躍動(後)
翌、禾稼居待。
リアンとクララは街娘に扮して、風説を広めた。時に買い物客として商人に危機感を煽り、時に洗濯屋に寄り合う女達に面白おかしく話した。その噂は瞬く間に広がり、各々程度は違うが街の人々は信じ始める。と言うのも、旧市街の水路に異常があった。水嵩が増し、水の流れも乱れているし、所々に渦も生まれている。その理由は誰にも分からぬが意味深ではあったので、誰もが大蛇復活の兆しと捉えた。
一方でマリアベルは水路の水の操作を一頻り行った後、水晶の神殿に侵入。氷の中のようにきんと冷えた内室を行き、最奥の宝庫を目指した。宝庫には水晶の箱があって、それが大蛇封印の核であった。
水晶だから内部が透けて見える。箱に入っているのは黒い塊、髪の毛の束。マリアベルは箱を開けてそれを取り出し、糸巻のようにぐるぐると巻かれた髪の毛を解いて行くと、中から臍の緒のついた未熟児が出てきた。大蛇が封印されてから数百年と時が経っているが、未だに血塗れていて臭いも鮮烈。
マリアベルは呪文を唱えながら荊棘槌の棘で自身の人差指の爪を剥がした。それを未熟児の額に刺し、親指でぐっと押して埋め込む。すると未熟児は少しばかり潤いを失い始めたので、再びそれに親の髪の毛を巻いて箱にしまい、そのまま神殿を後にした。
□□
翌、禾稼臥待。
大蛇復活の噂は領主ピピン公爵の耳にも届いたらしい。今朝方から公爵領軍がデュダの街を巡回し始めた。物々しい様子が余計に街人の不安を煽り、噂を信じなかった人も本当に大蛇が復活するのではと疑った。
領の学者と魔術師たちは水晶の神殿に向かい、異常がないかを調査。水晶の箱を開けて仰天、封印の核である呪物が乾燥していて粉を吹いたので、これは只事ではないと急ぎ城へ報告。
しかし、領軍の取った行動は現状維持であった。その上、あろう事か大蛇の復活はないと街人に言って回り、誤魔化そうとした。勿論、民は妙な兆しを感じ取っているので誤魔化されている事には勘付き、領軍や領主に対して不信感が募った。
マリアベルは酒場の窓から、兵士たちが街人を宥める様子を苛苛と見る。
「腑抜けどもが。これでは領主が街に出てこない。領主が本当の本当に危機を理解して、焦ってくれないと意味がない」
そして、リアンとクララに告げた。
「仕方ない。領主の居城に付け火します」
2人して目を丸くする。付け火の意図は分かる。民の鬱憤が爆発し、抗議の意味を込めた小火が城内で起こる。そういう演出だ。
リアンはあたふたと小声で言う。
「だ、大丈夫ですか。小火で済めば良いですが、燃え広がったら……」
「守衛がすぐに消すでしょう。普通に考えて。仮にそれで城が焼失するなら、こんな領は滅んだっていいッ!」
マリアベルはエールをぐいっと飲み干すと、苦いだの臭いだのと愚痴を溢しながら、勘定台に硬貨を置いて一人店を出てしまった。
「ど、どうしましょう、リアンさん」
リアンは深く悩んだ後、難しい顔のまま酢漬けの瓜をかりりと食んだ。
「クララさんは、火の魔法をおさらいしておいた方が良いかもしれないね」
「えーっ!」
□□
翌、禾稼更待。未明。
ピピン公爵の居城、聖フォーク城内にて不審火が発生。食物庫から出火。火は兵が消し止めたが、倉庫の土壁には『デュダは終わりだ!』と嘆く声が大きく書かれていた。
火が消し止められたすぐ後、再び城内で不審火が発生。これも消し止められたものの、さらに午前8時、今度はデュダの街で不審火騒ぎがあった。大事には至らなかったが、街は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
領軍は兵を増やしてデュダの街の警戒にあたった。民衆は不審火の件もあって興奮しており、領軍に対する不信感が高じて、何人かの阿呆が投石を行った。それを領軍が捕らえた事から一部群衆が暴徒化し、騒動となった。魔法部隊が放水を行うなどして鎮圧をしたものの、民衆の不信感はさらに強まる。
旅商人などはデュダの街から一斉に離れ始めた。これはこの街において今までなかった光景であり、宿屋や酒場などは困惑。
また、これだけの騒動が起きているのに、未だ民の前に姿を見せない領主の不甲斐なさに怒れる街人も続出した。その日、デュダの街では夜更けまで愛国歌が歌われた。
□□
翌、禾稼亥中。
この日も夜明け前に街で不審火が発生。それも連続して3件も発生した。しかしこれらにはマリアベルは関わっておらず、暴徒と化した一部の若者がやった事だった。
さすがの領主も焦ったか、デュダの街に精鋭部隊を大々的に配備。また、午前7時から教会前の広場にて、ロック男爵ルーク・ホランドが演説を行った。彼は大蛇が復活したらば全力で戦い抜くことを群衆の前で宣言。次いで民には節度ある行動を求め、場合によっては共に戦い、愛する街を守るのだと鼓舞した。
群衆からは『何を今更』『偉そうに』と野次が飛んだ。マリアベルもその群衆に混じって『領主はどこだ!』『領主が責任を持て!』『領主が指揮しないのか!』とぎゃあぎゃあと捲し立てた。その上、拾って来た生ごみまで投げる。その生き生きとした聖女の顔を見て、隣でクララは苦笑した。
「なんか、聖女さま、楽しんでますよね?」
問いかけられたリアンは否定も肯定もしなかったが、今の問いはマリアベルにも聞こえてしまったらしい。
「芝居に決まってるでしょう! あなた達も投げなさい! 遊びじゃないんだ!」
「ひっ! はい!」
クララとリアンは全力で生ごみを兵達に投げつけた。クララは何だか楽しくなってきた。
陽が西に傾いた頃に『明日の午後には大蛇が復活する』と噂が立った。これはマリアベルらが流した風説であるが、午前中にロック卿が演説を行った事と、街の領軍が慌ただしく動いている事から信憑性を増して、街人たちはそうであると確信。料理道具や農具類を持ち出すなどして奮起した。街角では焚火がなされ、夕空は黒煙に濁り、戦乱の空気が漂い始める。また、教会では大蛇の毒に備えて口当て代わりの襟巻きが配られた。
領軍もまた、街人達のただならぬ様子から自然と『明日復活』を信じ、デュダ旧市街にある上陸可能な廃墟などに戦闘配備を行う。魔法部隊も魔法陣や防護壁を用意するなどし、準備を整えた。また、領軍はこの段階になって初めて正教軍に対して支援を要請しているが、これについては遅すぎると領軍内からも批判があり、論争にまで発展。領軍の足並みは揃わない。
午後8時。水晶の神殿、東側に位置する柱が崩壊。
街中では聖歌が流れる。民たちは互いに不安を慰めながらも、戦いに備えて鼓舞し合っていた。領軍から女子供は逃げるように通達がなされたが、それに従う者は少なかった。
午後9時。水晶の神殿、北側の門扉が崩壊。
これには堪らず、領主家に他領へ退避するよう臣下が進言した。しかし他の臣下が戦い抜くことを進言したことで、城内は方針を巡って荒れに荒れ、またもや論争に発展。小競り合いも起こる始末で収拾つかない。
結局領軍本隊は午後11時ごろにデュダ旧市街に入り、闘技場跡に本陣を設営。
ヒンデマン家の旗が街中に揚がり、デュダの街は拍手と歓声に包まれた。ピピン公爵、及びヒンデマン家を讃える歌『おお! その男、偉大なるピピン公!』が歌われる。
□□
翌、禾稼二十日余。午前10時。
マリアベルは郊外の丘から、旧市街に布陣する領軍の様子を観察していた。洒落た双眼鏡を片手に、慌ただしげな闘技場跡に注目。
「大層な本陣ですが、肝心のピピン公爵は何処にいるのだろう。普通は変わり兜を被って、目立つような格好をしている筈」
双眼鏡を隣のクララに渡す。クララも探してはみたが、確かに公爵らしい人物を見つける事ができない。演説を行なっていたロック卿とかいう無骨な騎士はいるのだけれど。
「逃げたのでしょうか?」
「いや……。領旗にデュダ防衛隊旗、ヒンデマン家の馬印まで掲げているから、いるにはいると思う。さすがに公爵ともあろう男が、馬印を虚仮威しには使わないでしょう」
馬印とは軍を率いる者が自分の所在を明示するため、本陣で掲げる印である。
マリアベルは記憶を辿る。確か学生の頃に1度だけ、ピピン公爵の姿を遠巻きに見た事がある。あれは第四王子の鎧着初の儀の後で行われた晩餐会。公爵はぷくぷくと太った巨漢で、鼻の下に巻いた髭を蓄えた、柔和な顔立ちの貴族だったはず。顔立ちの詳しい所までは流石に覚えていないが、体型は分かりやすいから何処に居ようと見つけられる気もするが。
黙して考えていると、馬に乗ったリアンが戻って来た。
「どうでした、リアン」
リアンは馬上から言う。
「聖女様の言った通りでした。禁軍がデュダの街に向かっています。掲げられた旗は王師北軍。数は凡そ200。大砲だの装甲戦車だのを持ち出して、怒り心頭に発すると言った雰囲気です。デュダを攻めて開城を迫るのでは」
「公爵に謀反の兆しあり、との判断でしょう。ご苦労な事です」
「予見通りですね」
道と天気から鑑みるに、王都に兵を突き返した日から5日後の朝には禁軍が現れるだろうと、マリアベルは予測を立てていた。見事的中、ピピン公爵領最大の窮地はすぐそこまで迫っている。
「では、神殿を崩壊させましょうか」
マリアベルはアストロラーべを取り出し、天に掲げる。目を閉じて呪文を唱えると、それは螺子巻き玩具のようにぐるぐると回り始めた。
アストロラーべがぽうと光り、聖女を中心に旋風が起きる。塵が舞う。芝が捲れて、土埃が激しくクララの肌を打って痛かった。馬にも同様に刺激があって、興奮して嘶いたので、リアンは強く手綱を引く。
突然、風がぱんと弾けて、無風。アストロラーべもガコンと音を立てて静止した。浮いた土がぼとぼとと降ってくる。
今度は遠雷のような、ごうという低い音がした。それでクララは旧市街を見る。
「あ……」
水晶の神殿のあった場所、白い水柱が立っている。ついに神殿が崩壊したのだ。
風が吹いた。湿っていて温いような、厭な風だった。微かに死んだ魚のような生臭さも乗せている。次いで、旧市街に濃い霧が発生。瞬きを3回ほどすれば真っ白に染まって、この丘からは何も見えなくなった。
ふと、クララは自分の足が震えていることに気がついた。霧の中から滲み出ている、ひりひりとした威圧感のせいだった。
クララは風を食む雄牛の時とは全く別の種類の恐怖を感じていた。あの時は見えない魔物に怯えた。いつ来るかも分からない突然の死に縮こまった。だが今回は違う。明確な圧があって『今にお前は死ぬのだ』と警告されているような気がする。
怖い、上手く呼吸が出来ない。手も冷える。足も動かなくて、猫に睨まれた鼠のように無力さに震える事しか出来ない。
──聖女は、とんでもないことをしているのではないか?
そう思ってクララはマリアベルを見た。が、当の本人は布切れでアストロラーべについた泥を払ったり、軽く磨いたりして、まったく緊張感がなかった。
「どうしました?」
「えっ……。だって、大蛇が復活して……」
「思ったより弱そうですよ。所詮は蛇ですね、リアン」
「そうですね。雄牛よりは戦いやすいかと。心配しすぎたかも知れません」
クララは唖然とした。二人はこの威圧を感じないのか?
「さて、みなが英雄の登場を待ち望んでいますから、ささっと行って片付けましょうか」
マリアベルはそれだけを言って、散歩でも始めるような足取りで丘を下って行った。霧中現れた、多頭の蛇の巨大な影を背負って。
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