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神子付きの騎士様
拝啓
突然の手紙をお読みくださりありがとうございます。私が今こうしていられる感謝をお伝えしたいと思い、筆を取った次第です。
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ざわざわと葉が擦れる音と鳥の声、木漏れ日に包まれる中で黒瀬理緒は目を覚ました。立ち上がろうとしたが左足首と右腕に別種の痛みが走って、上体を起こすに留める。足首は捻挫だろうか、袖を捲った腕には引っ掻いたような傷が多数ある。数秒黙して考えた後、枝葉の隙間の空を見上げた。怪我の原因を思い出したのだ。
高校からの帰り道、地下鉄でおよそ三十分と同じくらいバスに揺られるはずだった理緒は、バスプールで溜め息を吐いた。最寄りのバスは一時間に一本、運が良ければ二本。そして次のバスは約五十八分後だ。地下鉄を降りた時点では走れば間に合う時刻だったのだが、途中で目的地に適切な出口が分からない、というお婆さんに捕まった結果がこれである。それに関しては誰に文句を言っても仕方ないため余計に気分が落ち込んだ。この日は時間を潰すという発想が出てこないほど疲れていた。 ふと横を見ると理緒が乗るのとは別の、しかし近い方面行きのバスが来るところだった。ここで待つより、十分程度バス停から歩くほうがマシ、そう考えて理緒は乗車券を引き抜いた。
「お待たせいたしました。十四時十分発――」
帰宅ラッシュ手前だからか乗客は少ない。前方の一人席に腰掛け理緒は目を瞑った。不規則な揺れが微睡みに誘うも、浸ることはできなかった。
「お忘れもの、落とし物にご注意ください」
用意した小銭が吸い込まれるのを確認してバスを降りた。歩いて来ることもあるスーパーの近くでまあまあの人通りだ。この辺りでは比較的大きな横断歩道を渡って、長い坂を下って、あと少し。小さな公園を通ったらいつものバス停に着く。家まではすぐだ。
公園を通ったら。
理緒は背筋を汗が流れ落ちるのを感じた。四月にしては強い陽光の下を歩いたせいか、反して妙に暗い公園のせいか。小さな山に面したこの公園は一年中薄暗く、ベンチのみの広場に先日イノシシが出没したとのことで現在公園としての役割を果たしていないことは確かだ。
「……ん」
不意に、視界の一部が歪んだ。歩く細い歩道の先が陽炎のように見える。眼まで疲れたかと思うと一人笑いそうになったが、それは一瞬のことだった。近づいても見え方がおかしいのは「そこ」だけで、違和感を抱きつつも理緒は「そこ」を踏んでしまったのだ。
「――ッ、ごほっ、えほっ」
直後、強烈な落下感に襲われた。足元が消え知っている道は遥か上へ。元来、咄嗟の時に声が出せない性質の理緒は飲んだ空気で噎せた。涙が滲む両眼が捉えたのは闇、闇、闇を、抜けて。
青空だった。
そして木々。枝に傷を作られながら勢いを殺して落ちて、なんとか受身らしきものを取ったものの目を回して気を失ったのがおそらくさっき、というわけだ。
いやどういうわけだよ、無性に喚き散らしたくなった感情を抑えて理緒は周囲に視線を向けた。どう見ても林か森、山というほど標高は高くなさそうだ。太陽の位置的に昼と考えていいだろう。ここはどこでなぜここにいるのかといった疑問は無意味だと、早々に結論づけて理緒は今度こそ立ち上がった。あの公園の近くなら森を出れば大体知っている道だし、そうでなくともここに居続けるべきではない。持ち前の冷静さ、あるいは現実逃避が持続しているうちに行動しなければならないと理性が言っていた。
そうして左足を引き摺りひとまず足場の安定したほうへ進むことにした。
その判断が正しかったのかは分からない。ただ結果として、理緒は人里に辿り着き救われた。
夕刻、広がる畑を目にし安堵で倒れ込んだ傷だらけの変わった人間を農家の子どもが発見、その母親が保護したのだった。
「――?」
「――、――!」
誰かの話し声、というよりじゃれつく子どもを母親が窘めるような物音。暗闇の中ゆっくりと目蓋を持ち上げた理緒はそのまま耳を澄ました。
「✕△○、◇¥▽」
「□#※!」
「□#※!」
理緒が寝かされている部屋の外では初めの印象と違わずふたりが言い争っている。そこにもうひとり子どもが加わったのが分かった。しかし、どれだけ意識しても「言葉」として聞き取ることができない。「a」や「ke」という音が分かってもそれが理緒の知る日本語も英語も紡いでいないのだ。
これはいったい、と思考する理緒の目元に暖かな光が差し込んだ。扉が僅かに開かれ、小さな眼が四つ覗いている。
「ええっと、助けてくれたんだよね。ありがとうございます」
起き上がり声をかけると部屋にランプの明かりが持ち込まれた。同じように目を輝かせた子ども二人、小学校中学年ほどの女の子と低学年くらいの男の子――アジア系とは明らかに異なる容姿で年齢は読み取り難い――がベッドに駆け寄ってくる。後ろで母親だろう女性が呆れたように首を振った。
「△#○!※◇✕!」
「※◇✕?」
「ごめん、ことばが分からないみたいなんだ。I can speak a bit of English. ではあるんだけど」
訝しげな子どもたちに困った顔で笑うしかない。いや、言葉が分からないことを伝えるために話し続けるしかない。
「えーと、自分はよく分からないけど落ちてきて、あ、手当てありがとうございました。それから着替えも。あのシャツ気に入ってたのにぼろぼろだよ。あと……」
意味不明、という感情を全面に表す彼らを虚しく見ていると母親が何かに気付いたのかはっと息を飲んだ。次いで子どもたちに何事か丁寧に説明している。
「あ、伝わりましたかね」
ひとしきり話を聞いた子どもたちは再び理緒の元へ来た。今度はマシンガンのような訴え方ではなく、ただ自分たちを指差している。母親は慌ただしく部屋を出ていった。
「しいな」
「あると」
「え?」
「シーナ!」
「アルト」
彼らは理緒の左手を順に握って同じ言葉を繰り返した。
「えっと、シーナと、アルト?」
名前を教えてくれているのだと気付いて理緒が順に目を合わせながら呼ぶと、満面の笑みで頷き、こちらを促した。
「黒瀬理緒……リオです、リオ」
「リオ?」
「リオ!」
「よろしく、シーナ、アルト」
言葉が通じなくともコミュニケーションをとろうとしてくれている。理緒は自分の状況の不可解さも忘れて、何か、とても貴重なものを手に入れたような気がした。それは今後を考えると途方に暮れる理緒をほんの少しだけ紛らせたのかもしれない。先ほどとは異なる自然な笑みを見せた。
根底の焦りを拭い去るほどの効果はなかったが。
それから彼らの母親――エスタに何かを見せられたり聞かされたりしたが当然分からず、しかしかえって合点がいったようで彼女は落ち着いて理緒の世話を焼いた。何もせずとも与えられる食事や歓迎してくれる子どもたちに罪悪感のようなものを覚えた理緒だが、せめて足が治ったら恩返ししようと決めその日を終えた。
エスタに病院や警察に連絡する気配は無い。そもそも木と土と石でできたこの家に電話は見当たらず、ひび割れた理緒のスマホは圏外のまま電池残量ゼロを迎えた。そうして夢から覚めることも無く一ヶ月以上が経った――この日数が正しいのか理緒には自信が無い――ある騒がしい日の夜のこと。その日は村に猪か熊か、とにかく人間が恐れるべき何かが現れたようで、皆が落ち着かぬ心境で寝床に入った。いつもどおり月明かりの差し込む窓への意識で浅い眠理緒彷徨っていた理緒の耳は、キィー、という扉の音を拾った。
「……シーナ?」
暗闇に声をかければ、怯えか安堵か判別できぬ息遣いが聞こえた。理緒が上半身を起こして脚をゆっくりと床に降ろし、両手の甲を膝に置いたのを合図に、扉を閉めた人影はゆっくりと近づいてくる。
「シーナ」
二度の呼び掛けの効果は、この光量では分からない。しかし灯す明かりもない現在、触覚に頼るしかあるまいと理緒はシーナの指先にそっと触れた。逃げられないのを確かめその手を握る。すぐに彼女の震えに気付き、故郷なら事案だなあと思いながら躊躇わずに、控えめに抱き締めた。小さな両腕の力は思いの外強く、理緒のシャツに皺を作る。
「どうした、怖い夢見た?ケガ、は、してなさそうだな」
内容は伝わらなくていい。心配している、味方である、ということが理緒の発する何らかの情報によって届けばいい。少しして彼女の震えが治まったのが分かり体を離そうと身じろぎするも、余計に力が込められる。一瞬考え、おとなしくご要望にお応えしよう、という心持で右手で背中をさすり、左手で布団をまくり上げた。
「もう一緒に寝るか」
理緒の意図を汲み取ってくれたようで、シーナは腕を解き、理緒が左脚をベッドに乗せるのを手伝った後その腕の中に再びおさまった。他人の気配がある状況で寝るのが下手であるという理緒の特性が彼女には反応しなかったようで、次第に穏やかになるその息遣いに引っ張られるように瞼が重くなっていく。
「…………▽◇、#?」
「――っ」
三度目の扉の開閉音と共に、アルトが顔を覗かせた。びくりと反応した理緒につられてシーナも目を擦る。理緒が使わせてもらっているこの部屋の本来の用途は寝室ではないようで、にもかかわらずベッドがあるが、普段は彼ら家族は別の寝室で揃って寝ている。そのなかで気付かれずにやってきた姉弟に理緒は何となく感心するとともに不思議に思った。
「▽◇、?○◇」
「×○△~」
アルトが不服そうに何か言って、ばつの悪そうなシーナがそれに返して。二言三言交わした後、シーナは理緒の右側から左側に、壁側に移動し弟の場所を空けた。当然のようにアルトがベッドに入り込んでくる。
「アルト?」
理緒が問い掛けるも、相変わらず視界は頼りないためどうとも判断し難い。ただふたりの間でここに居座るという意見が一致したようであるため、まあいいか、と考えるのをやめた。明朝エスタに叱られないことを祈るばかりだ。
幸いにも、叱られなかっただけでなく翌朝のエスタに泣き笑いのような顔でお礼を言われた、ように理緒には見えた。昨晩のふたりの様子は何に由来するものだったのか。理緒は、部屋に置かれた狩りにでも使いそうな道具たちと、良い――随分具体性に欠ける表現だが――亡くなり方をしなかったのであろうシーナとアルトの父親を思って、もしかしたらこの部屋にいる自分が父親を思わせたのかもしれない、そんな予想をした。
実際の事情はどうでもいいことだが、以降、それまで以上に姉弟は理緒に信頼を寄せるようになった。理緒は午前中はふたりが畑で働くのを眺めながらたまに縫い物や工作を、午後は彼らと遊ぶ生活に慣れていった。