狂気(前)
翌、禾稼逆扁桃。大蛇討伐の興奮冷め止まず、デュダの街は賑賑しい様子であった。人々の話題の中心は、概ねマリアンヌ・ネヴィルという救世主についてで、その容姿が美しい事から、普段は女優なのだとか、望まぬ婚約から逃げた令嬢なのだ等の根拠のない噂で着膨れして、マリアンヌは伝説になりつつあった。
午前10時。聖フォーク城の謁見の間に貴族や騎士達が集った。
高座には厳しい翡翠の玉座があり、パトリシアがちょこんと座っていた。彼女は正式な領主ではないが、形式的にそこにいる。隣に立つのは寵臣のロック卿。パトリシアから見て右側に貴族が並び、左側に騎士が立ち並んでいた。マリアベルら3人の客人は騎士の並びにいる。
「マリアンヌ・ネヴィル。あなたがいなければ、ピピン公爵領は崩壊していたかもしれないわ。本当にありがとう」
この領には幾つかの街があるが、デュダ以外は総じて小さい。デュダの崩壊は領の崩壊に繋がった。
みなが救世主に向けて拍手を送った。部屋に楽観的な雰囲気が漂う。貴族や騎士の顔もふやけて安心し切っていた。蜂起寸前まで熱くなっていた民衆の緊張も解けたようで万々歳、といった様子だった。
拍手鳴り止まぬ中、マリアベルは冷たく微笑みながら、その場にいる者達を値踏みした。領の騎士、総じて粕。瞳は柔らかで、笑顔は優しげ、肌は不健康に白い。領の貴族、総じて塵。顔に覇気がなく、のほほんとしている。
「そうだ。今宵は宴でもどうかしら、ロック卿。私、マリアンヌ達をおもてなししたいわ」
パトリシアが頬を赤らめて言ったところで、マリアベルが口を開く。
「畏れながら申し上げます。此度の戦いを経ても、民の不信は晴れておりません。お気持ちはありがたいですが、民の刺激になる行動は控えるべきと存じます。……騎士のみなさんは随分とご安堵なされているようですが」
騎士達はぎくりとした。彼らの軍人としての働きは惨憺たるものであったから。
旧市街に配備された軍勢は、大蛇が市街に向かわないよう誘導する手筈であった。が、突然霧が立ち込めたことで、兵達は右往左往。用意していた誘導用の照明弾の場所も分からず混乱し、撃ちそびれる。焦って砲撃を開始したが弾が命中することもなく、その後は大蛇の巨大な影に怯えて瓦解した。
かつてピピン公爵領軍の名は国中に轟いていた。牛の変わり兜を身につけ、魔物を蹴散らす様から『白牛軍』と呼ばれ、諸侯からも羨望された。兵の1人1人が剛毅の益荒男と言われたが、今、その勇ましさは何処にもない。世代交代に失敗したらしい。
「そう、なの……。なら宴は諦めましょう。その代わり、私のお部屋でお茶はどうかしら? 私、後でお菓子を焼くわ?」
パトリシアはしゅんと肩を落として、そろり、とマリアベルを見る。
「それならば、慎んでお受けいたします」
「良かった……!」
陽だまりの笑顔となって喜ぶ。昨日、助けてもらって以降マリアベルに憧れていた。
「ただ、忠告しておきたい儀がございます」
「え? なに?」
「王亡き後、王室の威光が隅々に行き渡らず、民の暮らしも不安定になりつつあります。禁軍を名乗る野盗が出たように、この先、国は大いに荒れるでしょう。ピピン公爵領に於いては、それに備えておくことが肝要と心得ます。大蛇が倒れても、決して緩まず、身を引き締め続けるよう号令くださいませ」
「そっ、それもそうね。マリアンヌは利口だわ。みんな、よろしく頼むわね」
ロック卿は『活の入れどころをよく心得ている』と独りごち、羊皮紙を手にした。
「マリアンヌ・ネヴィルの申す通りである。今は我が領も未曾有の危機にあると、銘銘そう思われたし。それにあたり、国家中枢に関する情報を共有しておきたいと思う。……この所慌ただしく、そうした機会も設けられなかったからのう。合間を縫って収集した情報であるから穴もあろうが、鮮度は良いぞ」
マリアベルは心の中でぐっと拳を握り、よし、来た! 求めていた情報だ! と、欣々然と腕を振った。このロック卿という男、ただの無骨な老騎士かと思いきや、中々に出来る男。水面下ではちゃんと動いていたらしい。腑抜け軍団の中では群を抜いて優秀なのだろうし、無知なお嬢様が頼り切りになるのも分かる。
「さて、王都の様子は『王を失っても異様な程に普通』との事である。ただし、王都ならびに王室領に入る事の出来る者は限られているようで、関所では厳しめの問答が行われているらしい。あらぬ疑いをかけられ、拷問を受けた旅商人も少なくない、だそうだ」
これらの情報はロック卿が神官だった頃の教え子たちが齎した。彼らは各地に散ってもなお、ロック卿を慕っている。
「なお、新王として立ったのが誰なのかは、未だ分からず」
羊皮紙を一枚、捲る。
「王族の動向は以下の通り。第一王子エリック、不明。1節前より姿を現さず。第二王子アンドルー、不明。第一王女リリ、不明。第二王女ソフィア、外遊中。仔細は分からぬが、ファルコニア伯爵領に避難したとされる。第三王子リアン、不明。第四王子アーサー、不明。王の子らについては、無事を確認できるのは第二王女ソフィアくらいである」
マリアベルは神妙な顔つきで情報を頭に入れていた。禁軍が動いている以上、簒奪者は王の子であると予想している。さて、随分と不明者が多いが、リアンが堂々と命を狙われたことを考えると、新王に与しない者は内密に殺められたかも知れない。
「先王アルベルト二世の実弟ロブは死亡した。行軍の最中であったとされるが、これも仔細は不明。その妻子らも死亡したと見られる」
目を閉じ、マリアベルは記憶を辿る。ロブは王室領・聖セドナを統治する王族である。アルベルト二世とは関係良好、神に熱心であり、正教会本部教庁と縁が深い。今春ズィーマン・ラットンとか言う正教軍の回し者に命を狙われたが、生きた。
マリアベルは言う。
「その行軍、魔物や野盗の征伐──、では無さそうですね」
「うむ。魔物や野盗が相手なら、ロブ自らが率いるとは考えにくい。それ相応の理由があったと見る」
続ける。
「なお、マール伯爵に嫁いだ実妹マーガレット、ファルコニア伯爵に嫁いだ実妹ヘンリエッタは無事だそうだ」
「王城の臣はどうなっていますか?」
即ち、先王に直接仕えていた家臣団のことを聞いている。
「ほう。先ほどから鋭いな、マリアンヌ・ネヴィル。先王誼の騎士や貴族は姿を見なくなったようである。代わりに新顔の貴族が王城に出入りしている、らしい。先王の勢力は一掃されたと言って良いのではないか」
黙って聞いていたパトリシアが、控えめに言う。
「で、でも、何だかそれじゃあ、お城の中に弑逆の犯人がいて、国を乗っ取ったみたいよ? 犯人はフランベルジュ家の人じゃないの?」
フランベルジュ家とは、リンカーンシャー公爵を継ぐ大貴族である。ジュール・フランベルジュを当主とし、焔聖ニスモ・フランベルジュはその次女。歴史を遡れば他国の出身らしく、そこは神リュカが生まれた地に近い。
「今件にフランベルジュ家が関わるかどうか、儂は疑問に御座いまするなあ……。御触れを出させる支度が早すぎまする」
「そ、そういうものなの?」
マリアベルの隣で、クララは深く息を吐いた。凄く、そわつく。あの子の事が心配だ。
「なお、フランベルジュ家は改易と相成り申す。リンカーンシャー公爵領は王室領に」
改易とは爵位を剥奪し、平民の身に落とす刑罰である。
「フランベルジュ家は従ったのですか」
「いや。ユーベル・フランベルジュが挙兵し、禁軍のうち王師東軍と戦闘に入れり」
ユーベル・フランベルジュは焔聖の叔父にあたる。
「焔聖の情報は?」
「聞かぬ。今件は多くの諸侯が模様を見ているから、焔聖も同様ではないか。フランベルジュ家には敵が多い。特に近隣の領は煮湯を飲まされておるでな。フランベルジュ家の家芸は因縁をつけること。相手を賊軍と宣い、武力で脅して土地を掠め取るなど、荒ぶることも多かった。聖女の身でお家の悶着に手を出すのは憚られるのだろう」
「そうですか。リンカーンシャー公爵の破門はありましたか?」
破門は教皇が下す罰であるが、改易より重いとされる。宗門から除かれれば、最早それは人である権利を失うことと同義であった。
ロック卿は顎髭をさすりながら、老眼なのか目を細め、書簡の文字を追う。
「斯様な情報はないな。破門されておらぬのではないか」
今件に正教会が関わっていないことが、ここでも証明された。家を取り潰したいのであれば、教皇が破門を宣言すれば良い。従わなかったとしても、兵の士気が下がり攻略すること容易い。
「とはいえ、状況は最悪であろう。リンカーンシャー公爵領付近に所領を持つ諸侯は、模様眺めとしつつも禁軍を迎え入れ、道や砦を貸し、飯も食わせてやっている由」
「事実上、北部は禁軍の味方ですね」
リンカーンシャー公爵領は王国北部を大きく占める。
「仕方あるまい。あそこは土地が肥沃であるし、茶も作れる。王家に色目を使って、お零れに預かりたいのだろう」
クララは気落ちし、目を伏せた。大切な友達の故郷は、まるで魔物に囲まれ貪り食われる鵞鳥のような有様らしい。
「良くわかりました。して、未だはっきりと姿を現さない新王は、諸侯に対して何かを言ってきてはいないのですか?」
「……ふむ。王城からの命については、先に騎士達に伝えている事のみ。それ以上はない」
「伝えている事とは?」
「それについては、判断に困っていてな」
ロック卿は続ける。
「有り体に言えば、こうである。──王アルベルト二世が非業の死を遂げたのは、諸侯並びに民人の信心が足りなかった故の神罰。従って、諸侯は領内の教会を漏れなく建て直すべし」
これを聞いたクララは首を傾げた。神を信じる心が足りないから、王が死んだ? それで、領内の教会を綺麗にする? まるで譫言だ。酒場で熱心な老人が騒ぎ立てるならこの内容も分かるが、その命が王都から出ているのか?
「まだあるぞ。政を改めるため、諸侯の身内等、民人の指揮を取れる人間と、信のおける騎士を幾人か、王都に貸し与えるべし」
クララは考えた。つまり、助太刀が欲しい、ということか。まあ、これは分かる。
「マリアンヌ・ネヴィルに問い申す。これをどう考える」
マリアベルはロック卿の目を見て、黙った。そして、謁見の間にいる全ての人間が自分に注目するのを待ってから、冷ややかな笑みを浮かべて、口を開いた。
「──新王は敵となり得る全てを排除するつもりです。新王に与した者のみに領地を与え、それ以外は取り潰す。このピピン公爵領も例外ではない。この領は終わりです」
リアンはハッとして、マリアベルを見遣った。その、冷気漂う青い瞳、鈷藍の硝子。嫌な予感がした。悪女のマリアベルが戻ってきたような。
「突飛すぎる」
静かに、力強く言ったリアンをマリアベルは冷たく見下し、警告した。
「黙りなさい、アビゲイル」
強烈な殺気にリアン、偽名をアビゲイル・ゼファーは躊躇する。
「教会を建て直させるのは、各領に金を使わせる為。王都に向かわせる人員は、人質。諸侯を骨抜きにし、抵抗する力を無くしてから、禁軍に攻め入らせ、新王に与した貴族への恩賞とする。それでも抵抗するならば、牛馬虫けらに至るまで皆殺し」
マリアベルの冷淡な言が伝染したように、部屋が冷え込んだ。
「武器を買い集め、諸侯と連絡を取り合って味方を増やし、挙兵に備えるべきです」
謁見の間が騒つく。パトリシアは青褪めてロック卿を見上げた。
「王都からその命が届いている領と、届いていない領があるはず。前者は敵と見做されているものと思いなさい。今から媚びても無駄でしょう。亡きピピン公爵は前王アルベルト二世と何度か狩猟に出かけている」
ロック卿はただ黙って意見を聞いていた。
「禁軍は世界の敵と断じて対処することをお勧めします。──輝聖を葬る企てもしている」
騒つき、さらに強まる。厨房の如く。
「輝聖を……?」
「降臨したと言う噂は本当なのか?」
「なぜ輝聖を葬る」
騎士達が声を上げる。
「デュダに入った禁軍は、輝聖を探していたことが分かっています」
「禁軍に会うたのか、マリアンヌ・ネヴィル。弑逆の犯人を探していたものと思っていたが」
ロック卿に問われ、マリアベルは目を逸らした。少々話しすぎたらしい。
「……ええ、街道で。デュダから撤退する最中の禁軍と。旅をしていると言うと詰問されました。輝聖と疑われたのです。禁軍は女が放浪していれば輝聖と疑う」
適当に誤魔化しつつ、大袈裟な方向へと舵を切る。
「輝聖は原典に裏付けられる最大の希望。彼女の下に諸侯や民衆が集うのを嫌っているのではないかと、そう推測します」
「何ゆえ嫌う」
「考えても見てください。王朝にとって輝聖は、既存の枠組みを壊す騒擾の元でしかない。禍根は未然に断つべきと心得ます」
騒つきの中、パトリシアは不安げに眉を下げて問う。
「ど、どうなの、ロック卿……?」
卿は沈黙した。突飛であるが、否定の材料があまり無かった。
「……どうすれば良い、マリアンヌ・ネヴィル」
「先ほど申し上げた通りにございます。同じ境遇にある諸侯と手を結び、挙兵に及ぶべきです」
「戦争か」
パトリシアは息を呑んだ。
「時は待ってはくれない。このままではピピン公爵領は金を失い、兵力も失い、骨抜きにされる。待てば待つほど状況は悪くなる。諸侯と共に速やかに王都を包囲し、我々に力がある事を認めさせ、優位な条件を引き出した上で争いを終わらせるのが理想です」
「それについては今ここでは決めかねる」
「勿論です。飽くまで、私の意見はご参考までに。しかし、禁軍が光の聖女を狙うのであれば、天命に従って新王を弑することも考慮すべきと存じます」
騎士達からも『無茶苦茶だ』『大袈裟だ』『冒険者のくせに』などと声が飛び始める。そして騎士の1人が『禁軍が輝聖を葬るなどあり得ない』と叫んだ。
すると、列の中から1人の若い男が前に出た。名はポール・ラッセルと言う。
「あの、申し上げにくいのですが。禁軍が輝聖を狙うとの事、間違いないかと思いまする」
騒つきが次第に収まり始める。
「ほう。何故そう言える」
「実は私、マール伯爵領と通じておりまして」
マリアベルは目を見開いて、ポールを見た。──マール伯爵領は輝聖がいる場所。
「つい昨日、文が届いたのです。それに輝聖の事も書かれております」
ロック卿もまた目を瞠り、驚いた。ポールの手には丸めて筒にした羊皮紙がある。
「何故それを早く言わんか! 相手は誰ぞ!」
ポールはおどおどと説明した。
「か、隠していたつもりはなく。ジョッシュ・バトラーとのやり取りで、彼は学友でありました。今でも気兼ねなく連絡を取り合う仲で……。その、大元は、たわい無い恋愛相談を受けていたに過ぎず、それで……」
マリアベルは生唾を飲み込み、ゆっくりと前に出た。ジョッシュ・バトラー。噂は聞く。家嫡のぼんやりの事だ。
「き、輝聖は。輝聖は、無事、なのですか?」
「え、ええ。ただ、これは内密にして欲しいらしいのですが、輝聖を巡っては『大いなる揉め事』とやらがあったらしく……」
「お、大いなる揉め事? 早くそれを読み上げなさい……ッ!」
マリアベルの強い口調に、周囲の騎士や貴族達は驚いた。
「しかし、内容が内容で、この場にいるお歴々のお耳を汚すことになると思いますが……」
「構わないッ! 早くッ! 一語一句違えるなッ!」
ロック卿もまた頷いたので、ポールは額の汗を拭って、急ぎ羊皮紙を広げる。そして咳払いを1つして、読み上げた。
「馳走申し候、毛皮の贈り物、有難う存ずる。見事な狼を仕留めたようで何よりである。さて、私は海の珍味が好きであるから、鱘魚の燻製を贈らせる。良き友と食べるを薦める」
ポールの声、響く。
「次に。我が麗しの陸聖、日に日に美しさを増し、我が胸は張り裂けんが如し。目を瞑れば、想いが針となって心をちくちくと弄り、寝床に転がれば枕は陸聖に変わり、ため息を止められず、切なく想う日々を過ごしている。喜ばしい事に、文を交わすようになるも、文字の一つ一つが美しく、紙に茉莉花の香りがついていて、これまた苦しい。今も陸聖を想い、秋の葉の散るを眺む」
騎士達は何だこれは何を聞かされているのだと首を傾げ始めた。そして空気を察したか、ポールはマリアベルを見て、問う。
「あ、あの。このお惚気はまだまだ続きます。飛ばしますか」
「不快な部分は飛ばしなさい」
ポールは羊皮紙をなんと9枚も捲って、肝心と思われる部分に入った。
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