躍動(前)
聖女マリアベル・デミは斯く語りき。
「強大な敵と対峙する時、まず何が必要か。1撃で何百という敵を粉砕する兵器? それとも、我が身を一騎当千とする強力な魔道具? または最上無二の策? どれも違います。答えは『情報』です。それがあって初めて出発点に立つ事が出来る」
デュダ旧市街の廃墟群に位置するその邸宅は、1階2階は水没していたものの、3階、特に大広間は無事であった。マリアベルは広間の中央、勝手に作った火床の側で短剣を手にし、大蒜を神経質なほどに限りなく薄く切る。
「私が知りたいのは輝聖の現状と王室の状況。輝聖については様々な風説が入り乱れて、何が真実で何が嘘なのか分からなくなっている。少し前までは真偽を見抜く事も出来たけれど、今は難しい。撹乱するために意図的に噂が流されているのでしょうね。もちろん、王室内の情報も知る術はない」
クララは火にかけた揚焼鍋に橄欖油を引く。マリアベルはそこに牛酪と薄切り大蒜、ほんの少しの蕃椒を乗せた。じゅうという音がして、殺人的な芳香が立ち上がる。
クララは腹が鳴りそうな予感がして、急ぎ腹を押さえた。一方マリアベルは香りを嗅いで少し難しい顔をしたが、ややあって自分の中で腑に落ちたのか、納得したように頷き小型の燈時計に火をつけた。
「実りある情報を手に入れるには『立場』が必要。立場次第で情報の質が決まってしまうと思いなさい。妥協した立場で手に入れた情報などは塵芥、逆に優れた立場を手にすれば宝石箱のような情報の坩堝を手に入れることができる。立場、立場、立場。1にも立場、2にも立場。従って、私たちはまず優れた立場というものを手に入れるために動きます」
リアンは捌いたばかりの海狸の肉をマリアベルに渡す。これは今朝方、水路に巣食うそれをリアンが獲って来たものである。
「その立場をどう手にするかですが、まあ、貴族に取り入るしかないでしょう。でも普通の貴族ではなりません。領主くらいでなくては。つまり、この領ではピピン公爵が相応しい。幸いにして私は聖女でリアンは王族ですから、素性を話せば燕見賜ることは難しくないでしょう。が、それでは能がない。彼らにも政治があるでしょうから、迂闊に近づけば逆に私たちの立場を利用され、良いように使われてしまうかも」
刻んだ河原艾、香菜、たっぷりの目箒、迷迭香、それから塩、肉荳蒄や鬱金、胡椒などの高級な香辛料を肉に纏わせて、揚焼鍋に置く。ぱちぱちと油が弾け、香ばしい匂いが漂う。
「私が求めるのは無敵の立場。公爵の権限を勝手気儘に行使でき、公爵と同じような情報を手に入れることができる。であれば重要なのは演出。ただ彼の目の前に現れるだけでなく、窮地の時に颯爽と現れ、直面した難題の全てを私が解決し、ピピン公爵の信頼を得る。そして、最終的に依存させることが目標です」
マリアベルが肉を焼いている間、クララは人参と玉葱を齷齪と切り分ける。李と蕃茄は二つに、幾つかの香草も刻んだ。
焼き上がった海狸の肉を、マリアベルが底の深い鍋に移す。そしてクララは空いた揚焼鍋に人参と玉葱を入れようとして、動きを止める。
──そうだ。炒めるのは玉葱だけだった。
リアン曰く、マリアベルはとんでもない凝り症であるから、指示された工程を無視すると後が面倒らしい。面倒の詳細を聞いたものの、仄かな笑みで返されてしまったから、まあ、気をつけるに越したことはないのだろう。玉葱だけを炒める。しっかり狐色になるまで。
「しかし、窮地というのはそう簡単に転がっているわけではない。ならば、どうしますか? 公爵閣下が危険な目に遭いますようにと神に祈りますか? 土壺に雛を封じ、経血と一緒に蒸して呪いをかけますか? それも良いですが、策を用いるのが確実。即ち、私が生み出した窮地を、私の手で完全に取り除く。そして、公爵の信頼を手にします」
クララは狐色になった玉葱を、肉の入っている大きな鍋に入れようとした。その時。
「待ちなさい、クララ」
「え?」
「まだ入れてはいけない。焦げが足りない」
急いで火にかけ直す。クララの隣でマリアベルがじっと玉葱の色を見る。
「あと10秒」
そう言って燈時計に目を移し、油の減るのを凝視する。
「3、2、1。入れなさい。早く早く早く!」
「は、はいっ!」
「よし」
マリアベルは、クララが用意していたその他の具材を鍋に入れる。そしてリアンが慣れた手つきで葡萄酒を鍋に注ぎ、満たした。
「最終的にはこの領を完全に掌握する。それには脅しが効きます。弱みを握り、威迫し、私に逆らえばどうなるのかをよくよく理解させる。信頼は恐怖に変わりますが、その後は飴を与えて依存させる。立場については、私から欲しいと言ってはいけない。相手に『どうか私たちの上に立ってください』と言わせるくらいでなくては」
クララは鍋を覗き込む。凄まじいご馳走だ。これもリアン曰くだが、マリアベルは自分のこれぞと思ったものしか食べない。だから、日々の食事には苦労するのだそうだ。
「そうして私は領軍を動かすだけの力と、他領を巻き込むだけの影響力を得ることができる。これで初めて敵──つまり禁軍、場合によっては正教会と渡り合うだけの力を得ることができるのです」
そう言ったところで、広間の隅に寝かせていた禁軍の兵の1人が呻き声を上げた。捕縛された兵らは芥子の薬で脱魂させられていたが、最高の朝餉の香りが魂を連れ戻したようだった。
「こ、ここは……、どこ……」
マリアベルはすたすたと歩き寄り、目を覚ました兵の頭を、まるで蹴球をするように蹴り飛ばした。兵は再び気絶する。
クララは唐突な暴力に少し驚いたが、悲鳴を出すまでは至らなかった。なんだか、昨夜の戦いを通じて暴力に慣れ始めている事に感じ入って、遅れて苦笑した。
「まずは下拵えの窮地作りから始めましょう。クララにも存分に働いてもらいますよ」
「私に出来るでしょうか」
「焔聖に会う一番の近道は、私に付き従うことです」
マリアベルは、にこりと笑んだ。
□□
海狸の煮込みが出来上がった。木皿に盛り付け、そこに潰した芋を添える。みなで神に祈りを捧げ、食べ始める。
その美味さにクララは頬が蕩け落ちるかと思った。こんなに美味しい料理、居城に住んでいた時だって食べたろうか。美味珍膳とは正にこの事。
そういえば、何度か赤髪の少女に煮炊きを手伝ってもらったことがあったが、彼女の作る料理も驚くくらい美味しかった。油と塩、少しの香草しか調味料がなかったのに。
「聖女さまって、世界をお救いになるだけじゃなくて、お料理も上手なんですね」
リアンが肉を切りながら答える。
「本当に。僕は学園にいた頃に輝聖とご一緒した事があるけど、とても美味しかったよ」
クララは考えた。輝聖は聖女を纏める存在。だとするならば、料理の実力もまた1つ位が上がるということなのだろうか。いやいや、この最高の料理のそのまた上があるとは到底思えない。でも、もしかすると……。などと無稽な事を考えていたらば、マリアベルは考えを見透かしたのであろう、不愉快そうに目を細めてクララを凝視。
「あれは世界中の食材全てをポタージュにしてしまう。私の方が十倍は上です」
□□
食後に茶の時間を設けた後で、3人は露台に出る。柵の向こうは水路だった。繋いでおいた木船に、捕らえた禁軍の兵らを手分けして乗せてゆく。
「彼らは王都に突き返す事にしました。ただしこれを添えます」
マリアベルは鰯を積むように兵の山を築き上げ、一仕事終えた風にパンパンと手を払うと、1枚の羊皮紙を2人に渡した。
リアンとクララは顔を寄せてそれを読む。読むにつれて、2人青褪めてゆく。その内容、無礼千万。挨拶の言葉を省いた上で要約するとこうである。
一、禁軍を名乗る不届者がデュダに押し寄せ、それを捕らえた事。野盗と思わしき事。
一、野盗は善良なる民を脅し、暴力を振るい、騒ぎを起こすなど、傍若無人の限りを尽くした事。野盗とは言え禁軍を名乗る者を領の法で処すは畏れ多い為、王の威光による処罰を乞い願う事。
一、デュダで行った悪行の数々を鑑みるに野盗で間違いないとは思えど、仮にもし、この者らの言う通り禁軍であれば、己が直接王都に出向き、無礼を詫びて自刃する事。
一、しかし彼らが本当に禁軍であれば、嘆かわしくも王が畜生を兵としたと言える事。薬師に萩の根を煎じてもらい、脳の老いを改めるを薦める事。痴呆は怖い病である事。また、畜生を兵とするを諌めなかった臣下は奸臣であるから、いち早く流罪に処すを薦める事。
一、国家安寧を願い奉る事。恐惶敬白。
以上である。なお差出人はピピン公爵領の貴族『デュダのロック男爵』となっていて、彼が筆を執った事になっている。
「少し優しく書きすぎたかも知れない」
リアンとクララは、いやいやいやいや、と揃って首を横に振った。禁軍の名を偽った盗賊を捕まえたという旨が書かれているのものの、ここで山になっている兵らは間違いなく禁軍な訳であるし、仮に盗賊だとて普通は早馬を立てて王都とやり取りをしてから移送となるわけだから、もう、なんというか、分かっててやっているのは見え見え。つまりこれは、王城目掛けて唾を吹きかけ糞を投げつけるのと変わりはないのだ。しかも、他人の名前で!
これにはリアンも物申す。
「こんなものを送ったら、ピピン公爵は王国の敵となります」
「新王が直情的ならば軍を差し向けてくるやもしれませんね。器を測る為にも良いでしょう」
マリアベルは船に乗り込み、軽く呪文を唱えて、船に推力を付与する。
「聖女様。無関係な人にだけは危害を加えないよう、お約束ください。僕はあなたが道を外した時は殺す事に決めている」
リアンはため息交じりに言って、青い瞳でじーっとマリアベルを見た。忠告の意味を込めての眼差しであるが、届いているのか届いていないのか、彼女は背負袋の中から芥子の薬を取り出し、覚醒しそうな何人かの兵に無理やり飲ませた。
「分かってます。今回は無闇に人間を巻き込まない。ただし、多少は付き合ってもらう事になります。輝聖を護る為には致し方がないものと割り切りなさい」
リアンとクララも船に飛び乗る。
「地下墓地のような事は二度とあってはなりません」
そう言うリアンに対し、マリアベルは怪しげに薄ら笑って、人差し指で自らの額に円を描いてみせた。的はここだ、と。
「よろしい。──もし私が、途中で道を踏み外したらば、容赦なく魔弾で撃ち抜きなさい」
マリアベルは焔聖の体から出てきた宝石の弾丸を、魔弾と名付けた。文字通り魔力が込められた銃弾である事、また、救世の聖女を殺める事の出来る、強烈な魔である事が由来である。
「クララ。リアンに魔弾を渡しておきなさい」
「は、はい」
リアンは渡された弾丸を太陽の光に透かした。弾の中で光が虹となって踊っている。その7色を見ていると妙に気分が落ち込んだ。胸がずしりと重くなり、意味もなく不安になって、妙に焦るし、どこか人恋しい気もする。
魔弾は完璧な形をしていた。少しでも銃を扱える人間が見たら、これはと思って筒に詰め込み、獲物に向けて放ちたくなるだろう。きっと弾は真っ直ぐに、そして伸びやかに放たれ、兎や狐の胴を完璧に貫く。それくらい魅力的な形をしていた。
本当にマリアベルの言う通りに聖女を殺す弾だとするならば、一体誰がそんな危険なものを作り出したと言うのか。宮廷魔術師なのだろうか。それとも王室とは無関係の余所者か。まさか正教会か。目的がわからない以上、いくら考えたところで意味がない。厭なことに、弾丸の中の虹もせせら笑うように揺れている。
□□
小舟はデュダの水路を行き、水晶の神殿を臨む街外れの桟橋に碇泊、予め呼び付けておいた馭者に多額の報酬を渡し、兵らを預ける。馬車が発って、マリアベルはそれを見送りながら、煙草に火をつけた。
「街に風説を流しましょう。内容は『デュダの大蛇が復活する兆しがある』。水の聖女は巡礼を中止して王都に籠ってしまった訳だから、信じる人も多いはずです」
デュダは第二聖女隊が巡礼する予定だった。
「そして街の騒ぎが大きくなり、収集できなくなった時を狙って、実際に大蛇を放ちます」
「ウィンフィールドの時と同じことをするおつもりですか?」
マリアベルは真っ白な煙を吐き出す。
「あの時は焦っていたし、自分の未来に怯えていた。時間をかければもっと上手くやることも出来たはずなのに、そうしようとも思わなかった。早く安心したくて、情けない仕事をした。でも、今回は違う」
「お覚悟は分かります。でも、大蛇を倒せますか?」
記録上、デュダの大蛇は強力な魔物である。凡そ80呎(約24m)程の大きさがあり、魔物の中でも特に巨大。尾は鋼の如く頑丈。地を叩けば地盤を壊して、地形すら変えてしまう。厄介なのは猛毒の霧であり、口から吐かれたそれを浴びると奇妙な発疹が全身に出て、皮膚が膿んで間も無く死ぬ。
大蛇が猛威を振るった当時、テスマスの賢者と呼ばれる魔術師が悪戦苦闘の末に封じたようであるが、被害は大きかったとされている。
「可能でしょう。即座に首を落とせば問題はない」
「ハイドラは首を刎ねても、その場所から新たな首を産んで、死なないとされているとか。それでも、確実に倒せると言えますか?」
「傷口を焼けば良い。細胞が壊れて新たな首も顔を出せないでしょう。必ず、倒せる」
マリアベルは煙草を近くにあった岩に押し付けた。じゅうと音が鳴る。
「大丈夫。リアン、私を信じて」
マリアベルの瞳の中、青い海、決意の色で凪いでいる。
「クララも。絶対にウィンフィールドのようにはしない。だから私についてきて。お願い」
次いでクララを引き寄せ、片手で軽く抱き、優しく背をぽんぽんと叩いた。クララは少し不安だったが、それで心が落ち着いた。
「では、各々風説を広めること。方法は問いません。折を見てまた集まりましょう」
禾稼の節、立待月、秋麗良日。海聖マリアベルは姿の見えない強大な敵に対し、一滴の毒を仕込み始める。
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