昴宿(前)
旅人は夜の街を駆ける。身軽な動きで曲がりくねった小道を進んで行く。
「くそっ! 素早いっ!」
兵士2人は甲冑を着込んでいるので追うのに苦労した。走るための装いではないから身体が重く、動かしにくい。疲労が蓄積してきて、徐々に脚が上がらなくなってきた。
必死に追っている内に笛の音を聞いて駆けつけた兵士四人が合流、そのうちの1人がボウガンの名手で、旅人の背中目掛けて連続で射かけた。しかし旅人は振り向く事なく、ひらひらと避けて見せ、ぐんぐん突き放す。
「せ、背中に目でもついてんのかっ⁉︎」
旅人の走りは速い。とても捉えられず、このまま追いかけていても逃すだけだ。──だが、旅人の向かう先は三叉路。
「しめたっ! ここは二手に分かれて、お前らは先回りしろっ!」
言って、兵達は三叉路の篝火を横切る。刹那、乾いた発砲音がして、最後尾を走っていた兵が唐突に倒れた。鐘塔から放たれた銃弾が膝を撃ち抜いたのだ。
だが他の兵は旅人を追うのに必死で、発砲音も、撃たれた兵の小さな悲鳴も耳には届いていなかった。とにかく、兵らは旅人を直接追う者が3人と先回りする者が2人という形で、三叉路で二手に分かれた。
先回り組2人が石畳の上を駆ける。疲れた脚を必死に動かして前へと進むが、小さな異常が現れ始めた。
「痛っ……」
急に指先がチクリと痛んだ。手も足もである。暫く走っていたが、我慢ならなくなって立ち止まる。しかし、手を見ても何か異常かあるようには思えない。
「な、なんだ?」
「お前も痛むのか?」
徐々に痛みは痺れのようになってきて、暗がりでも何となく分かる程度には見た目にも変化が現れた。指先が徐々に闇に溶けて──いや、指先が黒く変色している。
「何が起きている……」
結論から言えばこれは凍傷であった。この兵達は仕掛けられていた魔法陣を踏んだ。旅人は三叉路で二手に分かれる事を見越して、一方の道に罠を張っていたのだった。
「クソ、なんとかしなくては……‼︎」
兵は焦った。凍傷だと気が付かず、何らかの毒を仕込まれたのだと思って、体のどこかしらに毒矢が刺さってないか体を弄った。そうしている内に、今度は体の動きが鈍ってきた。
「さ、寒い……」
体が芯から冷えて、二人、蹲る。兵はここでようやく魔法を用いられたのだと察した。
「どう対処したら……」
こんな魔法は知らない。教本から懸け離れている。恐らく古い魔術書によるものか、自分で作り出した独自魔法。ああ、あの旅人は相当な実力者だ。魔法学者か、どこかの領軍の魔術師か。相手にするのは危険だと、それを味方に教えなくては。
そして兵は急激な眠気に襲われて、旅人を追うことは出来なかった。
□□
旅人の背中を追う兵3人は疑問に思っていた。先回りをしているはずの2人が一向に現れない。まさか、道に迷ったのだろうか。
「ええいクソっ! あの野郎共は何してやがる!」
そして四つ辻の篝火の近くを通った時、ぱんという乾いた音が鳴って、一番後ろを走っていた兵が倒れる。それにはもう1人の兵が気がついた。足を止めて倒れた兵を見ると彼は腰を押さえていて、石畳の上に血溜まりが広がっていった。
「おい! 止まれっ! どこからか狙撃──」
そう叫んだ時、この兵は膝を撃たれて倒れる。
ついに旅人を追う兵は、火酒を飲んでいた兵を残すのみとなった。共に行動していた兵がついて来ていないのにも気が付かず、一人必死になって旅人を追う。走れど走れど差は開く一方だったが、兵には勝算があった。もし、このまま道を曲がることなくまっすぐ突き進めば、その先は行き止まり。デュダ旧市街の水路に突き当たる。
思惑通り、旅人は真っ直ぐ進む。そしてついに足を止めた。道が忽如として切れ、6呎(1m80㎝)下に水路がある。
「ハァハァ、追い詰めたぜ……」
兵は肩で息をしながら旅人を睨め付けて、剣を構える。そして痰を吐き捨てた。
「もうお前は逃げられねえ」
「お勤めご苦労様です。お一人ですか?」
背後を振り返る。ついて来ていた筈の兵士が2人、遠く四つ辻の篝火の側で倒れている。
「……なっ! 」
「それで、何の用でしょうか」
旅人の悠揚迫らぬ言いぶりに気圧され、兵は剣を強く握り直した。
「お前たちは民を煽動している。無闇矢鱈に世界の滅亡を煽って、国民を恐怖に陥れ、権を恣にしようとしている。それが許されると思ってか」
旅人は兵を暫くじっと見つめた後で、顎に手をやった。──思っていた答えと違った。
民を煽動とは? 何かの比喩か、それともそのままの意味か。話が見えない。
「何の話ですか?」
「黙れッ‼︎ お前は罪を重ねていると言っているんだッ! 神聖カレドニア王国はお前たちのような存在を認めてはいないッ!」
「私が罪を重ねている?」
気になる言い方だった。禁軍は第三王子リアンを捕らえに来たものだと思っていたが、目的は海聖の私? 何故?
「……私が罪を重ねているのですか?」
「ハッ。とぼけるつもりのようだな。 ならば実力行使だ」
男は緊張を気丈の笑みで覆って、器用に剣を振り回した。風を切る音がひゅんひゅんと鳴る。軽やかな剣捌き。
「俺は御前試合で2年連続の優勝を果たした。素行が悪くてお上にゃ好かれてないが、本来ならこんな所で燻ってる役者じゃあ無い。……たとえ聖女と言えども細切れに出来るぞ」
マリアベルは思う。この男の目的は、やはり聖女。でも、何故?
しかし、これらの疑問は次に男が発した一言で、全て木っ端微塵に吹き飛んだ。疑問が解決したとか、そういうのではない。あまりの衝撃で、考えが勢いよく宙に投げ出されて、そのまま爆ぜて消えてしまったのだ。
「覚悟しろ。──輝聖リトル・キャロル!」
「……は⁇」
──リトル・キャロル? この男、もしかして、私を輝聖と勘違いしている? マリアベルは茫然自失となって立ち尽くした。
「正体を知られて驚いているようだな! だがこれ以上隠しても無駄だぜ。輝聖は外套を羽織って聖痕を隠し、女子と共に大白亜へと向かっている。ご丁寧に髪をまとめて帽子で隠しているようだが、お前の手首に刺青があるのを酒場の主人が見ていた。それと──」
男はマリアベルの脚を指差す。
「──段袋から煙草の箱が覗いてるぜ。もう言い逃れは出来ねえ」
マリアベルは段袋の衣嚢に目を移した。今の今まで走り回っていたせいで、箱が飛び出して顔を覗かせている。いや、しかし。最早そんな事はどうでも良い。
私が、あの、リトル・キャロルと間違えられた? 他の人間ならまだしも。
よりによって、あのリトル・キャロルと?
「はあああああああ⁇」
マリアベルは額に青筋を這わせ、真っ赤な怒りを乗せた息を肺に空気が無くなるまで吐き尽くした。火を噴かん勢いであった。
確かに、デュダの街は大白亜、即ち聖都アルジャンナと街道で繋がっている。そしてリアンを女子と勘違いするのも分からなくはない。
分からなくも無いが、許せない。看過できぬし勘弁ならない。私をリトル・キャロルと間違えるだなんて! 何度でも心で叫ぶ。リトル・キャロルと間違えるだなんて!
マリアベルは帽子を投げ捨てた。顕になったのは青い髪。それを見て兵は目を丸くした。どう見ても、紺色の髪ではないので。
「……なに?」
2人の間にしんと沈黙が流れる。長い沈黙だった。互いに言葉を待っていたのだが、痺れを切らしたのは兵の方だった。
「貴様、誰だ……?」
「──マリアベル・デミ」
言われて、ぽかんと口を開ける。
「あれは王都にいる」
そして兵は鼻で笑った。海聖は一度巡礼に出たきりで都に篭ってしまった役立たずの聖女。こんな場所にいるわけがなかろう。
さて普段のマリアベルであれば、あれなどと呼ばれた上に嘲笑までされたとなれば癇癪玉を破裂させるところであるが、今はこの男の無礼などはどうでも良かった。それよりもリトル・キャロルと間違えられたという事実が頭の中を掻き乱し、怒りと戸惑いでいっぱいにして、まともな考えなどさせてはくれなかった。
我慢できず、マリアベルは吠えて全ての間違いを指摘する。
「──輝聖と共に旅をしているのは、銀髪の田舎娘ッ!」
マリアベルが男を睨め付ける。男の足元に霜が纏う。無詠唱魔法、霜が皮膚に食い込む。兵は強烈な痛みに悶える。
「輝聖はデュダにはいないッ! マール伯爵領から南西に向かって、王都を迂回しながら大白亜を目指しているッ!」
マリアベルの背後、水路の水が仄かな光りを湛えて、沸騰したようにぼこぼこと盛り上がる。妙に温い、湿った旋風も吹き始めた。
「輝聖の身長は5呎8吋ッ!(173㎝) 背格好がまるで違うッ! 仕草も、声もッ!」
水路の表面を風が撫でて、ふわりと無数の水玉が浮いた。爪ほどの大きさの何百という水玉は宙で風に踊り、蛍のように交う。
「たとえこの街にあの子がいたとしてッ!」
マリアベルは兵に向けて手を翳す。兵は嫌な予感がして、やめろと大声で叫んだ。逃げようとするが、逃げられない。鉄靴が地面と凍着していた。
「──お前如きがリトル・キャロルに指1本でも触れられるものかッ‼︎」
翳した手を振り下ろす。すると踊る水玉が一斉に兵に向かっていった。1つ1つが輝く針となって、男の体を貫く。甲冑も全く意味をなさなかった。
水玉は脚部を覆っていた霜をも粉砕し、兵は倒れた。血溜まりが広がっていく。脳や心臓には当たらなかった為、なんとか生きながらえて蠢いていた。
そしてマリアベルは兵の顔面を踏みつけて十字を切る。
「何より、リトル・キャロルはこそこそと逃げ回るような女じゃない。舐めるな、糞虫」
海聖の足の裏は仄かに光って、兵の傷を死なない程度に癒していた。喉や肺に開いた穴も臓器の傷も、じわりじわりと治す。マリアベルはこのまま、男から情報を引き出すつもりだった。何かを隠すようであれば回復魔法を弱め、死を実感させてから、また問いただす。
だが、兵は諦めが悪かった。意を決したように刮目、甲冑に隠していた錫の入れ物を手にし、マリアベルの顔面に向かって投げつけた。これには火薬がたんと入っている。
「《──戒めを脱し敵を逃れよ》」
そして男は小さく呪文を唱えて、錫に火をつけた。瞬時、爆発する。マリアベルは吹き飛び、辺りにぴしゃりと血が飛び散った。
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