再会(前)
デュダ市街地の南通りに古い酒場があった。店内、客は海聖マリアベルただ1人。男物の外套を羽織り、頭には鍔の広い帽子を被っていて、特徴的な青い髪を隠していた。これはいわゆる流民ないしは旅商人の格好で、無用な混乱を避けるための変装だった。
マリアベルは窓の外に目をやった。通りを慌ただしく人々が行き交い、とても顕現日の翌日とは思えない。普通祭りの次の日であれば、みな二日酔いにやられて、ぼんやりとした空気が街中に漂うものだ。
人波の中に碧眼を認め、手を挙げて合図を送る。それから程なくして入り口の扉が開いた。入って来たのは金色の髪を持つ美しい少女──ではなく少年。第三王子リアンだった。
「どうでした?」
「制札が立てられていました。王が死んだと」
マリアベルは、やはり、と呟き親指の爪を噛む。
数刻前、2人は水晶の神殿に向かう為にデュダの街に入った。だが、どうも街の様子がおかしい。人々は蜂の巣を突いたように騒いでいて、狼狽えて、混乱していた。そして、みなが口にしているのは、王の死。
これは真実か偽りか。リアンは居ても立っても居られなくなって、真偽を確かめに広場へと向かった。そこに制札が立っていると、人の波の中で誰かが言った気がしたから。
「この酒場の主人もバタバタと外へ飛び出してしまった。騒ぎに加わりたいのでしょう。客がいるのに店を空けるなんて、不用心な」
喧騒は壁を貫いて、静まり返った酒場の中まで押し寄せている。
「王が死んだことの信憑性は?」
問われて、リアンの頭の中で昨夜の出来事が蘇った。王の姿、そして、恐ろしい遺言。
──次なる王は必ず殺せ。
「確かかと」
「そうですか。心中お察しします」
いえ、とリアンは軽く首を横に振った。
王は父だ。だが、父を失った事に不思議と喪失感はない。それは王を父だと思ったことがないからだと思う。田舎で共に暮らしていた継親の方が、父だという実感がある。
それでも夢の中の遺言は悍ましく身体に残り、背筋を撫で続ける。まるで呪いのように。
「そして、現場にロザリオが残されていたそうです。柄は蔓苔桃」
マリアベルは頬杖をつき、指でとんとんと机を叩きながら考えを巡らす。蔓苔桃はリンカーンシャー公爵家の象徴である。この家の出身として真っ先に思いつくのは、火の聖女ニスモ・フランベルジュ。
リンカーンシャー公爵家は先祖を辿ると王族であり、今なお王家を支える大貴族の一つ。聖女を排出した事でさらに力は増し、諸侯の中で最も影響力を持つと言っても良いだろう。軍事力も高く、領民も豊かで、人口も多い。
マリアベルは正面のリアンに目を移す。透明感のある面相に濁りを見た。何か不安を抱えているような、気負っているような。恐らくだが、何か隠し事をしている。
「一旦そのことは置いておきます。情報が出揃わない限り、考えても仕方がないから」
言ってもマリアベルは机を指で打ち続けた。この仕草はここ最近の癖であり、自らの足で歩み始めてから現れた。今まで誰かを利用したり、人に甘える事に慣れていたから、自分だけで1から100までを考えるのが落ち着かず、思考を纏めるのに刺激が欲しくなるのだった。
「そんな事よりも今やらなくてはならないのは、あなたの姿を隠すこと」
「やはり狙われます……、よね」
「王が殺された理由を知らないからハッキリとは言えませんが、可能性がないわけではありません。予防はしておいた方が良いでしょう」
マリアベルは背負袋の中から女物の衣服を取り出す。
「今日から男を捨てて女として生きて下さい」
リアンはギョッと目を丸くする。
「今だって王族と悟られないように男物は身につけないようにしていますが、それは本当の本当に、正真正銘、女装ではありませんか」
「可愛らしい頭巾とお飾りも用意しました」
「いつそんなものを買ったのですか」
「ウィンフィールドを出てから、割とすぐに。いずれ必要になるかと思って」
リアンは腕を組み、呆れるようにして目を細める。頭巾と髪帯は悪ふざけが過ぎるのではないか。
「何ですか、その目は」
マリアベルはそう言って、わざとらしく嫌なため息をついた。
「いいですか? 此処から先は少しの油断が命取りになるものと思いなさい。つまらない自尊心など捨てて、さあ、早く着替えて。今すぐに。ここで」
「こんな顔でも僕は男ですよ。頭巾や髪帯はちょっと……」
頭巾の線帯を指でなぞりながら苦笑すると、マリアベルは素っ気なく言う。
「さすが王族。危機感というものがないご様子」
その冷たい表情に、若干の笑みが宿った。
(あっ! こ、この人、笑った……!)
何だその表情は。澄ました顔をしているが、笑みを隠しきれていない感じ。期待の表情が透けて見えている気がする。……まさか、本当のところ、マリアベルは女装が見たいだけではないか? リアンは確信した。絶対にそうだ。そうに違いない。
「はいはい、分かりましたよ。着替えれば良いのでしょう」
そうであればさっさと降参した方が良さそうだった。地下墓地での一件がそうであったように、マリアベルは自らの目的を達成させる為なら手練手管の限りを尽くす。結局女装する事になるなら、抵抗するだけ時間の無駄だろう。心労にもなるし。
(やれやれ。少し拍子抜けした)
リアンは呆れた。それと同時、昨夜の出来事が肩に重たくのしかかっていたのが、不思議と和らいだ気がした。
諦めて頭巾を頭につけると、マリアベルは満足そうににんまりと笑った。そのしてやったりな笑顔を見ると、まさか神経質になっていたのを察して馬鹿げた事を言ってきたのではあるまいか、という疑念すら生まれる。だとしたら、まんまと肩の力を抜かされてしまったと言うか、なんと言うか。やはり、この人には敵わない。
「聖地に行くのは一旦控えましょう。無闇に行動するのは危険かも知れない」
「僕たちの動きは、どれだけ知られているのでしょうか」
「弑逆者が誰なのかが分からないのでなんとも言えませんが、それなりに知られていると思って行動したほうが良い。王都には私の影武者がいて、一般的には海聖は健在だと思われていますが、私が第三王子と行方を晦ませたのは知る人なら知る話」
マリアベルは髪帯を手首に強く巻き、流行りの綺麗な巻きを作ろうとしている。
「私は髪を切って、あなたも女になるとは言え、背格好はそう変えられない」
「背格好だけで僕たちに辿り着けるのでしょうか」
「お甘いこと。考えうる全ての可能性を頭に入れて行動をしなさい」
髪帯がくりんと巻けた時、勘定台の後ろにある勝手口が開いて、酒場の主人が帰ってきた。その男は訝しむように2人を見る。
「1人客だと思っていたが、2人だったのか」
嫌な目つき。マリアベルは『注文を』と手を上げ、平静を装う。が、男は値踏みをするようにじっと見続けるばかりで、やがて勝手口から出て行った。
「怪しまれたかも知れませんね」
マリアベルは窓から男の動きを追った。男は人の波を掻い潜り、兵士に寄る。どうやら己らがいることを告げ口しているらしい。
「リアンがさっさと着替えないから」
「やはり、何者かが僕の事を探しているのか」
「あの兵はどこの所属? 領軍か自警団か……。人が多すぎて装備がよく見えない」
ややあって勝手口から入ってきたのは、2人の兵士だった。マリアベルとリアンは、彼らの檳榔子で染められた黒い陣羽織と、それに描かれた王家の紋章を見て、机越しに目を合わせる。──間違いない、禁軍である。
禁軍は王の兵。その彼らが王の殺された翌日にリアンを探しているとなれば、それは意味深だった。
兵は2人の席の側まで来て、言う。
「王師北軍である。貴殿ら、どこから来た」
マリアベルは2人の兵の内、話していない方が剣の柄に手をやっている事に気がついた。少しでも不審な動きをすれば斬るつもりらしい。適当な会話をして少しでも情報を引き出したかったが、さっさと逃げた方が良さそうだ。
さて、どうする。酒場の外は人で行き交っている。派手な魔法を使って目立つのは賢い選択とは思えないが……。
「我々はある2人組を探して──」
刹那、マリアベルは机を蹴り上げた。
1人の兵は躊躇し、後退りをする。もう1人の兵は素早く反応して、剣で机を両断した。が、すでにリアンとマリアベルの姿はない。
「……消えた⁉︎ バカな!」
兵らは中途半端に開いた表口の扉を見て、ようやく逃した事を理解した。
「この素早い身のこなし、間違いない。 ──ヤツだ! ヤツを追え!」
□□
クララは雑踏の中を早足で行く。ひどく狼狽していた。──どうしよう。大変なことをしてしまったのかも知れない。
制札に貼られていたロザリオの絵は、確かに赤髪の少女が持っていたものだ。となると王様が死んでしまったのは、あの子のせい? あの子が殺してしまった? あの子を助けたのは私だ。つまり、私のせいで王様が死んでしまった?
そういえば、彼女は意味深な事を言っていた。確か、もう一度頑張れると。まさか王殺しをやろうとしていた?
もし、本当にそうだとしたら。このどうしようもない不安が的中してしまったら。そうしたら、私はどうしたら良い? 責任を取らなくてはならない?
どうしてこんな事になってしまったのだろう。頭の中がぐちゃぐちゃだ。目眩までして来たし、手足も冷えてきた。
「誰か助けて……。もう分からない……」
クララは正義感の強い女子であるから、何かをしなくてはならないと考えた。でも何をしたら良いかが分からない。自分が出来ることなんて何もない気がしている。だからと言って逃げてしまうわけにもいかない。どうしよう。
……でも、あんなに優しい子が、そんな事をするだろうか。そうだ。するわけがない。きっと何かの間違いなんだ。ロザリオだって似ているだけで本当は別物。思い過ごしの可能性もある。
クララは冷静になろうとした。冷静になって、あの赤髪の少女を探す事から始める事にした。そして、彼女に話を聞こう。そう思った。
彼女は昨夜に消えた。まだ遠くには行っていないはず。そう、遠くには行っていないのだから王を殺す事なんか出来るわけがない。それに、昨晩は祭りの後だったから人も多かったのだし、彼女を見かけた人だっているに違いない。聞き込んで行けば、やがて見つけられるはずだ。
「あっ、あのっ、すみませんっ!」
クララは偶々近くにいた背の高い男に、縋るようにして話しかけた。心の中では冷静になれ、冷静になれと自分を落ち着けようとしていたが、其の実とても焦っていたから、男が黒い軍服を着ていた事は然して気にならなかった。
「人を探していて! あの、そのっ!」
「人を?」
優しそうな男だった。笑んでクララの話を聞こうとしている。
「赤い髪の女の子で、雀斑があって、体に不思議な刺青があって、それで、私の友達で!」
言って、クララはハッとした。柔和な表情で話を聞いていた男が、目の色を変えた。
「あっ……!」
クララは腕を強く掴まれた。
──逃げなきゃ。
腕を掴まれたことの痛みがクララを追い詰めた。渾身の力でその手を振り払い、走って逃げる。後ろから声がしている。逃げた、逃げた、と。
クララは走りながら振り返った。黒い陣羽織の兵士も、こちらに向かって来ていた。
どうして武装した兵士が追いかけてくる?
捕まってしまう?
もしかして、赤髪の少女を助けたから?
やはり罪だったのだろうか。
でも、罪だと言われたって。あのまま死んでしまうのを放っておけと言うのか。
こんな事になるなら、きっと、人なんか助けなきゃ良かったんだ。
クララは人混みを避けて閑散とした地区に入り、路地裏に逃げ込んだ。必死に走りながら、心の中でアンナ・テレジンに助けを求めた。
だが、逃げて逃げて、逃げた先は袋小路だった。泣きそうな顔で振り返ると、兵士が3人と軍服を着込んだ男が歩き寄って来ていた。
「なぜ逃げる?」
クララは軍服の男の質問には答えず、必死に首を横に振った。何かを言いたいのだけれど、恐怖ですぐに言葉が出てこなくて、こうすることしか出来なかった。
「この女、何か知っているぞ」
「一緒に来い。話を詳しく聞かせろ」
男達が近寄って来るが、それでも首を振る。ついには兵の1人が剣を抜いた。脅して従わせるつもりだった。
クララは輝く刃を見てへたり込む。そしてロザリオを握りしめ、目をぎゅっと瞑って、神に助けを乞うた。
──どうか、どうか助けて下さい神様。
祈れば悲しい情景ばかりが蘇った。瘴気が迫って領から逃げ出した時の街の炎と、空を舞う灰の輝き。両親が狂って死んだ部屋、酸っぱい臭い。葬列と埋葬、葬送のバグパイプ、悲しげな旋律。墓地の柳の木。
良い事も楽しい事もたくさんあったはずなのに、蘇るのはどうしたって辛い思い出ばかりだった。
がしゃり、と金属の音がした。きっと、剣を振り上げた時の鎧の音だ。大人しく従わなかったから、斬られてしまうんだと思う。それも仕方ないのかもしれない。最期に、アンナの顔を見たかった。
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