進撃(前)
アリッサム街道は教皇領へと繋がる要路の一つである。
マール伯爵領北部。ヘス侯爵領との領境、関所の正面。蒼穹の下、陸聖メリッサは大胆不敵にも街道の中央で床几に腰掛け、緑茶を嗜んでいた。茶からは目が覚める程に強烈な薄荷の香りが立ち上る。侍女たちはメリッサの髪を整え直したり、菓子を準備したり、香を焚いたりなど、各々働いていた。
メリッサは丘の上まで続いていく道の先を優雅に眺めている。どうやらヘス侯爵領軍がこのアリッサム街道を通り、マール伯爵領を横断して大白亜へと向かうらしい。そろそろ道の先からひょっこりと軍勢が現れてもよい頃合いだと思うのだが……。
背後、砦の門扉が開き、メリッサの傅役だった男、アル・デ・ナヴァラが出てくる。手を後ろに組んで、四十雀が蜻蛉を追い回すのを眺めながら、ゆるりとメリッサの元へと寄った。
「姫」
「どうした、爺」
「ピピン公爵領軍はコンチ城に取り付いた由」
コンチ城とは公爵領軍の言う『一の城』である。
「ほう。堕とすには7日はかかるか?」
「聞者役によれば、もう陥落間近のように御座りまするな」
メリッサは顔を顰める。
「其は祝着。だが、随分早いな。あれは容易い城ではあるまい」
「城を預かるロングフェロー家が、城内で禁軍と争っている由。さらに道まで封鎖して、領主に謀反の構えを見せつけておりまする」
メリッサは顎に手をやり、ほう、と怪しく笑んだ。
「調略か。公爵領軍の軍師は誰ぞ」
「名はマリアンヌ・ネヴィルとか。素性は冒険者と聞いておりまするが……」
「冒険者? 公爵領の出身か?」
「はて。然したる実績のない者で、軍務の経験も定かならず。名から察するに出身は北の方ではあれども、仔細は知れず」
「ふぅん。斯様な蚊虻がこうも鮮やかに事を成せようものかな……」
侍女が爺に緑茶を渡し、爺は一口啜る。爺の目線の先、四十雀がついに蜻蛉を捕らえた。
「マリアンヌ・ネヴィルね……」
メリッサは鳥が蜻蛉を食うのを見ながら呟く。そして、髪を整える若い侍女が欠伸を噛み殺した時、ふと思いついたようにして、メリッサは調子の外れた声を上げた。
「それにしても海聖のような名だな、爺。まさか海聖ではないのかぁ?」
第四聖女隊は正教会内の深い部分に間者を放っているから、王都で死んだ海聖が替玉である事は陸聖も承知している。
「いやいや、姫。名を隠すなら、もう少し離れた名前を使いましょう。マリアベルの偽名をマリアンヌとするは、些か雑にございまする」
「そうか? 灯台下暗しという言葉もあるぞ。それにあの腹黒は妙な拘りに縛られる面倒な女だからな。何らか理由があるのだろうよ」
「それでも爺は納得いきませぬな」
「よし。マリアベルか否か、賭けるか。爺」
メリッサは長衣の下から神の金貨を取り出す。
「ほほう、それを賭け事に使用するとは豪胆無比。神罰が下りまするぞ」
「神罰? 妾が賭けに負けると申すか?」
爺がお戯れをと笑った所で、マール伯爵領軍の伝令がふらふらとした足取りで2人に寄って来た。男の目の下には濃い隈が出来ている。それもその筈で、王が殺されてから事態の急転が続き、兵達は休みなく働き続けていた。特に伝令役は過酷であった。
兵が倒れるように跪き、爺が言う。
「何用か。申せ」
「はっ。輝聖リトル・キャロルと主人は大白亜へ向けて再び動き出した由にございます」
メリッサはにやりと笑って、言う。
「役目大義。茶でも飲んでから下がれ。目が覚めるぞ」
伝令は侍女から硝子の器を手渡され、その緑茶を啜った。
「えっふッ! ぶふぉッ‼︎」
あまりに苦くて、むせる。それを見て侍女達は口元を隠し、悪戯に笑った。カタロニアの茶はひどく苦いことで有名だった。眠気を吹き飛ばすのを通り越して、脳が弾け飛ぶとまで揶揄される。
「姫、如何なさる。第四聖女隊も呼応して簒奪者を成敗するか否か」
「なあに。輝聖が動いているのなら、それで十分。妾は妾の役目だけを行えば良い」
「その役目とは、輝聖と共に剣を取ることではありませぬか」
「然に非ず。陸聖に与えられた麤皮の聖具は盾である」
「ほう」
「ならば妾も盾となって、輝聖の聖務を邪魔立てさせぬことだ。即ち──」
メリッサは地響きに気がついて、手元にあった双眼鏡を覗いた。街道の先を見ると、濛々と土煙を上げる何かがこちらに向かって来ている。
「──情勢の一つも読めずに輝聖の面目を潰そうとする阿呆を、ここぞとばかりに躾けることである」
次第にそれは爺や侍女たちも目視できる程に近づいて来た。黄塵の中に馬と戦車、兵達の群れ。ヘス侯爵領軍の大隊である。
「はてさて。躾けるとは、どの程度のことを言っておられるのか」
「おいたをしようというのだ。お尻ペンペンくらいはしてやらないとな」
侍女たちがクスクスと笑う中、メリッサは軽く手を挙げて砦の兵に合図を送る。手信号。五指を伸ばし掌を翻し『前方』、握った拳を2度手前に引き『射撃用意』。砦の兵達は各々ボウガンを手にし、幾人かは床弩の準備を整えた。
ヘス侯爵領軍は砦から離れた位置で一時停止。そして馬に乗った将らしき華美な装備の男が寄って来た。あともう1人、近習であろう騎士も一緒に。将はメリッサらから距離を取った場所で、声を張り上げる。
「きっ、聞けーい! 我が名はヘス侯爵が嫡男、ピーター・アシュリーと申すぅ! 我ら急ぎ大白亜に向かうゆえ、畏まって門を開けぇい!」
メリッサは意地悪くニヤニヤと笑みを浮かべ、足を組み直す。このピーターとかいう男、大声を出し慣れていないのか、声が裏返っていて面白い。緊張もしているようだし、如何にも将として頼りなさげである。馬も舌をベロベロと出して遊び、阿呆臭い。
ピーターは暗記してきた言葉を頭の中で何度も繰り返してから、再び物申す覚悟を決め、もう一度声を張り上げた。
「貴様らマール伯爵領は不忠にも聖女に味方していると聞くぞぉ! 返答次第では貴様らも手痛い仕打ちを受けるものと思われたし! 我らは全ての魔を屈服せしめる神聖で厳格な軍団であるぅ! これは優しさからの忠告であぁる!」
言い切って、よし、口に出して喜んだ。威風堂々言い切った。きっと、マール伯爵領軍は恐れ慄き、畏まって門を開けるに違いない。そう思って胸を張り、相手の出方を待つ。
だが、メリッサの回答はピーターが期待していたものとは随分と違った。
「神に祝福されしマール伯爵領を侵略せんとは笑止千万!」
「え?」
「その尾に糞のついた馬を近づけるなッ!」
メリッサが力強く言うと、砦からひゅんひゅんと矢が飛んだ。矢がピーターに当たることは無かったが、驚いた馬が派手に暴れる。
「な、何をする! 無礼なッ!」
「──ピーター・アシュリー。貴様、確か学園に在籍していたな。領の有事とあって里帰りとは、親孝行誠に殊勝である。だが、その弱腰では戦にならんぞ」
言われて、ピーターは羊の変わり兜、その面頬を外した。実の所、慣れない装備で前がはっきりしなかったが、よくよく見れば、砦の前に座る女はカタロニア風の衣装を身に纏っている。そして、あまりに美しすぎた。これは直感なのだけど、なんだか只者では無いような気がする。
「なっ、何者だ! 貴様ぁ!」
問うたピーターに、爺が怒鳴った。怒りの形相、烈火の如く。
「言葉を慎まんかあッ‼︎ ここに有らせられるはメリッサ・サンチェス・デ・ナヴァラなるぞッ‼︎」
「うわあッ!」
怒鳴り声に驚いたピーターは馬上から転げ落ちた。馬は嘶き暴れ続ける。
「メ、メリッサ、サンチェス? 誰?」
近習の騎士は焦った様子で馬から降り、無様に尻餅をついた主人の側に寄った。
「お、おぼっちゃま! この者、カタロニアの姫にて陸聖に御座いまする!」
「りっ、陸聖⁉︎ ど、どうしよう!」
ピーターはさらに顔を青くさせた。領を出る際に言われた父ヘス侯爵の言葉が蘇る。『マール伯爵領内に聖女あらば、王への忠誠を胸に勇ましく戦うべし』。その聖女が今、目の前にいるではないか! 何ということだ!
だが、困った。ピーターには戦の経験などない。武術も魔法も特に長けず、兵の扱いも雰囲気でやっている。学園では友と遊び呆け、娼婦の尻を弄ることに心底情熱を傾けていたから、様々未熟であった。
実家を心配させぬよう教師を金で宥めて、良き報告をし続けた為に、侯爵は将としての立場をピーターに与えた。しかも自慢の息子と思っている。それを裏切る形になれば、どう叱りを受けるか分かったものではない。想像すると尿を漏らしそうになった。
「とても怖いよ!」
「おぼっちゃま、お気を確かに!」
ピーターは過呼吸となった。
領の騎士達は『聖女などいない』『正教会の戯言だ』と言うが、学園にいたピーターの見解は違う。聖女が確かな力を持つ事を、人伝に聞いていたので。聖女隊に臨時で参加していた友だっている。ああ、確かあいつは、1節だけ第四聖女隊に助太刀として参加したとか言っていたのだっけ。──彼が言うに、陸聖は身一つで竜の頭蓋を割るのだとか。
「妾の名を聞いて陸聖であるとすぐに気が付かんとは、まるで疎いな」
メリッサが立ち上がりピーターに寄る。それで近習の騎士は勇ましく剣を抜いた。
「小娘! 聖女などと民を謀りおって! この儂が──」
メリッサにそっと見つめられて、騎士はぽとりと剣を落とした。瞳の奥に砂塵が見えて、普通の人間とは違う、理外の魅力を見た気がした。超常の者を前にして、体が臆した。
「やっ、やめいっ! やめーい! おぼっちゃまは此度の帰郷を重荷に感じて、心臓を弱くしておいでになるのだ! ああ、おいたわしや! 貴様の身の上は聞かなかったことにするから、今すぐに門を開け!」
メリッサは騎士の物言いを無視して、ますますピーターに近寄る。ピーターは恐れて立ち上がり、背を向けて逃げようとした。
「パパ、助けて! パパーッ!」
メリッサはそのぷりぷりと左右に動く尻を思いっきり蹴り上げる。
「戯け者の場違い男がッ! 貴様など豚の陰茎と見分けつかぬわッ! とっとと王都に戻って学問に勤しめッ‼︎」
激しく弾かれ、無様に顔面から地に落ちて、ピーターは転げた。それを見て侍女達、砦の兵達はワハハと大笑いをした。
「てっ、撤退だ! 撤退〜ッ!」
これ以上、領の未来を担う嫡男に恥をかかせては威信に関わる。近習の騎士は背後の軍勢に合図を送った。軍の兵達はピーターの有り様を見て完全に白けているから、特に何を言うでもなく街道を引き返し始めた。
ピーターは豚の陰茎のように赤く顔を染めながら立ち上がり、馬に跨ろうとした。しかし、馬は既に丘の上に逃げて行ってしまって、矢が飛んでこないことの安心からかぼとぼとと糞を垂れている。だからピーターは、無様に無様を塗り重ねる形となりながらも小走りでメリッサから逃げた。笑い声に押されながら、倒けつ転びつ走る。
「ようし、笑った笑った。これで彼奴等は放っておいても良かろう。まともな男であれば挫けてしまって、2度と立ち上がれぬわ。この街道は引き続き封鎖せよ」
砦の兵達は、おーっ、と元気な声を上げた。
「妾も次の場所へ急ぐぞ。撤収だ」
メリッサが踵を返して砦に入っていくと、侍女達はいそいそと茶器や床几などを片付け始めた。次は西に移動する。山間の関所で、同じように軍勢を門前払いするつもりである。
砦の上、胸壁から声がする。四翼の1人、大弓の翁であった。
「なんと、次も姫自らお出向きになるおつもりか! わざわざ行かぬでも良いのではないか。彼奴等、聖女を殺す術を持つと聞くぞ」
爺は腕を組み、砦を見上げて答える。
「とうに諫言しておる。だが姫は、斯様な術など笑い飛ばす程にご自身の腕に自信がおありなのだ。まあ、あとは、趣味にござろう」
「趣味?」
「ほれ。風雲急を告げ、如何なる領も忙しない。となると、ああした若輩者が矢面に立たされることも多くなる。それを躾けるのが趣味で有らせられる」
それを近くで聞いていた女官長、ミランダが笑いながら言う。
「躾けるというより、ぽんつくを虐めるのがお好きなのですよ。ほら、ジョッシュ殿の事も気に入って躾けているではありませぬか」
「これ。伯爵の御令息をぽんつくとは言葉が過ぎようぞ」
「それは失礼致しました」
ミランダは軽く笑いながら、香炉の火を消した。消えぎわの濃い紫煙が漂い、爺は秋の空を見上げる。
「……まあ、姫が多少元気になって良うござった。輝聖が顕現してすぐは、随分と気落ちしておられたからな」
「ジョッシュ殿の文のお陰でしょうかね。お返事を考えるのが楽しそうですよ、姫様」
「あんなぽんつくの何が良いのか……」
「あら。ぽんつくとは言葉が過ぎるのではありませんでしたか?」
ミランダは沈香の香りを纏わせ、砦に入っていく。そして爺は丘の上、逃げたピーターの馬を見て舌打ちをし、石を投げた。
「まだ糞をひり出しているのか、あの駄馬は! 腹立たしい!」
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