蓮
「なに、禁軍が? 何故? おい、誰ぞ! 儂に内緒で支援を申し立てたか!」
「いや、そうではなく……。ピピン公爵に謀叛の企てありとか。弁明なくばデュダを占領し、王室領とすると警告しております」
「なっ⁉︎」
寝耳に水である。
「書簡がここに!」
ロック卿は羊皮紙を開く。そこにはまさに最後通牒とも取れる内容が書き殴られていた。
禁軍の要求はこうである。まず、速やかに聖フォーク城を明け渡す事。ロック卿を引き渡す事。公爵の息女パトリシアを王都に住まわせる事。そして領軍を解体する事。以上4点。ピピン公爵についての処遇は書かれてはいないが、蟄居閉門ないしは改易か。
「待て待て待てい! ここを見よ!」
ロック卿は書簡の一文を指差す。
「この『王の兵らを芥子漬けにした罪』は知らぬぞ! そもそもとして、デュダに出入りしていた禁軍は罪人を見つける事叶わず、退散したのではないのか!?」
芥子漬け云々はマリアベルの仕業である。
「えっ、なになに⁉︎ 何事なの?」
パトリシアは不安げな表情を浮かべて、ロック卿を見た。
「まずは禁軍の誤解を解かねばならぬ。御免ッ!」
「ええっ⁉︎」
ロック卿は足早に本陣から出た。パトリシアはそれを追いかける。
「大蛇が復活する前に片付けて来まする。茶でも飲んで待っていて下され」
そのまま闘技場の出口へと向かう。
「誰ぞ、儂と共に禁軍の元へ! 休戦旗を持つべし! 交渉に向かうっ!」
「ど、どど、どこに行く気⁉︎」
「おい、お嬢様に茶を入れて差し上げよ! カレンツァ産の美味いのがあったろう!」
5人の兵がロック卿の後を追う。1人は白い旗に橄欖の葉と鳩が描かれた休戦旗を持っていた。ロック卿らは闘技場を出ると速やかに小船に乗り込み、街へと戻って行った。
パトリシアはぽつりと取り残された。周りにいるのは従騎士が4人と、侍女が3人、それから自信なさげな兵が10人弱。精鋭は街に配備され、ここにはいない。本陣の兵は急遽徴兵された者達で、殆どが農民であった。一番腕っぷしのありそうな兵でさえ、普段は粉屋である。
パトリシアの目から永遠に引っ込んだはずの涙がぽろぽろ溢れた。不安で不安でしようがなかった。それで、本陣の外で大人しくしていたロック卿の愛馬ソロモンがそっと近寄り、パトリシアの体に顔を擦り付け慰めた。人の心が分かる賢馬だった。
「お家に、帰りたいっ。お家にっ、ううっ」
温もりを求めて、パトリシアが馬の顔を抱きしめた、その時。突き上げるような地響きがあった。同時に、ごおという低い音もする。
パトリシアは音の方を見上げ、息を呑んだ。巨大な水柱が上がっていた。まるで、天に向かって滝が落ちていくかのよう。周りの兵達もぽかんと口を開けて水柱を見ていた。
次いで、ぼたぼたと大粒の水が落ちてきた。水が激しく体を打つので、パトリシアは悲鳴を上げながら頭を押さえた。本陣の幕を打つ音がガアと鳴って、周りの音は何も聞こえない。
空からの水が止まる。ソロモンに髪を啄まれ、パトリシアは瞼を開く。言葉を失った。霧で周りが真っ白、何も見えない。
「だ、誰か……?」
問いかけても聞こえるのはソロモンの息の音だけ。不気味な静寂。
「誰か。誰か! 誰か、いないのっ⁉︎」
刹那、稲光が走った。パンと鞭が飛んだような鋭い音がして、驚いて体が跳ねる。雨まで降り始めて、烈風がそれを吹き上げる。
連続する稲光が、霧の中に巨大な影を作り出した。大木の幹ほどに太い胴、首は7つあって目だけが白く光っている。その影はデュダの鐘塔よりも遥かに大きい。
「デュダの大蛇……」
影を見た兵達は悲鳴を上げて、倒けつ転びつ逃げた。本陣から侍女達も出てきて、我先にと船へ向かう。兵達が勝手に船を出してしまったから、侍女達は泣きながら水に飛び込んだ。
パトリシアは恐怖で動けない。守ってくれるはずの人間は全員逃げた。勇敢な益荒男、ソロモンのみがパトリシアの前に出て、威風堂々と嘶き巨大な敵に対峙している。
「だ、だっ。大丈夫っ、大丈夫っ」
死にはしない。自分に言い聞かせる。
闘技場は神殿から離れている。比較的安全。ロック卿もそう言っていた。安全だからこそ、ここに本陣を構えたのだ。
今頃、配備した兵が大蛇に攻撃を仕掛けているはず。魔道砲や大砲を唸りをあげ、榴弾や魔導弾が大蛇の体を焼いているに違いない。
この場所で倒せなくても良いのだ。大蛇をハックル湖の方面に誘導するのも作戦の一つであるし、そこに仕掛けた魔法で氷漬けにしてしまえばもう動けない、らしい。だから、大丈夫。大丈夫なのだ。ここは安全地帯なのだ。
徐々に大蛇の影が色を帯びてきた。白っぽい腹を見せて、立ち上がったまま近づいてくる。鱗の部分は黒と茶色の斑斑しい色合いで、蜚蠊にも似た艶があって見えた。
顔もはっきりとしてきた。蛇だ蛇だと言われていたが、その顔はどちらかと言うと蛙のようである。顔の上に盛り上がった大きくて真っ黒な目と、幅広の口に控えめな鼻。その7つの顔がパトリシアを見下ろしている。
パトリシアはこの巨大な魔物を、震えながら見上げていた。ソロモンの『逃げろ』という嘶きも耳には届いていない。というより、何の音も聞こえていなかった。雪の日の夜のようにしんとしていた。
不味いのだろうな、とは思った。どう考えても、今、普通ではない。視界も暗いと言うか、紙を火で炙った時のような黒い斑点がそこかしこにあって、それが大きくなったり小さくなったりを繰り返す。恐怖は感情の枠を超えて、直接的に肺を圧迫し、息をさせてくれない。
──足を動かせば良いのに、動かない。どうする事も出来ない。もう終わりだ。領も家も、私のせいで。
パトリシアは思った。きっと私は、母親に似て精神が弱いのだ。母は、男を産めと父親からも臣下からも言われ続け、気に病みすぎたから流産した。それでも子を産まなくてはと思い続けたから、心を病んで気鬱になった。そして気が触れてしまって、全てから遠ざけられた。
「は、ははっ。はははっ。あはは……っ」
ああ、何だか笑えてきた。こんな時に笑えるなんて可笑しい。晴れて狂ったのだろう。
ずっと母親の事を怖いと思っていたが、同じように狂えば気持ちがよく分かった。触れてはならない存在になる事で救われる。私は今、恐怖からも責務からも解き放たれた。ああ、大変な10日間だった。よく頑張ったと思う。
「あなた。公爵は何処ですか?」
静かな世界に声がして、振り返る。そこに立っているのは青い髪の女だった。
「公爵は何処ですか? 逃げましたか?」
パトリシアはその女をじっと見た。何かを問われているのであろう事は何となく分かったが、未だ現実に戻れず、茫然と見つめる。
「公爵を知らないのですか? 太った男です。こんな感じの」
女は腹の前で玉を抱えるような仕草をした。それを見て、ふいに質問の意味がわかった。この人は、父を探しているのだ。
「お父様なら亡くなったわ」
「……は?」
女は眉間に皺を寄せて問う。
「あなた、誰?」
「パトリシア・ヒンデマンに決まってるじゃない……。あなたこそ、誰?」
青い髪の女、聖女マリアベルは固まる。その名なら知っていた。晩餐会の時、ピピン公爵の側にいた少女だ。どこかで見た事があると一瞬思いはしたが、まさか。
マリアベルは額に手を当て、深いため息をつく。これで全てが繋がった。すぐに公爵が面前に出なかったことも、ヒンデマン家旗が立っているのに公爵の姿が見えなかった事も。
「なんて事……。計画が狂う……」
上空、みしりと音がした。次いで、ぱりりと硝子が割れるような軽い音が連発した。魔法部隊が仕掛けた防護壁が割れたのだ。
ゆっくりと7つの首が降りてくる。そのうちの4つが大きな口を開けていた。毒を吐こうとしているのだろうか、湯を沸かす時のような、しゅうしゅうとした音が鳴っている。
「聖女さま、来ます……ッ!」
マリアベルの後ろに居たクララが叫ぶ。同時、マリアベルは胸の前で十字を切った。掌の中にある小さな羅針盤が、からからと独りでに動き出していた。
闘技場の周囲、水面が揺れて、幾つもの竜巻が上がる。その竜巻は次第に細くなり、水の紐のようなものになった。それらは意思を持ったように蛇へと伸び、水圧で7つの首を切断。頭部が闘技場に落ちる。1つ1つが幌馬車程の大きさがあり、地を打つたびに、鱗と血が飛び散って地面が揺れた。
クララは銀の短剣で手首を切り、白楊の杖を頭上で激しく振う。詠唱、火の魔法。
『精霊に告げる。我が血潮を油とし、汝が剣にて敵を屈服せしむるべし──!』
噴き出る血が、真っ赤な光の霧となって輝き出す。
マリアベルは落ちて来た首の1つに登り、その額に勢いよく石剣を突き立てた。首はごおと紫色の炎を上げる。激しい上昇気流と炎に耐えながら、さらに深く石剣を差し込む。
贄となった首の肉と血が、一時的にクララの魔力を高めた。首のない大蛇は半ば爆発するように燃え上がる。肉は飛び散り、血は蒸発し、体は炎の柱となって天を衝く。周囲の水が一瞬で沸騰し、凄まじい蒸気を発生させた。
炎の中、大蛇は首を再生させようと必死になったが、傷口が焼けて固まり、上手く再生することが出来ない。身体の鱗の剥がれた場所や肛門、性器から、未熟で小さな頭部を出すのが精一杯で、それらはすぐに焼けて爛れた。やがて全身が蓮の実のようになって、ついに大蛇は倒れる。
そして雨が止んだ。風が吹くと、霧がそのまま動いて晴れた。
辺りは煮立った藻や泥の臭いと、肉の焼けて焦げた臭いが充満していた。パトリシアは激臭に咽せてしまって、咳をした拍子に吐いた。邪魔にならないように端に寄っていたソロモンが、その様子を見て駆けてくる。
クララもまた、へなへなと脱力して尻をついた。手首から滴る血をそのままに、倒れた大蛇を見つめる。まさか自分が本当に大蛇を倒せるなどと思ってもみなかった。成長に繋がるし、余裕で倒せるとマリアベルが強く言うから、自棄糞で挑戦してみたが。まさか、本当に。
「そ、それで、ピピン公爵は何処に……?」
マリアベルは煙草に火をつけて、気を失っているパトリシアに寄った。面持ち、暗い。
「死んだらしい」
「えっ⁉︎」
「ピピン公爵領は張りぼてです。まるで空の宝箱を開けたよう」
マリアベルは思案投げ首の体で、大蛇の頭から石剣を抜いた。
ピピン公爵に音頭を取らせ、諸侯を纏めてもらうつもりでいた。それだけの戦力で、ようやく禁軍や正教軍と対等に渡り合える。ピピン公爵は遥か昔に王の血を分けられているから、新王に不信あれば従う諸侯も多いと思った。だが、そのピピン公爵がいない。
ならば私がピピン公爵領の顔となって立ち上がるか。いや、だめだ。領の貴族にだって面目がある。たとえ私が聖女であろうと、突然現れて気儘に軍を動かせば、将達は面白くない。軍は円滑に動かせてこそ軍である。不安や不信が渦巻く組織で対抗できる敵ではない。
第三王子を擁立するのは? いや、これもだめか。リアンは諸侯から認められていない。所詮は妾の子。せめて妾の血が高貴であれば良かったが、ただの伯楽だったはず。
輝聖を助けたい。覚悟はしていたけれど、道は険しい。近づこうとすればするほどに遠ざかる気がする。
「私が作った壁をあの子が作り直しているみたい」
マリアベルはぼそりと呟く。
遠くから、どんと発砲音が聞こえた。禁軍か、領軍か。とにかく、早くリアンと合流しなくてはならない。考えるのは後だ。ため息一つ吐いて、マリアベルはパトリシアを背負う。
「よし。多少は手荒にやっていくしかない。前を向いて頑張っていきましょう、クララ」
クララは思った。これ以上に手荒な事をするのか!
面白いと思ってくださったら、下部のボタンから★評価をお願いいたします。
作品ブクマ、作者フォロー、感想コメント・レビューもお待ちしております。
書籍情報は広告下部をご参考ください。