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「出せ」


 ゴートの指示で車が動く。低い天井に頭をぶつけ呻く理緒に、ゴートは木版と分厚い紙、羽ペンのようなものを持たせた。何度か瞬きをすると文字が読めるようになった。


「名前、その他お前のことを聞く項目がある。次の街までに埋めておけ」

「字、書いたことないのですが」

「書き方は()()()()()はずだ。練習を兼ねているからさっさと書け」


 確かに、字を読めるし書ける。しかし書き出せない。この手が字を書くイメージが湧かない。自己矛盾がなんだか可笑しくて乾いた笑いを漏らすと、ゴートがわざわざ振り向いて睨んできた。


「言っておくが、虚偽を記せばすぐに罰がある。情報は正しく」


 丁寧な物言いを忘れたかのように指示が飛んでくる。叱られるのは本意でないためペンを持ち直したところで、何よりも確認しなければならないことを思い出した。


「あの、ひとつだけ」

「おまえの質問に答えている暇は無い」

「これだけです。あとはおとなしくしますので」

「何度も言わせるな」

「王都でこの国のことを学ぶということでしたが、『界渡り』は元の世界に戻れないんですか」

「おい」

「これだけです」


 理緒にとって重要なのはこの一点のみだ。何をされようと譲るつもりはない。帰れるのか。帰ったとして、黒瀬理緒の生きた時間にどのような影響を及ぼすのか。母は心配でほかのことに手が付かない状態かもしれない。よく母の神経を逆撫でする言葉を選んでしまう父は、母を支えようとするのが裏目に出て苛立たせていそうだ。趣味の話をする相手が理緒だけである弟は元気だろうか。仲が良いとは言い難かった兄も、自分がいなければ張り合いがないはずだ。

 ずっと考えないようにしていた、拭い去れなかった焦りが、理緒の表情を削り取っていく。それをどう見たのか、ゴートは気圧されたように押し黙った。 


「………………過去に戻ったという例は無い」

「そう、なんですね。ありがとうございます」

「さっさと書け」


 本当のことなのだろうと思った。「戻れない」「帰れない」という表現でないのが真実味を帯びさせていた。


 なら、もういいか、と思った。


 もし帰れるなら、帰ったら、周囲の心配を全身で浴びなければならなくなる。いなかった間のことを説明する必要もあるだろう。時間が経過していればそれだけ大学入試にも不利になり、新たな心配を生む。しかし帰れないならば、そんなことを考えても仕方がない。理緒にできることはないのだから。


 その瞬間、理緒は故郷という呪縛から解き放たれた。それは、帰るべき故郷を失いこころを壊した、とも言える変化だった。そうして自由になった理緒の行動原理は、幼い頃より培った好奇心に偏るようになった。例えば、「虚偽を記せばすぐに罰がある」、その罰とは何だろうか、気になってしょうがない。

 気になるのは「罰」だけではない。理緒の認識では「虚偽」には二つの要素がある。一つは事実でないこと。もう一つはそれを発する人間にとって嘘だということ。思い込みなどはその人間にとっては本当だが事実ではない、ということになる。この場合の「虚偽」は何で、「罰」はどのような「虚偽」に反応するのだろうか。あるいは、単なる脅しという可能性もある。


 ものは試し。書き進めながら、その結論に至った。もはや理緒の世界に、理緒を心配する人間はいない。シーナとアルト、かの家族は心配するかもしれないが、ゴートの様子からして再び会えることはなさそうだ。であれば同じこと。危険な行為を慎む理由はない。とりあえず理緒にとって嘘であり事実でないことを書いてみよう――それが間違いだった。


「ぐ、が、あ゙、あ゙」


 突然、呻き声が出た。意識が吸い取られていく。思考――と呼べるほどのものは成立していないが――はただただ酸素を希求する。透明人間に首を絞められているかのような状態。

 ゴートが振り返り、怒鳴り声を上げた。


「おい!おまえまさか、愚かな!」


 理緒の手から木版ごと奪い取り、理緒が直前に書いた部分をペンで塗りつぶした。眼に見えぬ力が理緒から離れる。

 喉をヒューヒュー鳴らし咳き込む理緒の頬を木版が叩いた。


「お前は、我々を馬鹿にしているのか?」

「……あ゙、あ゙ー、っはは」


 パアン!という音が車内に響く。この馬車の揺れは酷いもので車内は静かとは言えない環境だが、それをものともしない力で再び叩かれた。


「これは確かに罰だな。ウソを消したら治まるってのもいいシステムだ、どういう仕組みなんだろ」

「聞いているのか」


 三回目。この国における自分は怪我をしてもいい存在なのだな、と理緒は現状への理解を深めた。


「なんだその目は」


 四回目。木版の角が頬骨に当たった。完成度の低いバインダーにこの世界の技術力への理解を深めた。


「でも他人の記憶いじれるんだよな……いろいろアンバランスな感じか」


 五回目。


「王都に行く前に躾が必要だな」

「……ずっとこちらを見ていて、首痛くなりませんか」


 六回目。失言の自覚があったために予想通りの反応で、理緒は口内の血液を飲み込んで笑った。


 七回目。




 八回目。






 九回目。






 その日の夕方頃、理緒たちは街に到着した。といっても街道から門を潜ったためにそう判断しただけで、ゴートから理緒への説明は無い。背の低いレンガや白壁の建物が所狭く並びそろそろ仕舞いとなりそうな露店があるから、それなりに栄えているのだろう。傷だらけの理緒から目を逸らして御者は馬を休めに行き、ゴートは治療院という医療施設に理緒を連れていった。元からここで、理緒がこの世界に来たときに得た怪我を治す予定だったらしい。石造りの、ほかの家より多少大きいという以外に変わったところのない建物の中で、白衣の男が光を纏わせた手で理緒の傷に触れていく。それだけで治っていく様は非常に興味深かった。


「本当にその、これで大丈夫ですか。傷は治しましたが……」

「問題ない」


 理緒を治療した男性が帰り際に理緒に目を遣った。ゴートと目を合わせることを避けたのか、理緒を心配せずにはいられない懸念事項があるのか。いずれにせよ、ゴートは仕事を達成するため以上の気遣いを持ち合わせていないだろう。そう思った理緒は、大丈夫です、というか無駄です、と言う代わりに微笑んでおいた。

 治療院を出てふたりが歩く道は、なんだか周囲とは別の空間に位置しているようだった。飲み屋を包む活気との間に透明な壁を作りながら、宿へと向かった。


「裏に車を停めてある。おまえはそっちだ」


 二人ほど座れそうな座席、つまりはひと一人が寝るには狭いシートの上には籠が置かれており、中にはパンと水の入った袋がある。それを確認したゴートは理緒の左手首を車内の手摺に縛り付け出ていった。


「チッ……ここで寝られるかよ」


 独り言の間に眼は暗闇に慣れ、乱暴にパンを手に取った。食への関心が薄い理緒でも文句を言いたくなるようなメニューだが、それを上回る空腹感があった。噛む、飲み込む、噛む、飲み込む、歯ごたえと大きさについては文句なしに思われた。


 なのに、空腹感が収まらない。


 自分の身体が自分のものではないような感覚。漠然とした不安に襲われて時が経って、理緒は確信した。体調が悪い。自身の拍動が聞こえる。汗がひどい。寒い。頭が痛い。……怖い。


 怖い怖い怖い怖い――内なる声に従って左半身で車の壁を叩く。けたたましく鳴っているはず、ぶつけたところが痛むはず、が、感覚をうまく捉えられない。


「騒ぐな」

「うぐっ」


 いつの間にいたのだろう。ゴートが、理緒がだいじに持っていたはずの杖で理緒の横腹を殴ったらしい。痛みが分からずとも衝撃は伝わった。ゴートが理緒を嘲笑った気配がした。


「苦しいだろう。はは……お前の世界には本当に魔術が無いんだな。魔術で治療するときには補給しながらでないと患者の体力が無くなっていく。常識だろう。まあ、あの程度の治療なら死にはしないが」


 ゴートが液体入りの小瓶を揺らして言う。


「これを飲めばすぐに回復もできる」


 理緒は、自身の頭の回転の速さに自信を持っている。それを失っている今は、よすがを持たずに世界に立ち向かっているようなものだ。低血糖に魔力不足、思考が本能的なもので埋め尽くされていく。寒くて、寒くて、右腕で身体を搔き抱いた。


「助けてほしいか。おい、なんとか言ったらどうなんだ?さっきまでよく喋ってただろう」


 これ見よがしにゴートの手の中の瓶が理緒の左頬骨を叩く。今、自身を掴む手を離せば、その手を瓶に伸ばせば楽になるのだろうか。


「あ、あ……た……うう、う……」


 それでも、助けを求めてはならない相手くらいは認識することができた。

 その認識が、理緒にわずかな理性を取り戻させた。理性的な思考に浮かんだのは、なぜ逃げなかったのだろうという思いだ。治療院に入るとき、出た後、逃げる機会はあった。しかし、その発想がなかった。高を括っていたのだ。木版で叩かれても致命的な傷を負うことは無かったし、治療もされたから。それに、異世界という場所で、帰郷への希望もなくして、積極的に生きようとも死のうとも思わなかったから。


「反応しろと言っているんだが」


 ゴートが理緒の襟ぐりを掴んだ。理緒の定まらぬ視線が一瞬、ゴートの嗜虐的な笑みを通過した。


「は……そういえばお前、女だったんだな」


 理緒が道中書いていた紙には性別を問う欄があった。それを見てのゴートの発言だが、今の理緒には何がそういえばなのか分からない。ただ、女であることが自身にとって好ましくない状況を生むことは分かった。


「紛らわしい見た目でそそられないが、そうだな、体に免じて助けてやろう」


 理緒には、いっそ殺せ、と思うほどの気高さも、助けてくれと言うほどの生への強かさも無い。自ら死を選ぶ手段も無く、そもそも()()()()()。だからただ、もういいか、と思った。思考が最後の砦だったのだろう、諦めを抱いた瞬間、意識を失った。


 それからの王都への道は、記憶するのを拒みたくなる日々だった。


 だから彼女は、あっさりと「自分」を手放してしまった。

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