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「リオ!マンガォ(おはよう)!」

「マンガォー!」

「マンガオ、シーナ、アルト」


 農家の朝は早い、ということなのか今日も早朝にふたりが起こしに来てくれる。日常会話を理解し始めている理緒の脳は迷うことなく応えた。もう一度同時に返してくれた彼らがベッドに座る理緒のもとへ駆けてくる。理緒は差し出された小さな右手を両手で握って右脚に力を入れた。

 怪我はまだ完治しない。歩くのも億劫な理緒を姉弟は手伝ってくれている。といっても幼い彼らに思い切り体重をかけるわけにはいかないし彼らの祖父が作った杖もあるため気持ちだけありがたくいただいている状態だが。


「トウク(ありがとう)」


 礼を言って立ち上がった、その時だった。理緒の耳が聞き慣れぬ音を拾った。祖父ともほかに知る農夫とも異なる男の声、あとは馬の嘶き、だろうか。シーナとアルトも不思議そうに窓へ寄っていく。この家の客らしくエスタの声も混ざる。暫くして玄関扉が閉まり複数の足音が近づいてきた。

 自分の客だ、と理緒は思った。予想どおり開かれた廊下の先でエスタと知らない男が理緒を見て頷き合う。銀縁眼鏡の男は軍服に似た上下グレーに戦隊ものの敵幹部が身に付けそうな長いマントを羽織っている。どこかの制服だろうか。


「○¥※リオ、○□※ゴート△✕」


 こちらがリオ、この方はゴートさん、というようにエスタが紹介した。ゴート、理緒と移動した彼女の目と手を見るに大意は間違えていないはずだ。ゴートは理緒にベッドに座るよう促し、自分は壁近くの椅子を引き寄せ腰掛けた。意図を探ろうと動く理緒の視線を覆い隠すようにゴートの掌が迫ってくる。


「えっと?」


 エスタの制止は無い。シーナとアルトが何か騒いでいるが母親に宥められたのか不服そうに押し黙った。

 理緒の目元に手を置いたままゴートは何か呟いている。過去一聞き取れないそれが終わった瞬間、理緒の脳内に衝撃としか言い様がない変化が生じた。


「う、あ゙」


 呻き声が勝手に出る。目を開けていられない。周りの音が入ってこない。頭痛と吐き気に見舞われる理緒が認識しているのは頭の中で言語が氾濫して、氾濫して――


――今何が起こっているのか分からない。()()()()()()()()なのに、血の気が引くこの感覚は、足場が消えていくようなこの時は何なのか。


 気付けばゴートの手を振り払ってベッドに蹲っていた。


「はぁ、はぁ、くそ、うっ、あ゙、はぁ、はぁ……」

「リオ!リオ!?大丈夫!?」

「……しぃ、な」


 駆け寄ってくれたシーナの声がする。それで分かった。自分の中で平仮名が、片仮名が、漢字が、アルファベットが知らない記号と置き換えられて、日本語が記憶の奥深くへと仕舞われている。


「おい!リオに何したんだ!」

「こらやめなさい!」


 アルトがゴートに掴みかかっていて、それをエスタが戸惑いながら止めていて。


 そうだリオ、理緒だ。自分の名前だけは取り戻せた。


 なんとか吐瀉物を飲み込んでようやく視界が安定してきた理緒はシーナの手を借りて上体を起こした。向けられたシーナの心配に微笑むことで応える。


「……ると、アルト、大丈夫だから、ありがとう」


 へばり付く喉から声を絞り出す。気持ち悪くて仕方ないが理緒にとって現状を伝える手段は話し続けることだ。


「リオ!大丈夫か!あいつ――」

「あいつとか言うもんじゃないよ。ゴートさんは言葉を教えてくれたんだ。――そう、ですよね」


 セリフの大半はシーナと同じくやってきてくれたアルトに、最後はゴートに。アルトは理緒の腕を掴んではっとした表情をして、ゴートはかすかに口角を引き上げた。アルトが食い気味に問いかけてくる。


「言葉!オレ!オレが言ってるの分かるの!?」

「分かってるつもりだし、アルトも分かってくれてるといいんだけど」

「すっげー!」

「リオ!あたしは?」

「分かるよ。支えてくれてありがとう」


 姉弟の頭を撫でる手が震える。先程の衝撃が抜けきっていないのか分かり合える喜びが体にまで影響しているのか、それとも何かを()()()いるのか、理緒自身も理解できずにいる。まるで知らない発音をする自分の口は意識すれば動かなくなりそうで、理緒は混乱を切り捨てるためにはっきりと声を出した。


「エスタさん、ゴートさん、驚かせてすみません。もう大丈夫だと思います。ありがとうございます」


 理緒の反応に最も狼狽えていたのはエスタだった。エスタはゴートのすることを聞いていただけに予想と異なるものを見ることになったのではないか。そう考えての言葉だ。彼女はほっと息をついて言う。


「良かった。副反応があるかもとは聞いたけどここまでなんて……あ、すみません、ゴートさん、そのわたし、びっくりしちゃって」


 ゴートへの非難と取られないようにあははと笑う。ゴートと彼らの立場の違いが垣間見えた気がして理緒の胸中に靄がかかった。自分に良くしてくれるひとが明確に下に見られる状況は不快だということを理緒は初めて知った。


「いえ、こちらとしても配慮が足りませんでした。言葉と思考の結び付きが強いほど副反応が大きくなるとされてはいるのですが」

「あの」


 言葉と思考の関係が弱いわけねえだろ、といった不用意な発言が飛び出す前にと、低姿勢で必要事項を問うことにする。


「あの、自分がここの言葉を話せるようになった理由を、いえ、ゴートさんがいらっしゃった理由をお聞きしてもよろしいですか?」


 理緒とゴートの視線がぶつかる。自動的に張り詰めた空気にシーナが手を、アルトが袖をぎゅっと握ってくる。こんな空気にしてしまって申し訳ないという思いと目の前の男への警戒を緩めたくない思いが理緒の中に充満する。

 言語が入れ替えられていくのは未知の恐怖だった。日本語もここのことばも話せない間、それが恐怖であると認識することすらできなかったのだ。理緒が以前読んだ評論文に「言葉には分からないものを定義づける役割がある」と書いてあったがこんなところで実感させられるとは思っていなかった。先ほどされたことが失敗、あるいは中断していたら……理緒にはゴートを信用する理由が無い。

 意を決して沈黙を破ったのはエスタだった。子どもたちを呼ぶ声だ。


「たいへん、朝ごはんの用意しないと。おじいちゃん待ってるわ。ふたりとも手伝って」

「でも」

「……アルト、行こ」


 シーナの手がゆっくりと理緒からアルトに移る。


「あとで行くから」


 理緒の言葉にこくりと頷き姉弟は母親についていった。別に彼らが同席しようと構わないと理緒は思うのだが、このほうがゴートがやりやすいだろうというエスタの配慮を感じる。ゴートが話すことをエスタは知っているのかもしれない。おそらく不穏さを感じ留まろうとしたのであろうふたりに興味深さと罪悪感を覚えた。


「私がここに来たのは」

「はい」


 単刀直入に言うと、とでも続きそうなゴートの様子に素直に頷いておく。


「あなたが『界渡り』であるかの確認と保護のためです」

「『界渡り』というのは」

「異世界から来たものを我が国では広くそう呼びます。先ほどあなたに施したのは対象の母語をメイオラス語、この大陸の共通語と置き換える魔術で。あれが効いたということは少なくともこの辺りの人間ではないことになります。念のため……出身地をお聞きしても?」


 母語、生まれて最初に得た言語を変えられた自分は自分と言えるのか、出身地ってどこから言えばいいのか、考えだすときりがない。


「ニホン、日本(ひのもと)という島国出身です。広く話されていたことばではジャパンとされていました」

「ふむ」

「よく知られている他国といえばアメリカやチュウゴクでしょうか」

「アメリカ?」


 聞き覚えがあるようだ。手元の紙の束を繰るゴートの前で理緒は意識的に英語を引っ張り出す。発音記号まで頭に浮かぶのに中々声にならない。唇がむずむずして、舌が震える。片仮名のジャパンやアメリカでも内心苦労したのだ、もとより第二言語で、今やそれより優先度が低く設定されているのだろう。


「United States of America、の、こと、です」

「ユナィ……三十年ほど前に記録がありますね。この表記ですか?――ふむ、間違いなさそうだ。界渡りと認定して良さそうですし、あなたを保護します。すぐに立つので、準備を」

「はい。……立つとは、どこに」


 あまりの唐突さに反応が遅れた。次いで、そういえば最初に保護のためと言っていたと気付いた。ガラス越しのゴートの目元の皺に同じ記憶に基づいているであろう不愉快さを見出してしまう。何度も言わせるな、お前に詳しく説明してやる義理はない、そんな心の声は理緒の被害妄想だが、現実との乖離は大きくないのではないか。懐中時計を取り出す動作を見ているとそう感じる。


「王都です。そこであなたがこの国で生きていく支援をします」

「なる、ほど」

「すぐ出発するので」

「やっ、あの、せめてここの方々に挨拶を、えと、朝食!も、用意してくれてますし」


 思わず懇願するような声が出て気持ちが悪い。理緒とゴートの間に明らかな上下関係があること、それを理緒自身が認識していることを自覚させられる。

 ゴートは懐中時計をしまい窓の外の馬車に視線を遣った。


「朝食を待つ暇はありません。ので、手短に」

「は、はい」


 彼の気が変わらないうちに――そんな不快な思考に急かされて理緒は杖を取った。ため息を吐いたゴートが理緒を追い越して行く。


「チッ」

「――リオ」

「はいっ」


 この家ではひた隠しにしていた柄の悪さが漏れ出たところで名を呼ばれやたらと元気な返事になった。振り返ると姉弟の祖父がいた。


「少し、工房に」


 ついてこい、と顎で示される。


「はい」


 シーナとアルトの父親がいないこの家の家計は、地域全体で営む農業とお祖父さんが中心になって作る工芸品に支えられているようだ。お祖父さんの制作を手伝わせてもらうなかで、ことばの通じない理緒が誤解しないような行動でコミュニケーションをとろうとする寡黙な彼に尊敬の念を抱くようになっていた。今も、自然に理緒のペースで歩いてくれている。

 工房へは勝手口から向かうため、途中で食卓を通る。理緒に気付いたアルトが駆け寄って来て、次いでシーナとエスタがそばに来てくれた。アルトが理緒の袖を引く。


「リオ、話終わったのか?な、母さんが、リオ行っちゃうって、ほんと?なんで?」


 理緒は袖を掴む手首に触れて、急速に言葉を選んだ。


「あー、そうだな、うん、王都に行く、らしい」

「なんで」

「んー、ずっとここにはいられないからなあ。仕事をしなきゃだし」

「じいちゃん手伝ってるし、ケガ治ったら畑仕事して。それじゃだめなの?」


 この方向性では駄目だ。気付いた理緒はまた少し言葉を選び直して、アルトの質問に答えられない不甲斐無さに眉を下げた。


「……『界渡り』ってこと、聞いた?」

「うん」


 それがどうしたの、という無言の問いには答えを用意しておいたから。


「ほかの世界から来たから、この世界に無い病気にかかっているかもしれないんだ。あと、この国ではしてはいけないことを知らずに、してしまうかもしれない。そういうのを調べたり学んだりしたいなって」


 どう返すべきか、アルトが迷っている、その後ろのシーナが口を開いた。なんて綺麗な目だろうと思った。あまりに真っ直ぐな視線が、理緒の思考を強打した。


「リオが、そうしたいの?」


 理緒は息を飲んで、大きく頷いた。


「うん」

「分かった」


 エスタがシーナとアルトの髪を撫でる。話の一区切りを察してお祖父さんが足を進めた。勝手口を出て、工房に。お祖父さんは木製の作品が並ぶ棚の間に隠すように置かれていた杖を手に取り難しい顔をした。


「……すまんな」

「えと、そんな」


 謝罪されるようなことなどないはずだ。やすりで削ったり取っ手の飾りを取り外したり、何やら調整しながら言葉を紡ぐ。


「ゴートと言ったか。あいつは信用できないだろう。そんなところに、お前さんを行かせることになっちまって」

「いえ。一応保護、ですし、皆さんには本当にお世話になりましたから」


 理緒のゴートへの感情はある程度普遍性のあるものだったらしい。お祖父さんは低い声で続ける。


「界渡りを国に報告するとな、金をもらえるんだ。もちろんエスタにお前さんを売るという意識はないだろうが、それなりに大金だ、界渡りの存在はあいつらの利になる、ということになる」


 仕上げが終わったようだ。お祖父さんはふっと息を吐き、その杖と理緒が今まで持っていた杖を交換した。一見すると二つの杖は変わりない、手に馴染む白木だ。


「取っ手を右に回して上に引っ張ってみろ」


 言われるがままに引き上げる。すぐに、キラリと光る身が現れた。


「仕込み刀……?」

「それを持っていけ。何か、本当に嫌なことになったら、それを使って何が何でも逃げろ」

「……」


 驚いた。そこまで。そこまで思ってくれているのか。

 十分だと思った。このひとたちと出会えた、という記憶だけで、この世界で生きることになる時間が苦で塗りつぶされることがなくなるように感じられた。理緒は丁寧にお辞儀をした。


「ありがとうございます」


 そして顔を上げ、にやりと笑った。


「すごい、格好いいです。これ、準備されていたんですか」

「いいだろう。妻にばれないよう、こっそり作っていたんだ。まさか役立つ日が来ようとは」

「はは、すごい、好きです」


 だいじに、だいじに携え、理緒は背筋を伸ばした。背後に感じた気配、エスタが入ってきたからだ。


「お父さん、もういい?ゴートさん、お待ちで」

「ああ」


 工房を出て、馬車の方へ。シーナとアルトも見送ってくれるようで、ぎゅっと抱き着かれた。


「会いに行くから」

「祖父ちゃんが作ったの、今度売りに行くときは絶対一緒に行く」


 この世界に来て初めての未来への約束。理緒は無理やり口角を上げた。


「うん、ありがとう」

「リオ、朝ご飯お弁当にしておいたから」

「何から何まで、本当にありがとうございます」


 エスタから包みを受け取り、ゴートの指示で馬車に乗る。車内には二人ほど座れそうな座席が二つ、進行方向に向かって配置されていた。軽自動車を思わせる。ゴートは金が入っているであろう袋をエスタに渡してから、理緒の前列に腰掛けた。

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