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ようやくこの日が来た。リオ・ノースブルックは金属製の門の前で皺を伸ばすように襟に触れた。実際、ところどころほつれのあるシャツは一度もアイロンがけされたことがないのだから気休め以下である。
王都で職業訓練を受け始めてから約一年が経った今日、リオは、この門の向こう側にあるメイオラス王国立高等学院兵士科の入学試験を受験する。役人の方々曰く、かつてリオは記憶を失った状態で王都を彷徨っていたらしい。役所にはそういったわけありの人間を保護して仕事を斡旋する仕組みがあり、リオは兵士の適性を見出された。兵士は常に募集しているが、兵士科に入学すればその時点で兵士見習いとしての給金とキャリアを得られる。一般常識や実践的な魔術の知識を問う一次試験と、試験官との模擬戦闘を実施する二次試験で選抜される。丁寧に指導してくださったのだ、身元不明の自分を助けた国に恩を返すため結果を出さなければならない。リオの心は決意に燃えていた。
鞄の肩紐をぎゅっと握って正門をくぐると、左手に警備の詰所があり、整えられた庭園が広がっている。入場者を迎えるようなコの字型のレンガ造りの建物、その正面玄関は若者でごった返していた。出願者の身分がばらばらである兵士科の試験会場への道はリオと同年代であろう男性が多い。その中でリオが比較的小柄でみすぼらしいなりをしているからか、訝し気な視線を向けられながら、一次試験会場の教室へと足を進めた。
百人以上座れそうな階段状の教室が、既に半分ほど埋まっている。受験番号を見るにリオはこの教室で一番最後だから、出入口の目の前にいればよさそうだ。そう思いながら椅子に置いた鞄からインク瓶とペンを取り出そうとしていると、視界の端を光る曲線が通った。何となく周辺視野に留めておくと、それは、リオの左斜め前にやってきた人物の長い金髪だった。
女性だ。
あのひとに気付いている受験者たちの頭は、その感想でいっぱいだろう。記憶が無く、常識と呼ばれるものについては拾ってくださった役人の方々に施されたものしか知らないリオも、兵士の多くが男性であることは分かっている。リオのようなほとんどのひとが男だと思うような身なりではなく、長髪を低く編んだ、体の線が柔らかい女性だ。だからあの女性が注目されているのは当然だと、リオも分かっている。
しかし、リオが感じているのは女性が現れたことへの驚きではない。彼女がここにいることそのものへの驚き、いや、自分が彼女を知っている気がしてならないことへの驚きだ。
失くした記憶の中に彼女がいるのだろうか。それならそれで構わないはずなのに、今込み上げる焦りは何なのだろうか。
震える手が、いつの間に置いたのだろう、机上のインク瓶を倒していた。
落ちる――さっと冷えた背筋が反応してくれて、どうにか瓶を割らずに済んだらしい。屈んだリオの手がしっかりと瓶を握っている。頂いたインクを使えなくするなど、許されないことだ。
「――ッ」
ほっとしたのもつかの間、黒い液体がリオの指と袖を染めていく。瓶の蓋の隙間から、インクが漏れ出ている。リオは慌てて瓶を机上に戻して右手を挙げた。この手では、どこにも触れられないと思ったのだ。学院の備品を汚して《施設》の方々に迷惑をおかけするわけにはいかない。これ以上頂いた服や鞄を汚すなどもってのほかだ。
「あの、大丈夫ですか?」
「うぇっ」
リオの目の前にあの女性がいる。薄緑色の眼が頭一つぶんほど下からリオを見ている。気配に敏くあれるよう鍛えていただいたリオは誰かが近づいてくるのを認識していたが、それが自分に、彼女が、だとは考えていなかった。無防備な声が出た自覚があって頬に熱が集まっていく。
『おまえの命はメイオラス王国のためにあるのだ。その言動が、おまえを教育した我々の品位に関わると思え』
日々頂いた指導が頭の中を駆け巡る。己のインクで手を汚し、その手を挙げながら突っ立っている自分はあまりに情けないさまをしているのではないか。その考えに至って、リオの顔が今度は青ざめていく。
彼女がふいにリオの右手を指さした。
「その手、見せてもらってもいいですか」
「えと、な、ぜ」
よく分からないが、こんな情けない自分は放っておいてほしい。そう思いつつも、リオにはメイオラス王国民に逆らうという選択肢が無い。白手袋に覆われた彼女の左手の上にすごすごと自身のそれを重ねた。
すると、彼女の手から魔力が放出され、水の球体としてリオの手を包んだ。温かいそれが、黒を落としていく。瓶の回りも同じように綺麗にして、乾かしていく。その間、彼女は「試験緊張しますよね」「わたしも家出るとき受験票忘れて、焦って戻って」などと言葉をつないでいた。
そうして「試験頑張ろう」と言って、黙したままのリオに微笑んで自席に戻っていった。
残されたリオは呆然と、座ることしかできなかった。冷静な頭の片隅は周囲から奇異な目で見られていることへの申し訳なさや魔術でインクを落とすという発想が浮かばなかった不甲斐なさを指摘してくるが、思考の大半を彼女が埋め尽くしてしまった。
葉を透かし見たような淡い緑色の眼。リオがこの国で見るひとの多くは、多少の違いはあれど茶色い髪と眼をしている。そんな中、リオは確かに、彼女を知っている。あの色ではなく、あの目を。
大いに乱れた集中は、かえって良い方向に働いたのかもしれない。日頃反芻しているアレスタ教の経典や頂いた指導、この国に恩を返すのだという使命感がほとんど湧いてこなくて、リオは難なく試験問題に回答していった。
試験を無事に終えて、荷物を整理しながら退室していく他の受験者を見送って、はっとした。彼女に、お礼を言わなければ。リオが前方に目を向けると、彼女もひとの波を見ているところだった。
「あのっ」
リオは彼女に駆け寄って勢いよく頭を下げた。
「試験前、自分のような者にお心遣いを、ありがとうございました」
頭上から「わっ」という慌てたような声が聞こえた。
「気にしないで、顔上げてください!わたしがお節介焼いただけというか、ちょっと気になっただけだから」
彼女に促されるまま目を合わせると、よく知る微笑みを湛えていた。なんだか目頭が熱くて、リオは眉根を寄せた。前髪でほとんど顔は見えないはずだから、気付かれることはないだろう。
それを、困ったことに、彼女が下から覗き込んでくる。
「あの、名前きいてもいいですか?」
「えぁっ」
「わたし、セレナ・カーターっていいます。そちらは」
「自分は、リオ・ノースブルックです」
「……リオ。リオでいい?わたしはセレナで」
「は、い」
リオの返事に満足したのか、セレナはリオからぱっと離れて出入り口へと向かい始める。
「じゃあ、お互い受かるといいね、っていうことで、またね、リオ」
「はい、ま、た」
セレナは幾分か落ち着いたひとの波をするすると抜けていく。彼女が急いでいるところを自分が引き留めてしまったのではないかと、リオは後悔した。焼き付いたセレナの存在と後悔を抱えながら、リオも玄関へ向かうことにした。
《施設》に帰ってからのリオは、酷いものだった。いつもは鞭二、三回でこなせる訓練で、十七回も打たせてしまった。暗記している経典を諳んじる途中で噛んでしまい、お叱りも受けた。そして今、先生方に失望されたかもしれないことに怯えながら暗い部屋のベッドの上にいる。なんとも情けない。
それでも愚かなことに、リオには頭からセレナを消し去ることができない。
「せ……な……」
自身の口からこぼれた音に突き動かされて、リオは上体を起こした。
「せな?せな、せな、くそ、やめろ、なんなんだ」
こんな粗雑な言葉遣い、先生たちから教わっていない。自分は何をしているのだ、という戸惑いから髪をぐしゃぐしゃにしてしまう。
――忘れたふりしてんじゃねぇ
――やめろ思い出すな
頭の中で二つの声がする。同じ声なのに、真逆のことを言ってくる。血のにおいがする。頭皮を引っ搔いてしまったようだ。この手で周囲を汚してしまう可能性に気付いて両指をぎゅっと組んだ。これでほかの場所に触れずにすむ。
ただ、頭を掻けなくなったことで二つの声と正面から向き合わなければならなくなった。「思い出せ」と「思い出すな」。いや、
――そもそも、忘れてなんかいない!忘れられるはずがない!
――もう捨てた記憶だ。やめろ、忘れておけ。
理緒が言う。こういうとき、根拠も詳細も分からない言い合いのとき、勝つのは声の大きいほうなんだよ。ていうか、「思い出すな」と言う時点でおまえはもう分かってるんじゃないか。と。
「せな、星夏……はは、ははははっ」
あまりに自分が滑稽で、理緒は笑わずにはいられなかった。あっさり手放した自分が、容易く帰ってきてしまったのだ。それも、きっかけは星夏によく似た少女。理緒が決して忘れることはないだろうと思っていた幼馴染。
同時に、ここ一年半ほどの記憶が一気によみがえってきた。ゴートに暴行され続けた旅路、この《施設》に着いてから始まった洗脳、拷問のような《教育》に耐えかねて自我を保つことをやめた日、およそ人間に施してはならないであろう魔術を受ける日々、そして――
「……うぐ、おぇ」
独房の中に吐瀉物のにおいが充満する。ここには桶も水道も無いから、あとで自分で綺麗にしないと。そう思いながら右手を汚す。魔術ですぐ済むとはいえ掃除は面倒だし吐くのは苦しいが、おかげで嫌な記憶を一旦置いておくことができそうだと、理緒は安堵した。明日からは洗脳が解けた状態で過ごさなければならないのだ、という現実から目を逸らして。