、憎む相手は居ないと」
「あ、はい」
「わかった。考えを聞けてありがたい、礼を言う」
そう言って彼が立ち上がる。立ち上がると薄暗がりでも十分にわかる鍛えられた肉体が目に映り、うわ、いい体だ……とリリはちょっと見惚れた。
そして話題がこんな話題なので、夜の相手が出来なかったことはうまい具合に無視してもらえそうだ、違約金問題に発展しなさそう、と娘は内心で安心した。拾ってくれて、今まで食べさせてくれたありがたい団長や他の団員達に迷惑は掛けられない。
「俺はもうここを出る。あなたはもう少し休んでいろ」
「はい」
一晩のことに言及されないままで居られますように、とリリは祈り、彼が身支度を調えて去って行くのを見守ったのだった。
そして、ふわふわのお布団の上に座り、そこから倒れ込んで、どっと押し寄せてきた緊張からの疲れに、大きく息を吐き出したのだった。
「え、私は……その、お姫様の専属の踊り子として雇われたと……? 団長に依頼して、個別で?」
一晩の仕事が終わり、団に戻るのだと思っていたリリに通達されたのは、そんな内容だった。
なんでも、この国の第三王妃の一人娘である、お姫様がリリの踊りを気に入って、専属で雇いたいと団長達に言って、それが叶えられたそうである。
そういう所は事前に連絡して欲しいとリリは思ったが、旅の踊り子なんて安定した場所で生活できる身の上である方が珍しく、誰か身分の高い人間に気に入られたら、それだけで人生が一変する職業でもある。
そのため、団には帰れない、というか雇われ先が変わったと言われたリリは、そんなものか、と一人納得した。自分の外側であれこれ変わるのにも慣れていたからだ。
「姫様は、隣国との和平のためにお輿入れなされて、心細い身の上でいらっしゃるのだ。そこでお前が姫様を慰めるために、団から引き抜かれたというわけだな」
そう、偉い人の身なりをした男性に言われて、彼女はそんな物かと頷いた。
団の皆と会えなくなるのはさみしいが、旅の踊り子ってさようならが人生という生き方でもあるのだ。
こんなこともあるだろう。リリはそこに文句を言う考えを持っていなかった。
「あ、手紙を送ることは。……出来ませんね、そもそも団長がどこで公演をするか、いまだに方向性がわからないんですし」
「そうなる。お前は姫様に心からお仕えし、姫様のお悩みが軽くなるように努めるのだ」
踊りを見ている間だけは、気分が安らかになるように精進しろという事だな、とリリは判断し、なんと前日、ひっそりと結婚式を隣国の身分の高い男性と挙げたのだというお姫様の侍女や使用人が乗る馬車に、自分も乗ることを承諾したのだった。