運命(後)
ある晴れた日の朝。少女が今日は調子が良いと言ったから、2人で市場に出かけることにした。その日は神リュカが楽器を手にした日、即ち顕現日だった。このデュダの街も賑やかになると、宿屋の主人に聞いている。
赤髪の少女は『任せて』と言ってクララの髪を香油で綺麗に整えた。また、少女は外套の裏に隠し持っていた化粧道具で、クララに化粧をしてやった。
クララと少女は街に出て、曲芸や芝居、歌などの出物を見て、買い食いをした。この日はクララにとって、旅の中で初めて心から楽しいと思える日だった。今までの辛い事は、今日を最高に楽しむためにあったのだと言っても良いくらい、幸せな日だった。
日が西に傾いた頃。高台の広場で、2人は賑やかなデュダの街並みを見下ろしていた。今日経験した楽しい出来事が胸の中でいっぱいになって、クララは微笑みを止められない。それを見て少女も嬉しそうに笑った。
「すみません、何か変でしたか……?」
急に笑われた気がしたので、クララは頬を赤らめて俯く。
「何でもないわ。私も嬉しかっただけ」
居た堪れず、クララはきゅっと自身の手を握った。
「私も本当に楽しかった。心の底から」
「わ、私も! 私もです。楽しかった……」
「このまま、ずっとここにいようか。何もかもを忘れて。本当に、全部忘れてしまって」
妙な事を言い始めたので、クララはそっと赤髪の少女の顔を覗く。少女は笑んでいた。だが、どこか寂しげで、諦めを孕んだような儚い笑みだった。
「朝起きたら少しのパンとポタージュを食べて、朝市に出かけるんだ。昼は日向ぼっこ、飽きたらお散歩。夜にはお肉とお魚があって、エールを飲んで、お話をしていたら疲れて寝てしまう。祭りの日にはこうして出かけて、たくさん遊ぶの。二人の間には、良い時間が流れている。ずっと、ずっと……」
反応の仕方がわからず、クララは黙した。
「……何でもないわ」
赤髪の少女はそう言ってくしゃりと笑う。
「私のことを何も知らない人に会ったのが本当に久しぶりだったから、浮かれていたのね」
そして、クララの手を握った。
「──あなたのおかげで、もう一度頑張れる。次は、失敗しない」
子供達の笑い声に掻き消されそうな程小さな声なのに、クララの耳には、確かに、はっきりと聞こえた。正直言って、何のことを言っているのかは分からない。だが、この神秘的な赤い髪の少女を応援しようと思った。
「あの……。まだ、名前を聞いて──」
名前を聞いていない。そう言おうとしたところで、赤髪の少女はクララの唇に人差し指を当てた。それは、教えられないと言う事。
□□
その日の夜。クララが水薬を作る為の素材を机に並べていた時、赤髪の少女は忽然と姿を消した。たった今まで、寝台に腰掛けて本を読んでいたにも関わらずだった。机の上にあった精巧なロザリオもない。
彼女が座っていた所に金貨が5枚残されていた。掘られているのは神の横顔。海聖マリアベルが枕元に置いていったものと同一。いや、少し違う。あれには第二聖女隊と書いてあった。この金貨に書かれた文字は、第一聖女隊。
「……そんなことって」
寝台に立てかけられた杖に気がつく。折れたはずの白楊の杖が、割り接によって見事に修復されていた。当然、自分でやった覚えなどない。あの神秘の少女が一瞬のうちに直したとしか考えられない。
クララは祭りの余熱が冷めない街に出た。満天の星の下、必死に少女を探した。しかし、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。
□□
赤髪の少女が消えた日。禾稼の節、望。満月の夜に運命は大きく動いた。
デュダ近郊にはハックル湖という大きな湖がある。星空と水面が曖昧になった洋々たる輝きの上、仄かに光る模様が立った。
模様の正体は裸の人間だった。光るのは体に刻まれた聖痕。その者は妙なことに湖面に爪先で立っている。横に水平に伸ばした手には陽炎──のような刃を持つ。顔は正面、体は棒のように水面に垂直。天地人の姿勢。女は出来るだけ静かな呼吸を続けていた。
青い髪は汗で濡れていて、毛先と顎から汗が滴り水面を打つ。その、ぴとり、ぴとりという音だけが、星の原に唯一存在する音だった。
今、海聖マリアベル・デミにあるのは、静かなる懊悩である。
──何故、私はこの石剣を授かったのか。
マリアベルは他聖女に比べて武に長けない。自信があるのは魔法と兵法。だが、水の聖女として授かったのは聖ノックス市の石剣である。
剣は戦士が振るう武器。自身の能力に合っているとは思えない。聖女になったばかりの時は然して気にはならなかったが、憑き物の取れた後はそれが妙に気になった。
これは何の暗示だろう。戦士になれと神は言うのか。確かに父は一流の戦士。私の身体にそのエドワード・デミの血が流れているならば、マリアベル・デミにも戦士の才覚があると、神はそう言いたいのだろうか。
ウィンフィールドを発ってから剣の鍛錬に時間を費やすようになったが、あまり成果を感じない。体質的にすぐ疲れてしまうのもあって、呼吸法で鍛える時間が多くなる。
そもそも剣の鍛錬は何のために行なっているのか、自分でもよく分かっていない。剣が強くなったからと言って、どうなる。魔法が使えるなら、それで良いではないかとも思う。
だが、きっとこれは、心奥にある満たされない想いがそうさせるのだろう。第二聖女隊を自ら捨てて以降、もやもやとしたものがずっと胸の中にある。それを誤魔化すため、鞭打たれるように、目の前のことに一生懸命になろうとしているのだと思う。
自分で選んだ道に後悔をしていると言うことだろうか。いや、そういうものでもない気がしている。言葉にし難いが、例えば、親からの呼びかけに答えることなく、それを無視して立ち去った時の罪悪感にも似た、密やかなざわめきがずっと続いている感覚だ。
マリアベルはそっと目を開けて、そのまま水面を歩き、汀まで行く。これ以上続けることの無意味さを悟った。
軽く水で汗を流して服を着る。その時、段袋の衣嚢から小さな箱がぽろりと落ちた。
マリアベルはそれを拾い上げ、箱を開ける。中に入っていたのは煙草。今の自分を脱したいと思って、少し前に買ったものだった。買ったは良いものの、なんだかあの娘の後追いでもしているようで、一口も吸っていない。暫く煙草をじっと見てため息をつき、衣嚢にしまった。こうして眺めるのもそろそろ飽きた。
そして背負袋から天体図とアストロラーべを取り出し、卜占の準備を始める。マリアベルは、こうして自分を情けなく思った時、決まって占いに逃げた。今の自分は間違っていないという証拠が欲しかった。そんな証拠はあるわけないと、自分でも分かっているのに。
占いから導き出される神の言葉はウィンフィールドから出て以降、出鱈目が続いている。言葉になっていないのだ。まるで神から見放されたかのようにも思えた。聖女という立場を捨てるつもりで隊を解体し、気儘に出奔したのだから仕方がないとは思えど、この事も苦しかった。
マリアベルは『どうせ同じ結果だろう』と、投げやりな形で天体図に銀砂を撒き、アストロラーべで神の言葉を算出をする。そしてそれを言語化した時。──現れた文字に思考が止まった。今回は出鱈目ではない。
『爾、輝聖の業を背負え』
マリアベルは目を見開いたまま固まった。
奇妙なことに、天上、月と北極星の子らが、まるで海聖の運命を煽るようにして輝きを増していった。
□□
同時刻。湖畔にある小さな宿。第三王子リアンは、水晶の神殿へ赴く準備をしていた。その神殿の聖地はデュダ旧市街に存在し、『デュダの大蛇』という多頭の蛇が封印されている。
二人はプラン=プライズ辺境伯領を出てから幾つかの聖地を巡礼していた。基本的には第二聖女隊が赴く予定だった場所を辿っていたが、順番はその通りではなく、言わば恣意的に巡っている。
リアンは瓶に溜めておいた朝露と夜露を取り出し、布を湿らす。それを使ってマリアベルの魔道具である石鉄隕石を磨いている時。ふと何処からか声が聞こえた。1回目は気のせいだと思って、そのまま磨き続けた。だが2回3回と続くので、手を止める。
「──リアン」
声のする方を振り返る。そこに立っていたのは老人だった。老人は鎖帷子と鎧を着込み、腰には剣を下げ、戦の支度をしていた。頭には金の冠が載っている。
「……国王、陛下?」
間違いない。目の前にいるのは、カレドニア国王アルベルト二世。
「なっ、なぜ、こんな場所に……」
王はリアンが唖然とするのを見て朗らかに笑った後、ゆっくりと歩みを進めた。リアンはこの様子にさらに驚き、ひたすらに目を瞬いた。王の足は関節が変形してしまって碌に歩けないはず。だが、足取り軽やかとまでは言わないまでも、普通に歩けている。
「会いたかったぞ、リアン」
「近従はどちらに……。まさか、一人で?」
王は寝台に腰を下ろす。
「リアン、我が息子よ。こうして2人きりで話す機会など、今まで無かったな。お前を城に迎えた日も、儂はお前に会うこともしなかった」
放心するリアンを気にする風もなく、王は話を進める。
「だがな。儂はお前を真に愛していた。誰よりもだ」
リアンは目を泳がせながら、なんとか会話について行こうとした。
「あっ、陛下。僕は、ああ、いやっ、わ、私は……!」
「畏まらずともよい。儂も堅苦しい言葉は使っておらぬ」
リアンは胸に手を当て、深呼吸をする。これで少しは落ち着いて来た気がするので、そろりと話してみた。
「私はずっと、父の覚えめでたからず、憎んでおいでと思っておりましたが……」
「真に愛した女から産まれた子を、何故憎む」
王は『近う』と手招きして、リアンを自分の隣に座らせた。
「だが、そう思われるのも無理はない。お前には苦労をかけた。城から追い出し、学園に行かせたのも本意に非ず。無用な争いを避ける為、延いてはお前を死なせぬ為であった」
「死なせない……?」
「左様。学園は正教軍が作った学びの園。神に帰依する者には手を出せまい」
初耳だった。自分は命を狙われていた?
「田舎で暮らしていたお前を引き寄せたのも、全てはお前の命を守る為。どれもこれも、お前のためだった。言っても信じては貰えないだろうが、許せ、リアン」
まさか。第二聖女隊に捩じ込んだのも、命を守る為? ゆくゆくは海聖と婚を結ばせようと考えているのでは疑ったが、それも、命を守る為、なのだろうか。
「だが、お前は幾たびも死を乗り越えてきた。神がお前を生かそうとしているとは思わぬか。きっと何か、大いなる意思がそこにある。儂はな、それが嬉しい」
王は隣に座るリアンを向き、じっと目を見つめて言う。
「ここから先は遺言と心得よ」
リアンは何かを言おうとしたが、遺言の二文字を前にして、うまく声が出なかった。
「そのまま神妙に海聖に仕えよ。何があっても海聖の傍から離れるな。そして、もう1つ──」
王は優しく微笑む。無垢な笑みだった。
「──次なる王は、殺せ」
リアンは目を見開く。
「毒を使うも良し、寝込みを襲うも良し、捕らえて火炙りにしても、斬首に処しても良い。──必ず殺せ」
途端に蹲りたくなるほどの耳鳴りがして、リアンは耳を押さえて目を閉じた。
「誓え、リアン。次なる王は殺せ……」
再び目を開けた時。窓から見える空は白けていた。寝台に座っていはずのリアンも、机に突っ伏していたようだった。
リアンは顔を上げて辺りを見回す。王の姿など、どこにも見当たらない。
「……夢?」
部屋は凍てついたように静かだった。
□□
デュダの街、教会前の広場に人集りが出来ていた。
朝になってもう一度赤髪の少女を探そうと広場に来たクララは、穏やかならない人集りを見て、何事かと寄った。どうも、その中央には何かがあるようだった。
嫌な予感がして、人を押し除け、もみくちゃにされながらその中央へと向かう。なんとか見えたのは制札。そこに書かれている事の大きさに、クララは目を丸くして驚く。
「国王、崩御……」
周囲の人間は暗殺ではないかと噂をしている。その理由は、制札に貼られた複写紙に浮き出る、精巧な絵。
『このロザリオに覚えのある者は名乗り出るべし』
クララは背負袋を落とし、口に手を当てて震える。── 蔓苔桃の模様。これは、あの赤髪の少女が持っていたロザリオと同じもの。
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