ハイドラ
デュダ旧市街が水没する前、円形闘技場は街の象徴として知られていた。闘技場は美しい外観で名を得て、当時はこれを目的に街を訪れる者が多かった。小高い丘に建てられたことから、闘技場を中心に街が広がっていたと記録されている。故に、闘技場は水没することなく、当時の様相を概ね残していた。
ロック卿は本陣を闘技場中央に設置。卓の上に旧市街の地図を広げ、駒を動かす。
「北部の布陣はどうなっておる」
若い兵が答える。
「湖沿岸に魔法部隊を配備。魔導砲5門、投石機8機。大砲は10門、榴弾は辛うじて50を用意できました」
「して、筏は如何に」
「それが、間に合わず……」
ロック卿は筏を大量に浮かべて足場を設置し、そこに兵を配備しようと考えていた。
「流石に昨日の今日では無理があろうな」
肩を落とす。もっと早く臣の意見を纏め、早々に戦うことを選択していれば、3日は前から準備出来たであろうに。援軍だって要請できたし、兵器だってもっと取り揃えられた。
「致し方がない。昨日の軍議の通り、北部の廃墟群に銃兵を揃え、市街にはもっと砲兵を配備すべし。小舟を民から集めて、振り飄石を持たせた兵を乗せよ。爆薬を投げさせる!」
旧市街は水没している。特に水晶の神殿の周囲12噎(約5ha)は廃墟もなく、満々たる水の原である。従って兵の配備できる場所は限られており、戦力が分散してしまうのも仕方がなかった。
「ええい、古の賢者め! 何故斯様に気難しい場所を選んで大蛇を封印したのだっ! 後世の事を考えてこそ、本物の賢者と知るべし!」
ロック卿は苛立って拳を卓に叩きつける。
「な、なんか荒れてるけど、本当に大丈夫なんでしょうねっ」
その様子を見て、床几にちょこんと腰掛けた少女が声を上げた。
床几は基本的に戦の総大将が座るべきである。この本陣では公爵が座するのが妥当であった。だが実際に座しているのは少女であるから、奇妙なことになっている。
少し癖のある茶色い髪に、つり目がちな大きな瞳。その色は複雑な榛色。身につけているのは古びた鎧で、少女の隣には従騎士が立ち、持つのは金銀に彩られた剣。少女が振るうにしては大きすぎる。少女は膝に猛牛の変わり兜を置くが、やはり頭の大きさに見合わず、被ればむしろ危なっかしい。
「大蛇をやっつけてくれなきゃ困るわよっ!」
ロック卿は腕を組む。
「う〜む。こうなれば、覚悟を決めて精一杯の働きをするしかありますまい! なあに、この儂がついております! お嬢様はご安心なされませい!」
「ほっ、ほおっ、本当に大丈夫なんでしょうね⁉︎ あなたが大丈夫だって言うからデュダに出てきたのよ⁉︎ 信じてるんだからねっ‼︎」
少女は顔面蒼白になりながら言う。少女はピピン公爵サミュエル・ヒンデマンの一人娘で、名はパトリシアと言った。齢は13歳。
「ああっ、どうしてっ! お父様はどうしてこんな大変な時に逝ってしまったのっ! 何もかもがお父様のせいだわっ!」
──平凡な令嬢パトリシアは人生最大の窮地に立たされていた。
父、ピピン公爵はなんと10日前に急死。入浴中、血管にあった瘤が破裂した。本人が異変に気がついた時には既に手遅れ、瞬く間に腹が血袋と化した。下女が風呂から引き上げるも、それからたったの1時間で公爵は逝った。公爵は薬嫌いで魔法嫌い。薬師や医学者の諫言を聞き入れる事なく、腰痛を放置してきた。その報いが突然訪れたのだった。
公爵の死を受けて城内は大混乱。死を民に知らせる準備を始めた段階で、今度は王都より国王崩御の報が届く。家臣達は狼狽した。しかも禁軍が言うには『王の死はすぐさま民衆に知らせる必要がある』らしい。
さて、国王崩御とピピン公卒去を同時に知らせる事は難しい。そんな事をすれば民は混乱する。しかも公爵には跡取りがいないから、余計に危うい。妻キャスリンも5年前の流産から気鬱になり、自殺未遂を繰り返すため、領内フェーザー塔に幽閉中。一人娘のパトリシアはまだ幼いから政治を知らない。即ち、領主の御座に相応しい人間が不在であった。
領主の威光を失った民衆はどう思うか。不安が高じて革命でも起こされたらどうする。可能性がないとは言い切れない。家臣たちはピピン公卒去を隠蔽した。これは聖フォーク城としては苦渋の決断であり、隠し通せば隠し通すほど事態が深刻化することも重々承知していた。
その後、領主の地位に臨時でパトリシア・ヒンデマンを据える事に内々に決定。そしてパトリシアの命により、ロック男爵すなわちルーク・ホランドが政務を担うこととなった。
ロック卿は考えた。さあ、今後どのようにして領の政を行うべきか。ピピン公爵領においては女性領主は前例がない。その事もあって家臣達の不安の声は大きい。城内が不安定なままでは家臣に謀反の志が芽生えないとも限らない。禁軍も領内に入り込み、動きも不穏。末路窮途とはこの事かと途方に暮れていた矢先、大蛇復活の騒ぎが降って湧く。
当然ながら城は混乱の最中。領軍を動かすのにも苦労する始末。やっと動かせたと思えば、民衆が怒号をあげて領軍に迫る。これでは大蛇が復活する前に領が崩壊しかねないと思い、ヒンデマン家の旗を挙げ、デュダに戦陣を敷いた。民は旗の元にピピン公爵がいると信じて疑わぬが、実際にいるのはパトリシア・ヒンデマン。騙す形での出陣となった。
そして今である。パトリシアは常に不安げで、時折べそをかき、わあわあと騒ぎ立てている。無理もなかった。パトリシアには戦闘の経験などなく、しかも相手が封印の獣なのだ。
酷だがパトリシアに出来ることなど何もない。魔法は使えないし、剣も弓も扱った事がない。もちろん兵法は分からない。大蛇がどんな魔物なのか、それすらも良く分かっていない。得意な事は菓子作りと詩の朗読、それから花を愛でる事であって、それでどうしてこの状況を打破する事が出来ようか。
パトリシア本人もそれを良く分かっているから、この場にいる事を考えるだけで眩暈がした。
「あ、ああ。何だかフラフラしてきた、座ってられない」
「誰ぞ、お嬢様にお水をっ!」
従騎士が水を持って来た。パトリシアが器を持った時、その水面に隈だらけの顔が映った。父が死んでから碌に睡眠など取れていない。
じっと見つめていると自分がとても可哀想に思えて、パトリシアはぽろぽろと泣き始めてしまった。肩を震わせ、顔を真っ赤にして泣く彼女を見てロック卿は焦る。
「大丈夫ですぞ! 領軍にはこの儂がおります! 良いですか、お嬢様! 大蛇など何の事やあらん。所詮は蛇に御座いまする!」
老騎士ロック卿は皺だらけの顔をくしゃりと歪ませ、笑って続ける。
「この儂にかかりゃあ、もうこんな感じで、こうこう、こう! けっちょんけちょんにやっつけてやりまするぞっ!」
そして拳をぶんぶん振り回し、空想の蛇の顔面に1撃、2撃、顎を粉砕して腹を蹴飛ばし、体を踏んづけて大蛇を倒してしまう。
「証拠もありまする。ほれ、手伝え!」
そう言って兵を呼び、甲冑の上部を取る。鎖帷子も脱ぎ、下着を脱ぎ、上半身裸となる。曝け出されたのは、芸術的な程に逞しき肉体。
「触れてみなされ、お嬢様」
しゃがみ、腕に力瘤を作って指差す。パトリシアはそっと腕に触れた。かちかちであった。
「見事なものでしょう。さあ、剛僧にお掴まりを!」
「えっ!」
そう言ってロック卿はすくりと立ち上がり、パトリシアを吊り上げる。そしてそのまま回転した。ロック卿は6呎6吋(約2m)の大巨漢であるから、パトリシアは完全に宙に浮いてしまって激しく振り回された。
「きゃあ! やめなさい、ロック卿!」
ロック卿は元々神官であった。強靭な体躯は天が与えたのものと誰もが言う。然したる訓練もせずに、この体つきを維持できた。齢50となって顔の皺は増えたが、体に関しては20代のそれと全く変わりはない。
神官であった頃から力は戦士を凌ぐほどである。戯れに組討を行えば、軍人であろうと冒険者であろうと投げ飛ばす事が出来た。デュダの教会を管理していた時、神に不忠な荒くれを平手打ちで弾き飛ばし、壁に穴を空けた事から『剛僧』とあだ名された。
「ハッハッハッ! ピピン公爵領一の丈夫である儂が、蛇如きに遅れは取らぬわ!」
「分かった! 分かったわ! 信じるから、下ろして!」
ロック卿は、迫力のある顔つきと、長い髪と長い髭を持った。その山賊のような風貌が人を寄せ付けないが、見た目に反して優しい男であった。こうして人の顔色を見て道化に徹することの出来るくらいには剽軽な性格でもある。
「お嬢様、涙は引っ込みましたかな?」
ロック卿はゆっくりとパトリシアを降ろす。
「ええ、永遠にね……」
パトリシアはフラフラとしゃがみ込む。ロック卿は心優しい男ではあるのだが、豪快がすぎるのが玉に瑕。
ただ、右も左も分からないパトリシアにとっては、この騎士のみが頼り。混乱極まる城内で信用できるのは、裏表が一切無かろうロック卿だけなのである。豪快も多少は我慢だ。
「お嬢様をお守りするのは儂だけに非ず! 我が愛馬ソロモンも忘れてはなりますまい。こやつは人間を8人も蹴り殺した益荒男! 儂があれに跨がれば、ちょっとやそっとじゃあ──」
その時、慌てた様子の兵が本陣に駆け込んできた。
「申します!」
「ぬっ! 大蛇が復活したか⁉︎」
「い、いや! それが……!」
兵は一瞬深刻な顔をしてから、ロック卿に耳打ちをした。
「──禁軍がデュダに来ています。ロック卿を出せと」
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