聖墓矢
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雨雲から漏れる光ではステンドグラスは煌めかない。リュカの馬裂きを主題にした巨大な祭壇を囲むように、それは暗く沈んで、壁に張り付いている。
王はゆっくりと話し始める。口内に詰め物でもしているかのように、声がこもっていた。
「焔聖も大白亜に駆けつけてくれようとは……。なんと美しい! 神がお記しになったように、やはり聖女達の絆は、深く、尊いものなのだ。まさに、5人の聖女は魂で繋がっているとも言えよう」
ニスモは床を見つめながら、ただ静かに話を聞いている。余程集中しなければ、王の声は聞き取れなかった。
(駆けつけてくれた? 聖女達の絆……?)
「焔聖よ。──お主もこの大白亜で輝聖を迎えようと考えているのだろう」
ここでニスモは初めて、キャロルが大白亜に向かっている事を知る。
「儂はな、光の聖女が顕現したと知ってな、体に力が漲った。世界が救われることの喜びが、この老体の中で弾けて、40年50年と若返りおったわ」
王はぷるぷると震えながら立ち上がった。
「ああ。我ら人類が長きに渡り夢見てきた、完全なる平和が訪れるのだ。儂が王である内に訪れるのだ。何と素晴らしいことかっ!」
跛行しながらニスモに寄る。しゅしゅと小刻みに足を引き摺る音が、静かな聖堂に響く。
「風湿病で石と化したこの足も滑らかに動くようになったわ。輝聖がこの世界にいると、元気になる。病を鎮める魔法も優れた薬も慣れて効かんようになったのに、こうじゃ! 希望とは全ての薬、魔法に勝るものよ!」
死人のような面に目だけを輝かせて、ゆっくりゆっくりと、王が寄る。
「こうも気分が晴れやかなのは、子供の頃に見た動物園以来である。あれは良かった。本当に良かった。熊が玉に乗っておったわ。茶色い熊が……」
ニスモは僅かに顔を上げ、数々ある疑問の内、一番大きいと思えるものを恐る恐る問う。
「卒爾ながら」
「何なりと申せ」
「教皇は、どちらへ……」
王は微笑み、言う。
「儂の命により南方の領で説法を行っておる」
この言で、ニスモとセルピコはある程度の事態を察した。王は教皇を遠ざけ、大白亜に禁軍を駐留させたのだ。無血占拠である。
王はニスモの強張った顔を見下ろし、彼女の疑懼を見透かしたように問う。
「其方は王と教皇、どちらが上に座すると思う」
「はっ……?」
「聖女には意地悪な質問だったかの……」
どう答えるべきかニスモは悩んで、曖昧な答えを口にした。
「……どちらも同じと、存じます」
「否、王である。王は教皇を承認するが、教皇は王を承認せぬ。古来は教皇領も王が与えた地である」
ニスモの前に立ち、見下ろしながら続ける。王の脚は震え続けている。
「そして王が命ぜば教皇は聞かざるを得ぬ。しかし教皇の命は、王は必ずしも聞かぬでよい。たとえ軍の規模が正教軍の方が大きかろうと、威光の強さは王にある。それが世の理なのだ」
ニスモは深く首を垂れた。
「教皇は何かを隠しておる。怪しい。なぜ蝕で輝聖と認めなかった。なぜ輝聖を学園から追い出したのだ。なぜ輝聖の顕現を民に知らせぬ。焔聖の見立てはどうじゃ」
「それは……」
「輝聖顕現の噂が流れ、正教会は枢機卿を集めて会合を開いた。儂も赴いたがな、初め、儂は呼ばれなんだ。それで王の権限を振り翳し、そこに体を捩じ込ませた。無様にもな」
ニスモは僅かに戦慄いていた。王のこもった声や震える脚から成る老いの曖昧な気配に、呑まれそうだった。目の前、ポタポタと水滴も落ちる。締まりのない王の口から漏れる涎。不気味だった。
「そこで決まったのは、輝聖の存在に対し沈黙を貫く事である。教皇も正教会の坊主共も、儂の意見を聞く耳持たぬ。王である儂は、その場にいて、その場にいないものとして扱われた」
王は震える脚を折り、ニスモと目線を合わせようとした。それでニスモはゆっくりと顔を上げ、床から王へと目を移した。
「彼奴等は何かを隠している。もはや正教会は信じるに値せぬ。教皇が輝聖を導く気がないならば、この世界のために儂が輝聖を導かねばならぬ。きっと、それは初めから決まっていたことなのだ。天命だと思わぬか?」
王は震えながら焔聖の肩に手をやった。
「──教皇は王に非ず」
王族の藍緑色の瞳に王の威光を見て、ニスモは完全に呑まれた。
「焔聖」
「はっ」
「聖女は5人昵懇の間柄にして、仲睦まじく世界を救う。違いあるまいな?」
教えからすれば否定は出来ない。が、心情的には肯定出来ない。だから、何かを言おうとした。だけれど、何も出てくることがなかった。ただ小さく、気づかれないくらいに小さく、口をぴくぴくと動かしたに過ぎなかった。
「──ただちに正教会を離反せよ。今後は儂が神の名の下に、新たなる教えを普く広める」
王は続ける。
「瞳の色が異なろうが、お主は我が妹の子。正教会などにいて良いものではない。焔聖がまず初めに大白亜に来たのも、天命なり」
皺枯れた手で、焔聖の右頬を撫でる。いや、撫でるにしては力強かった。ぎゅうと掌で押し揉むのに近かった。下瞼は伸び、真っ赤な結膜が露出した。その手には恨みが込められているように感じ、ニスモは怖かった。
一体、恨みの正体は何か。『妹の子』というのが、そうなのだろうか。バーダー家か、アッテンボロー家か、或いはそれ以外に葬られた妹の──母の無念を思ってか。
「輝聖は既に大白亜へと向かっている。輝聖の下に出向き、焔聖は王の僕としてそれを迎え入れるべし」
□□
それから、ニスモは聖堂内の客室に通された。寝台と机、それからいくつかの調度品があるだけの簡素な部屋だった。
(正教会を離反しろ? 輝聖を迎え入れろ?)
無慈悲な勅命。まるで凶器だ。
(王が新たなる教えを普く広める? 新たなる宗教を作るということ?)
血迷ったとしか思えない。
(私にキャロルを受け入れろと?)
それが天命だと言うのか。
(神はなんて残酷なことかッ!)
姉の拠り所であった神はリトル・キャロルを認め、姉と私を救ってはくれない。姉を否定し、私を否定し、嘲笑う。
(王は、なんて残酷なことか……ッ!)
王の勅命となれば、無視する事は出来ない。
(そして、何よりも──)
──何よりも残酷に感じたのは、怨みの籠った手。あの感触、熱感がまだ頬に残っている。恐ろしい。耳鳴りがする程に。
王は何も言わないが、きっと、心の奥底ではフランベルジュ家を恨んでいる。その恨みは真っ赤な炭の如くじりじりとした火を宿して、ずっと心の中にあり続けるのだろう。
妹を失って10年以上の時が経っても、フランベルジュ家の人間は未だに憎い。だが、当時幼かったニスモには関係のない事だから、それをあえて口には出さない。頬を撫でたあの手は、王の優しさでもあり、残酷さでもあった。他人の宿怨とはこんなにも恐ろしいものか。闇の底を覗いたようだ。
ニスモは脂汗に塗れた顔で、姿見の前に立った。首元が赤くなっている。蕁麻疹が出たようだった。腕捲りをすれば右腕も真っ赤で、浮腫が出来ている。こんな事は初めてだった。心の状態が体に影響する自分が情けない。
「リトル・キャロルなんていなければ……」
鏡の中の自分を強く睨む。そして、手の届く場所にあった燭台を握り、鏡に向かって投げた。強烈な音が鳴って、破片が散らばる。
「王も王だ。輝聖が顕現して、急に色気付くなどっ!」
机のもの全てを薙ぎ倒した。聖具や飾り皿が床に叩きつけられ、壊れる。
「クソッ……!」
物に当たる自分が無様に思えて、天井を仰ぎ見ながら、床に座り込む。そして心を落ち着けるために目を瞑り、深く息をしていたところで扉が開いた。入ってきたのは老紳士のジャン・セルピコであった。
「これまた随分と荒らしましたな。ここは神の座する大白亜にございまするぞ」
セルピコは盆を持っていた。薬罐と幾つかの器が盆の上に載っている。
「まるで赤ん坊ですな」
ニスモはキッとセルピコを睨む。だがセルピコは特に気にする様子もなく、綺麗になった机の上に盆を置き、紅茶を淹れ始めた。
「少し腹にものを入れてはいかがか。ここに来るまでに何も食べていない」
セルピコが金の器を差し出す。
中には薄い焼き菓子のようなものが入っている。これは聖餅と言い、リュカが馬裂きとなる直前に食べたものとされ、神聖視されている。パンの一種であるが、非常に薄く、煎餅のような見た目であった。
「どこから持って来たの」
「厨房から。教会ではどこでも常備しておくものです。美味くはないですが、腹は膨れます」
「盗んだのね」
セルピコはかつて盗賊の頭領であったから、ニスモはそのように疑った。
「神官に言えば貰えるものです。教会のしきたりに疎いのですな。聖女ともあろうお方が」
「わざわざ教会に行って祈る習慣がなかった」
言って、胸に下げたロザリオを握る。バーダー家は信仰が浅かった。
「ただ、神官も下働きも見当たらなかったので、今回は勝手に拝借しました」
「じゃあやっぱり盗んだのね。罰当たりな」
「リュカも盗みを働いたと多数の文献に記しておりまする」
「それは見世物小屋に売られる前の話だし、正教会は認めてないわ」
「とにかく、罰は当たりますまい。腹を空かせた者には慈悲を下さいます」
ニスモは聖餅を1つ摘み、食べた。素朴な味だった。僅かな甘みがある気がして、あとは粉の味だった。
「さて、留守を預かっているはずの枢機卿も聖堂内には見当たらず。禁軍に他の者はどこへ行ったかと問うても、何も口を開きませぬ」
「なら、王に与しない者は捕えられたのね」
「或いは殺害されたか……」
セルピコも聖餅を一つ齧った。だが、それ以上は食べなかった。美味くなかったらしい。
「……ヴィルヘルムはこの事態に気づいているの? あなたはどう思う」
「予期していたものと推察いたしまする。王が大白亜を占拠する兆候があったから、我々にそこを護れと命を出した。しかし、我々は間に合わなかった」
「第一聖女隊の道程に瑕疵があったとは思えないけど」
「それでも間に合わなかったのでございます。ヴィルヘルムが思うよりも禁軍の速さが優ったと考えましょう」
ニスモは、ふうとため息をついた。
「大白亜の正教軍も、教皇の沙汰があって禁軍が駐留していると思っているわ。もしくは、王がそういう事にしているだけかも」
セルピコは徐に、鏡や陶器の破片を拾い始めた。
「さて、もう1つの線がございます」
「もう1つの線?」
「第一聖女隊を大白亜に向かわせた理由です。ヴィルヘルムは輝聖が大白亜に向かっている事を知っていて、それを止めるためにあなたを向かわせた、とも考えられましょう」
ニスモは蓬髪の間から、じっとセルピコの顔を見つめた。
「ヴィルヘルムが光の聖女を認めていない事は、王の言う通りです。自身が神となろうとしているとさえ噂されます」
「そうね」
「さてさて、どうされますか。正教会を離反し輝聖と手を取るか。それとも、教えを曲げる教皇に味方し輝聖と対峙するか」
「……あなたも選択を強いるの?」
「人は選択を強いられて大人になるものです。あなたはまだ青い」
言われて、つきんと心が痛んだ。時折、セルピコはこのように核心をついた物言いをした。
「あなたの好きにしたらよろしい。王も教皇も正教会も関係ありません。もはや聖女はこの世において絶対的な存在。自信を持って、お心のままに決断なさいませ。神はあなたを守ってくださる」
「神は守ってはくれないわ。少なくとも私の味方ではない」
セルピコは破片を拾い集め続けている。
「左様ですか。それもまた良し」
ニスモはどうしたら良いか分からず、目を伏せ5分ほど黙った。答えを見つけ出そうとしたが、沈黙の中にそれは見つからなかった。あったのは、キャロルの面影と姉ジャンヌの温もりだけだった。不倶戴天の敵も、愛する人さえも、答えを示してはくれない。
口をきゅっと結んで、ニスモは唐突に立ち上がる。そして祭服を脱ぎ始め、肌を露わにした。
「決まりましたか。長考でしたな」
襯衣と段袋に着替え、ぼそりと呟く。
「……やはり輝聖がいるからこんな事になる。あれは世界にとって毒だ。私にとっても」
そして、床に落ちた細長い箱を拾い上げた。これはニスモの持ち物で、机の上の調度品を払った時に一緒に落ちた。
中には火の聖女に与えられた聖具が入っていた。それは真っ白で、細長く、鋭く、長さは40吋(約1m)程である。名を『夏の聖墓矢』と言う。
この矢は必殺必中の矢。放てば必ず敵に命中する。目を隠していても、あらぬ方に放っても、結果は同じである。念じずとも矢が敵を見定めて、そこへと向かってゆき、急所を貫く。
不思議な事に、放った矢は何故か矢筒に戻ってくる。矢が爆ぜても、燃えても、川に流されようとも、矢筒に目をやった瞬間、そこに聖墓矢が存在した。
──そして聖墓矢には『二つ存在しない』という妙な理があった。
ニスモはこの矢を目の前で燃やした事があった。いつ、どの瞬間に、どのようにして矢が矢筒に戻るのかを確かめたい意図があった。しかしニスモが瞬きをした瞬間、炎の中の矢は雄鹿の頭部に変化し、矢筒には聖墓矢が現れた。
今度は瞬きをしまいと火の中の矢を見つめ続けたが、やがて意識が朦朧とした。睡魔に襲われたらしかった。そして目が覚めると、やはり炎の中の矢は雄鹿の頭部に変化し、矢筒には聖墓矢があった。
奇妙で不気味な聖具であった。新たなる矢が生まれた瞬間、古い矢は決まって雄鹿の頭となる。雄鹿の首、角は立派で、目は黒瑪瑙のように真っ黒、鼻からは血を流している。
この矢はリュカが死罪となった際に殉死した者の骨を合わせて作られたと伝えられるが、繋ぎ合わせたような箇所は見当たらず、1本の骨で作られているように見えた。正教会は使徒ザネリの見事な技だと言ってそれを讃えるが、ニスモにとってはそれも不気味に感じた。光に透かすと淡い桃色なのも嫌だった。血が残っているようで。
「ねえ。輝聖がいなくなったら、この世界は破滅するかしら」
ニスモは矢を矢筒に入れ、名のある職人に特別に作らせた滑車付きの弓を背負った。
「すると存じます」
「信仰が厚いのね。あなたはこの世界が好き?」
「それなりには。と言ったところですかな」
「そう。私はね、滅んでも良いと思っている。こんな間違った世界は無い方が良い。すべてめちゃめちゃにしてしまえば、きっと、誰も苦しまなくて済むのにね」
言って、鼻を啜る。涙を我慢していた。
「それがあなたの選択ですかな」
「分からないわ。私がどうしたいのか。どうなりたいのか。何も分からない。とにかく、何処にも居たくないの」
「宜しい。迷うたまま行きなされ。それがあなたを強く、美しくなさる」
「私を虐めないで、セルピコ。あなたも適当な理由をつけて下山して。ここに止まれば何が起きるか分からない。万が一のことを考えて行動すること」
少しの間を置いて、言う。
「……キャロルの顔を見て、選択するから」
ニスモは部屋を出る。1人取り残されたセルピコは立ち上がり、腰を反って伸ばした。手には割れた飾り皿。見事な模様が描かれている。
「ふう……。同情はするが、物に当たるのはまったく良くない」
机の上、ニスモが一度も口をつけなかった器から、湯気が立っていた。
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