狂気(後)
「一つ。──輝聖の要請を受けて、善き友ライナスと共に進軍せり」
──進軍。
マリアベルは拳を硬く握った。無意識だった。気が気ではない自分に少し驚きながら、ポールの言葉を待つ。
「輝聖と合流し、用意してきた茶を淹れて話す。拘って選んだ茶であるから、輝聖の美しき笑顔を期待するも、笑いかけて貰う事一度も叶わず。聞くに、処暑の節、十日余。輝聖、焔聖と出会い、大いなる揉め事となった由」
ぴくり、とマリアベルは反応した。キャロルがニスモに会った? しかも、1節程前に。
「揉め事の最中、兇手が忍びよりて、隙をつき輝聖を狙撃した由。──輝聖が言うに、直前で焔聖がこれを庇った」
──焔聖が、輝聖を庇った。
キャロルを嫌いで嫌いで仕方ない、あのフランベルジュ家のご令嬢が?
疑問だ。状況も読めない。が、事態は読めた。クララが見せてくれた、美しき魔弾。あれは元々、何者かが輝聖を殺す為に使用したものらしい。
「なお、輝聖の従者が焔聖の攻撃により怪我を負う。それもあって、輝聖は我らに支援を求めた由。ああ、美しく強い輝聖に頼られている事、我ながら誇りに思う!」
恐らく、従者とはエリカ・フォルダンとか言う田舎娘のことだ。たかだか一戦士がいけしゃあしゃあと輝聖の側仕えとは、複雑である。
「善き友ライナス曰く、輝聖強かに振る舞うも、内心ひどく気落ちしていた由」
ポールは続けた。
その後、輝聖と合流した一行は大白亜へ向けて街道を進んだ。エリカの傷は、キャロルの魔法を以ってしても完治に至らず、具合を見ながら進んだ為、歩みは遅かった。
大白亜、即ち聖都アルジャンナを包する教皇領に差し掛かった時、新たなる事件が起きた。領境に禁軍が陣を構えて、立ち塞がったのだ。禁軍は攻撃の意思を示しており、ジョッシュは何かの勘違いであろうと休戦旗を持って近づく。対話を求めたが、攻撃された為に応戦。輝聖の意向で戦闘は継続せず撤退。この出来事が五日前、つまり禾稼居待の早朝であるらしい。
そして現在、ジョッシュらは領境付近に陣を構えて、様子を見ている。
「輝聖が推測するに、大白亜は禁軍に占拠されている由。詳しく調べるべく斥候を遣わせ、情報を吟味したが、善き友ライナスもそうであると断じたり」
周囲、騒めく。大白亜は正教会の本部である。それを占拠となると只事ではない。
「ああ、この不穏なる雰囲気に陸聖は何を思うか。気に悩んでいないと良いが。民の間も、国を憂う声多くある由。我が母様に至っては、王の葬儀すら速やかに執り行わぬとは何事かと、激しく怒れる由」
ポールは1枚、羊皮紙をめくる。読み上げる本人もこの先が問題の部分であることが分かっているから、緊張を落ち着けるように息を吐いて声を張り上げた。
「そっ、それから! ──それから、今朝、父様から、大白亜奪還の御沙汰あり!」
マリアベルは目を見開き、全身の毛を逆立てる。だが驚愕の内容はまだ続いた。
「まずは禾稼の節逆扁桃、輝聖の下に領軍精鋭を集わせ、教皇領に対し奇襲を仕掛けて様子を見る!」
ロック卿は喫驚した。
「なんと。禾稼逆扁桃は、今日ぞ。今日であるぞ!」
「な、なお! これらのことは戦略的に隠すべきとは思えど、私は秘密が好きではないから堂々告げる! 我が槍の捌き、遠く離れたピピン公爵領にも届くことを願う! で、では、ご愉快にお過ごしあれ! 恐々謹言!」
言い終わるや否や、マリアベルは稲妻の勢いでポールに寄り、手にしていた文を勢いよく奪った。憤激の色が漲るその形相に、ポールは小さな声をあげてたじろいだ。
「お、お嬢様の手前、乱暴はお控えあれッ!」
ロック卿から声が飛んだが、マリアベルは気にする風もなく、目を血走らせながら手紙を読む。読んで読んで読んで、声を張り上げた。
「ああああああッ‼︎ 阿呆ッ‼︎ ジョッシュ・バトラーッ‼︎ あの薄らぼんやりッ‼︎」
息を荒げて、文を指差す。手がぷるぷると振るえていた。
「こっ、こっ、ここっ、こんなことを包み隠さず文に書くなぁッ‼︎ 軍事機密! これは、軍事機密でしょうにッ‼︎ 文を禁軍に奪われたら、どうするつもりだったんだ‼︎ 大間抜けッ! 脳みそはあるのか⁉︎」
そして文を地面に叩きつけ、何度も何度も踏みつける。
「ばか! ばかっ‼︎ 会ったらその間抜け面を引っ叩いてやるッ! 往復だ! 往復でその頬を何度も叩く‼︎ 何度も‼︎ 百回だって千回だって足りないッ‼︎ 頬が栗鼠のようになってもやめないッ‼︎ ばかっ! ばかっ‼︎」
言い切って、肩で息をする。
「はあ……、はあ……」
室内静まり返る中、汗まみれの髪をかきあげ、踏みつけたばかりの羊皮紙を拾った。
「でも、輝聖は、無事、なんですね……」
不思議だった。リトル・キャロルが遠く離れた場所で、何かに立ち向かおうとしている。それを思えば胸が温かくなって、今すぐに駆けて行きたくなる。心に澄んだ風が吹いて若草が萌える。あんなに利用しようとした女なのに、あんなに遠ざけようとした女なのに。この不可解な気持ちの正体は、なんなのだろう。言葉にできないが、とにかく愛おしい。
「良かった……、本当に……」
手紙を胸に抱きしめて、膝をつく。その場にいる者は総じて、この乱心とも取れるマリアベルの行動をただ呆然と見ていた。
□□
聖フォーク城の薔薇庭園には池がある。その池畔には四阿が建ち、机の上には紅茶と焼き菓子が並んでいた。宣言通りこれはパトリシアが焼いたものであったが、席に着くのはクララだけであった。
約束したはずのマリアベルは来なかった。クララがその事について謝ると、パトリシアは少し寂しそうに笑う。
「良いのよ。忙しいに決まってるわ。だって、マリアンヌは凄い人なんだもの。あなただけでも付き合ってくれて嬉しい」
クララは心を痛めた。だが、暗い顔をしてパトリシアを退屈させてはいけないと思って微笑みを作り、焼き菓子を食べる。
「美味しいです。本当に」
「そうでしょう。そこらのパン屋よりは上手な自信があるわ」
「お菓子作り、お好きなのですか?」
「貴族の趣味ではないけれどね。私、普段から一人で放っておかれる事が多いから、こんな事くらいしか楽しみがないの」
パトリシアは明るく言うが、影があった。それは領を失い、新天地で生活をする事になったクララにとっては、身に覚えのある痛みだった。影の正体は、孤独だろう。
「あなたが付き合ってくれて良かったわ! ほら、周りはみ〜んなおじさんばかりでしょう? 使用人も話し相手にはなってくれるけれど、やっぱり歳は離れているから、何となく話が合わなくて。だから、こうしてお話出来る子が欲しかったの。私は今、とっても嬉しい」
四阿の柵に尉鶲が止まった。菓子を狙っている。
「ねえ、クララとマリアンヌってどういう関係なの?」
クララは一瞬ドキリとして背筋を伸ばした。さあ、どう答えれば良いか。マリアベルの身分は隠さなくてはならないから、難しい。
「えっと。色々あるけれど、端的に言えば、憧れの人なんです。あの人の事をもっと知りたくて、旅を続けてきたので」
「そうなのね! じゃあ、貴女もマリアンヌのファンってわけね……!」
少し違うような気もしているが、広義で言えばファン、なのだろうか。
「私、マリアンヌみたいになりたいわ。こんな気持ちは初めて」
パトリシアはきゅうと拳を握って続ける。
「強くて、格好良くて、堂々としていて、胸がときめく。まるで、絵画の中の戦乙女のよう。でも、残念だけれど、私は魔法が使えないし、弁も立たないし、剣を握った事がない」
しかし、すぐに寂しげな笑顔に戻ってしまった。
「私がマリアンヌみたいになれたら、きっとこの領は大丈夫だと思うの」
パトリシアは手元の器を見る。紅茶には、年相応の女子が映っていた。とても領の上に立つべく人間とは思えない、そんな頼りない表情をしている。
「謁見室での話、聞いたでしょう? 国中が物騒な雰囲気になっているみたい。領内もそうだわ。お父様が生きていた時よりも一気に、崩れるようにして、おかしくなっている。きっとそれは、私に貴族たる威光がないからなの」
「そ、そんな事は……」
クララは焦った。領内の混乱は自分たちが引き起こしているから、彼女のせいとかではない。だが立場上、それを説明する事は出来ない。この状況は心優しいクララにとって、ひどく辛い事だった。
「ねえ、クララ。本当なのかしら? 王族が、私たちの領を潰そうとしているって。だとしたら、どうすれば良いのかしら? 私の代でピピン公爵領を潰してしまうなんて恥だわ」
パトリシアは目を潤ませて続ける。
「民や騎士達はどうなるのかしら? 侍女達は? ロック卿も大変よね。お母様の事も、どうするんだろう。これから、どうしていけばいいんだろう。きっと、私が頑張らなきゃいけないのよね……」
ふう、とため息をついて、笑う。
「あーあ、マリアンヌとお茶したかったなぁ。色々と助言して貰いたかったのに」
ついにクララはパトリシアの目を見れなくなって、菓子置きに目をやる。よく見れば、プディングやタルトなどの菓子が、4つずつ切り分けてあった。それで、マリアベルとリアンを入れて、4人で食べるつもりだったのだと気がついた。楽しみにしながら、準備してくれたのだと感じた。分かってはいたけれど、こうやって感情を理解してしまうと、苦しかった。
「……えっ! クララ、泣いてるの⁉︎ なんで⁉︎」
クララは涙を流していたが、首を横に振った。涙の訳は、自分が情けなく感じたから。この健気で無垢な彼女を、道具にしているみたいだった。いや実際、道具にしている。
「わっ、私、あの人みたいに凄くなくて、何が出来るかは分からないけれど、不安な事や困った事があったらお話ししてください。一緒に悩みを共有して、考えながら、頑張りましょう。何でもする。私、本当に何でもするからっ」
パトリシアはぽかんと口を開ける。
「う、嬉しいけど……。それって、友達って事でいいのかしら……?」
「はいっ。友達です! 私なんかで良ければ」
クララが涙を拭い、強く頷くのを見て、パトリシアはパッと笑顔になった。初めての友達が出来たのだ。
「わっ、私ねっ! お友達とお話ししたかったこと、いっぱいあるのよ! そうだ! 今日は私のお部屋で寝なさいなっ! それでね、夜通し話すの! 色々、不安な事があるのっ! あのね、あとね──」
パトリシアの話は暫く止まらなかった。
□□
一方で城の客間、マリアベルは窓から外を眺めていた。目線の先は良く手入れされた薔薇の庭で、四阿が見える。そこで小さな茶会が行われているが、クララに誘われた時、マリアベルは『仲を深める必要はない』と一蹴した。所詮、道具として利用するのだから、そこに情が移れば面倒だった。
そしてリアンはマリアベルの背中を睨め付け、言う。
「聞きたい事があります」
振り向かず、マリアベルは答える。
「挙兵を唆した件についてですか?」
「教会の改築を迫り、費用を負担させて、王都に重鎮を呼びつけて縛る。確かに、王都の行動は諸侯の弱体化を狙っている可能性はある。あなたの指摘を完全に否定する事は出来ない」
「そうでしょう。否定させないように言葉を選んだつもりですから」
「ですが、ここは慎重に議するべきではなかったのですか。あんな言い方をすれば、本当に挙兵に及ぶ」
マリアベルは冷徹な笑みを浮かべて、リアンに振り返る。
「リアン。私は『領軍を牛耳って近隣の諸侯と手を結び、禁軍と対等の力を得る』と、大蛇を倒す前に確と宣言した気がしますが。それは即ち、挙兵に及ばせるという事ではないですか? それを今更──」
「前提が変わった」
リアンは続ける。
「大蛇の討伐を見て、何も思わなかったのですか? 領軍の殆どが徴収兵。正規軍も親衛隊と呼ばれる者たちでさえも、練度がない。この領での挙兵は危険すぎる。かつての輝きがあるならばまだしも、禁軍と戦闘を交えれば無駄に兵を消費していくだけです」
マリアベルは表情を崩さず、リアンを見下すように見ている。
「聖女様、この領を弾丸として消費するつもりですか。やり方を考えるべきです」
「生温い。王都を包囲し、攻撃を仕掛け、新王を断罪する以外にない。どれだけの犠牲を払っても、それを成し遂げなければ」
「そう考えていると思った。本性を現しましたね」
リアンは驚きはしなかった。謁見の間では王都を包囲して好条件を引き出すと言っていたが、あれは方便。海聖の本意は今言った通り、輝聖を狙う敵を完全に駆逐する事。
「それでは多くの人が犠牲になる。あなたは人を殺しはしないと言いましたが、僕に嘘をつくのですか」
マリアベルは鼻で笑う。
「いつまでも当初の考えに固執する私じゃない。有象無象の人間よりも、輝聖の方が世界にとって大事な事に気がついたまで」
「こんなやり方では、輝聖も幸せにはならない。いや、リトル・キャロルはあなたを憎んで、悲しむ」
「あなたは私の想いを批判するのですか?」
言って怒りの表情に変わり、ゆっくりとリアンに詰め寄る。リアンはその青い瞳で強く睨め付けたまま、その顔を見上げた。マリアベルは煮立つようにして体をわななかせて怒鳴る。
「輝聖を失えば世界はどうなるッ!」
その時、2人の手が同時に動く。互いに拳を顔面に叩きつけようとした。が、やはりマリアベルは聖女である。聖女達の中では身体能力には優れないが、それでもリアンよりも早く、顔面に拳をぶつけた。
だがリアンは怯まず、鼻から血を噴きながらも、マリアベルの顔面に3発の拳を見舞う。マリアベルは堪らずリアンの髪を掴み、力一杯ぶん投げた。
リアンは机と椅子を吹き飛ばし、箪笥に叩きつけられる。衝撃で調度品が床に落ちて、大きな音を立てた。
マリアベルはリアンに跨り、膝で両腕を押さえた。馬乗りの格好である。こうなればもう、対抗する事は出来ない。
「私は聖女だッ! お前には意見する権限などないッ!」
「いや、意見させて貰う! 僕はあなたが変わってくれて嬉しかった! きっと、本来の優しい瞳が戻ったのだと、そう期待していた! その綺麗な姿を見るのが嬉しくて、噛み締めるごとに、あなたの姿が僕の胸の中で大きくなって、心地よさを感じていた! 感じていたんだッ!」
「偉そうなことを……ッ!」
「──あなたは、地下墓地のマリアベルに戻るのかッ!」
マリアベルの目からは、自然と小さな涙が溢れて出たが、本人は気が付かなかった。その涙の正体は怒りでもあったし、戸惑いでもあった。リアンから強烈な感情をぶつけられて、体が反応した。
「煩い! これ以上、私に意見をするなッ‼︎」
勢い良く頭突きをし、額と額を突き合わせたまま怒鳴る。
「もう一度言うッ‼︎ 私は聖女だ‼︎ 私は神に愛されている‼︎」
怒鳴り続ける。
「私の行動を止めたい⁉︎ ならば私を殺さなくてはならないッ! 聖女である私を殺したらどうなる⁉︎ お前は世界の破壊者となるッ! 全ての人間に呪われながら、世界の破滅を見届けろッ!」
強かにリアンの後頭部を床に打ちつけて、顔を離す。マリアベルは頬を赤らめ、肩で息をしていた。
リアンもまた顔に汗を垂らし、荒く息をしながら海聖の瞳を見つめた。割れた硝子玉と化して厭な炎を携えた瞳、今まで見た事のない色をしている。いや、違う。全く見た事がないわけではない。リトル・キャロルに対して凄んでみせた、牢獄のジャック・ターナーに似ている。狂人の目だ。
そして、リアンは直感した。
「聖女様。あなたは、何かを見た……。何かがあなたの心に触れた……」
マリアベルは今、自分の体に魑魅魍魎の手が絡むのを感じている。それに混じって、柔らかな多指の手が背筋をなぞった。これは幻惑か真実か、あまり考える気にはならない。とにかく、身体中が熱かった。このままでは焦げてしまうとも思った。
「まさか、神リュ──」
言いさして、突然、勢いよく部屋の扉が開いた。開けたのはロック卿だった。
「ぬっ……⁉︎」
馬乗りになったままの二人が乱れた髪で息を荒げているのを見て、ロック卿は一瞬戸惑った。だが、この如何わしげな状況に言及するよりも、一刻も早く知らせなくてはならないことが彼にはあった。
「マリアンヌ・ネヴィル、聞けい! 今し方、只事ではない知らせが届いた!」
マリアベルはロック卿を見る。
「──海聖、王都にて身罷った!」
それを聞いて、リアンが呟く。
「海聖が、死んだ……?」
マリアベルは未だ肩で息をしながら、ただ呆然と、ロック卿を見つめていた。
面白いと思ってくださったら、下部のボタンから★評価をお願いいたします。
作品ブクマ、作者フォローもしていただけると嬉しいです。