道化師の破獄
「出たあ!」
「襲ってくるぞ!捕まえろ!」
「警察…はやく警察に連絡を!」
大人たちはみな、馬鹿げている。正気の沙汰じゃない。
「出た」とか「襲う」とかお化けでもあるまいし。
白昼堂々、何を言っているのだ。
すべてすべて、戯言にも満たない。
*
しっとりと雨が降り、街がグレイにくすんでゆく夕刻、
腕の痣がジンと痛む。
私は、いじめられっこだ。多分、これからもずっと。
「邪魔者。あっち行って」
飛び交う罵詈雑言を、何度耳にしただろう。
「来ないで!消えて!」
振り上げられた握りこぶしを、何度目にしただろう。
巷のわあわあ きゃあきゃあのお喋りに、私は入れてもらえない。
今日も、襲いかかる虚無感に泣きながら、雨に濡れている。
「え?誰」
その時、泣きはらした目が人影を捉えた。
「誰?」
目を凝らすと、焦点の合わない瞳が、必死に私を見つめようとしているのがわかる。
極彩色のパーマネントに、白塗りの顔。
そこにいたのは、道化師だった。
「ありがとう」
そのひとは、虹色の渦巻きキャンディーをくれた。
なんて優しいのだろう。
私は、嬉しさに雀躍して、手袋越しの大きな手を 離すまいと掴んだ。
道化師は、作り物の顔で、非常に滑稽に笑う。
このひとなら友達にしてもいいかも。
落雁みたいな味のキャンディーをしゃぶったまま、道化師の後を追った。
*
道化師は、古めかしいサーカス小屋に私を招き入れた。
ホコリと湿気と年季の混じった匂いが鼻をかすめる。
「ここはどこ?」
尋ねると、
「おうち。おうちだよ」
彼のものと思しき声が、鼓膜に響いた。
おうち、おうちと繰り返す彼の手には、からくり人形が握られていた。
彼いわく、それはキューちゃんで、腹話術用の人形らしい。
「ぼくはさ、コウでないと喋れないんだ」
そう言う道化師の口は、微動だにしない。
代わりに、キューちゃんの口が、ぱくぱくと上下している。
腹話術人形を介してでないと会話ができない道化師。
それは私を魅了した。
「ほんとうの姿になるにはさ、勇気が要るよね」
彼は、しみじみと言った。
懐かしいことを反芻しているような、そんな物言いだった。
「そうなの?私は、ほんとうの姿を見るのに勇気が要るよ」
いじめられっことして―優等生の素の顔を見てきた私は「ほんとうの姿」を見るのが怖い。
容姿端麗の学級委員が、学級崩壊の黒幕だったと知った時はもううんざりした。
だから、この道化師は道化師のままでいて欲しい。
腹黒いニンゲンが中に棲んでいるだなんて、考えるだけでも虫酸が走る。
だから、
「道化師さん、そのままの姿でいいよ」
と言うと、
「そう?やさしいネ。きみって子は」
そう言って、キャンディーをもう一本くれた。
虹色のキャンディーは、口にいれると、粉薬のようにサッと溶けて跡形もなくなった。
残っているのは、喉を焦がすような、ぎらついた甘さだけだ。
*
「知ってるか?あのピエロ」
噂を耳にしたのは、ちょうど道化師の“おうち”に向かっていたときだった。
「ああ、知ってる知ってる」
「怪しいよな」
黒い外套の男たちが、街頭に群がって息を潜めて話している。
彼らの言う「ピエロ」があの道化師を指すことは確かだ。
「いつも子供と歩いてるらしい」
「ますます怪しいな」
「ハーメルンの笛吹きを思い出した」
子供心にもきな臭いと感じて、私は“おうち”であるサーカス小屋まで一心不乱に駆けた。
誰かが自分たちのことを噂している、
そう、一刻も早く伝えなければ。
「あの、あのね道化師さん」
肩で息をしながら、一息で告げる。
「たいへん。とにかく大変なんだよ」
噂されているんだ、と言いかけて口をつぐんだ。
道化師は、何を言っても平然としていて、反応すらみせなかったのだ。
「なんで?なんで驚かないの?」
訊くと、
「まあ、あいつらごときにそう焦るな」
少しの間があって、彼は口を開いた。
余裕綽々たる態度に、違和感を覚えた。
しかし、
「ぼくの特技、みてほしいナ」
能天気にそんなことを言うから、そういう人なのだろうと思った。
彼の特技は、シルクハットから鳩を出すことだった。
「マジシャンみたい。君は道化師なんでしょ」
「堅いこと言うの、やめてよ。あいつらみたいじゃないか」
「あいつらみたい」というのが何なのかは少々不明だったが、この場所でそのことを言うのはタブーらしかった。
しかし、一つ断言できることがあるとするならば、
彼のマジックは凄まじくうまかった。
*
もしかしたら。
と思ったら、やはりだった。
あの悪夢は、正夢だった。
道化師が―捕らえられた。
「治安が悪くなる。治安が悪くなる」
と連句しながら、行進する黒い外套の男たち。
彼らが、道化師の“おうち”に虫のようにたかっている。
間もなく、黒い外套に紛れて、道化師の華美な腕が入口から覗いた。
どうやら連行されているようだ。
が、動きが止まった。
見ると、道化師がなにかにつかまり、動くまいと必死に抵抗している。
「ああ、まったくじれったい。これごと壊すか」
男のうちの一人が、“おうち”を指さして嘆いた。
「ダメ!これは“おうち”なんだ!」
言い返したが、私など無力。
「お家?このオンボロサーカス小屋が」
そう、すげなく突き放されてしまった。
男たちはそのまま腕力で連行していく。
引かれてゆく無抵抗な背中に、嗚咽が漏れた。
腹話術人形のキューちゃんはというと、私物ということで回収されていた。
彼は、自由とともに言葉も失った。
かたくなにワルモノと決めるのはおかしい。歪んだ考えだ。
でも、それが世の中なんだよな。と唇を噛んだ。
*
「出たあ!」
「襲ってくるぞ!捕まえろ!」
「警察…はやく警察に連絡を!」
大人たちはみな、馬鹿げている。正気の沙汰じゃない。
「出た」とか「襲う」とかお化けでもあるまいし。
白昼堂々、何を言っているのだ。
すべてすべて、戯言にも満たない。
「なんで?どうして出てきたんだ?」
「なんか、マジックか何かを使って、南京錠をこじ開けてました」
場は、騒然としていた。
その場にしばし突っ立っていた私は、何者かの視線を感じ、ふと振り向く。
すると、あの日と同じシチュエーションだ。
焦点の合わない瞳が、こちらを見つめていた。
「破獄完了だヨ」
そんな声がする。
彼の手には、いつ取り返したのかキューちゃんが握られていた。
「固定観念とか同調圧力とかにまみれた、薄汚い世界からの破獄、完了だヨ」
キューちゃんという“口”を得て、彼はいつになく饒舌になった。
そうだね。
うなずく私に向けられた瞳は、やっぱり焦点が合わないまま、所在なげに揺れている。