運命(前)
夜が生んだ靄が地を這い、ウィンフィールドの街中をゆっくりと流れてゆく。
小さな家の一室、少女は書卓に向かって筆を走らせていた。その陶器人形のように美しい少女は便箋を文字でいっぱいにすると、憂い顔をそのままに立ち上がった。
隠していた背負袋の中身、多少の食料と地図、魔道具、身を守るための短剣が入っていることを確認して、壁に立て掛けてあった白楊の杖を手にした。この杖は水と魔力を多分に含んでいるから、至る所から萌芽している。
クララ・ドーソンは杖の小さな葉を指で触れる。指先に伝わる葉脈の筋が分かれる様と、自身の逡巡とが似るのを感じながら、思う。
──迷うことなんてない。今日の旅立ちは、前から決めていたことだ。
クララが長い眠りから目覚めた時、アンナ・テレジンに事の全てを教えられた。水の聖女は風を食む雄牛を倒すつもりなどなく、子供達を犠牲にしてしまうつもりだったのだと。
私の尊敬する聖女が、そんなことをするわけがない。まず、そうする理由がない。私達を酷い目に遭わせて、どうするというのだ。仮にそうだったとしても、何か大きな理由があるはずだ。アンナは海聖のことを悪女だと言うけど、違う。絶対に悪い人じゃない。
だから、水の聖女に会いに行く。実際に会って、確かめたい。
クララは廊下に出た。隣の部屋にいるアンナに別れを告げようと思って扉の前で立ち止まるが、やめた。どんな言葉で別れを告げたら良いか分からない。今は意地という感情がとても邪魔で。
夕刻、クララはアンナと喧嘩をした。海聖を悪く言うから、今日は強く言い返してしまった。旅立つ事と喧嘩は関係がない事だし、喧嘩で出て行ったものと勘違いして欲しくはないから、手紙にもその旨を書いた。それを面と向かって伝えられない事の醜さが、クララの胸を締め付ける。
「ごめんなさい、アンナ」
クララは静かに屋敷から出た。その姿を見ていたのは、小さな庭の灌木の陰に潜んだ、二人が可愛がっていた黒猫だけだった。
旅立ちの日、涼風の節彎月。風は静穏、風速1海里。数分前から降り始めた冷たい小雨が、しんとした街を耳心地の良い優しい音で満たしていた。
□□
クララは西へと歩いた。
計画では街を出てから馬車を拾うつもりであった。だけども、歩き出したら金が勿体無いような気がしてきて、歩き続けることにした。
主に街道を歩いた。ただ、少しでも早く前に進みたかったので、道行く商人に近道を聞きながら、時には暗い森や険しい山道も歩いた。
クララは華奢な少女だった。魔法の心得はあるが武術は嗜んでいない。長く歩けば足が痛む。それでも挫けず、あの美しい青髪の聖女を求めて歩いた。進むにつれて杪夏の景色がクララを励ましたが、それを楽しむ余裕はあまりなかった。ただ愚直に前へと進んだ。
クララが目指すのは王都だった。それも神門と名付けられた巨塔に行きたい。
神門は正教の新たなる象徴として建てられた。後には聖女及び聖女隊の屯所、つまり活動拠点にもなるらしい。まだ建築途中だが、やがては天を破る程の高さとなり、神に最も近い塔となる──とクララは仄聞している。
正教会の公示によれば、水の聖女マリアベル・デミ率いる第二聖女隊は、他の街に立ち寄らず王都へと引き返した。その後は神門内の聖堂で説法を行っているとの事だから、運が良ければそこで会えるかも知れない。その曖昧な期待だけを活力に、クララは歩き続ける。
(会って、話をするんだ。会えば分かる。聖女さまは酷い人なんかじゃない、絶対に)
しかし、クララの旅は順調ではなかった。
ウィンフィールドを出て4日目の朝には土砂降りに見舞われて体調を崩した。水薬を作ってしつこい咳を治そうとしたが、旅の疲れも出ていたからか完治するに至らなかった。
雨は降ったり止んだりを繰り返しながら何日も続いた。その中を歩き続けたことで浸水足となり、足裏の水疱が潰れて痛みで動くことが出来なくなった。その日は朝から宿を取り、膏薬を塗って足を治そうとしたが、調合のせいか、或いは呪文が適応していなかったのか上手く処置しきれず、己の未熟さに落ち込む。
痛みを我慢し、再び王都へ向けて出発した所で野盗に襲われた。顔を殴られ、荷物を取られそうになったが、何とか魔法で追い払った。その日は生まれて初めて人に殴られたことの衝撃で眠れなかった。
□□
ある日、クララは領境の関所を越えたあたりで、樅の下に横たわる男を見つけた。見窄らしい服装と痩せこけた体、垢の臭いから、乞食か浮民だろうとクララは思った。
その男は苦しげな顔で腹を押さえていた。
「大丈夫ですか?」
「だめだ。お願い、助けてくれっ」
男の掠れた声を聞き、急いで背負袋の中を漁った。
腹痛であれば助けられるかも知れない。薬の腕はあまりないけれども、それでもやってみる価値はある。そう思い、荷物を広げて薬を作ろうとしたが、男は急に立ち上がって財布を盗った。苦しそうな表情は、いつの間にか薄ら笑いへと変わっていた。
「やっ、やめてっ!」
杖を手に取り、魔法で戦おうとした。しかし呪文を唱えるより先に、男はクララを蹴り飛ばした。クララは水溜まりの上に倒れ込み、男は財布を持って逃げてしまった。
泥塗れのクララは、蹴られて2つに折れてしまった白楊の杖をじっと見た。この杖は、アンナと2人で木を切り出して、1から作った大切なもの。案を出し合いながら形を決め、納得のいく出来になるまで何度も試行錯誤を重ねて作った、世界にたった1つだけの杖。それを折られてしまった。
クララは立ち上がることも出来ず、その場でしくしくと泣いた。アンナに黙って出て行った事の後悔と、旅立ちの決断をした己の甘さ、そして何より、どうしてこんなに酷いことが出来るのだろうという悲しみが、涙となって出てきた。
しばらく泣いた後、クララは王都に向けて歩き出した。失意のまま宿も取らずに2日間、とぼとぼと歩いた。夜の間も休まずに進んでいたのは、半ば自暴自棄だった。その間に野盗や魔物に襲われなかったのは幸運だった。
クララは知らぬ内に王都への街道から逸れて、道程にない街道を歩いていた。場所で言うと王都より南に位置するピピン公爵領内、首都デュダの近く、あと20分ほど歩けば街に入るという位置だった。クララはそこで、またしても行き倒れを見つけてしまった。その行き倒れは街道の脇、青々として伸び切った草に埋もれ、ぴくりとも動かない。
クララは横目でその姿を確認した。所々が赤黒く変色した外套に身を包み、髪や顔は頭巾に隠れている。体が上下している様だから、どうやら生きているようだ。でも、多分、瀕死だ。きっと死んでしまうだろう。
──助けようとしたら、また襲われるかも知れない。
見なかったことにして脇を通り過ぎる。
一歩一歩と進むが、クララは足を止めた。そして振り返るが、行き倒れはやはり動かない。待っても待っても動かない。心の中で、早く立ち上がってどこかに行ってくれ、と願った。
じっと見ていたら、鉛色の空から細い雨が降り始めた。それでも行き倒れは動く気配がない。クララは意を決し、行き倒れに寄って、そっと体を揺すった。たとえ裏切られる可能性があっても、心優しいクララにはそれを無視することなど出来なかった。
顔を覗き込んで驚く。行き倒れは女だった。しかも歳が変わらないように見えた。燃えるような赤い髪は冴えて、白い肌に浮く雀斑は火の粉のよう。意図的に作られたとさえ思える美しさに、再び触れることを躊躇した。
だが触らずにはどうにも出来ないので、うつ伏せになっていたのを転がし、仰向けにする。胸には血染みがある。夥しい血の量、相当に深い傷を負っているのだろう。
赤黒い染みの上でぎらりと輝くのは、精巧な彫刻のある見事なロザリオ。十字に蔦が這うような模様が彫られている。実もあるから、恐らくこれは蔓苔桃を図案化している。こんなに立派なロザリオを首から下げているなんて、もしかしたら、身分の高い人間なのかも知れない。
傷をしっかりと確認するために外套と襯衣を脱がす。刺青だらけの肌に少し驚いたが、深く抉られた胸の傷を見たことの危機感が遥かに上回って、刺青の事は疑問に思わなかった。
クララは赤髪の少女を背負って、夜にはデュダの街に入った。医学者を求めて修道院を目指そうとしたが、いつの間にか意識を取り戻していた赤髪の少女が、か細い声で言った。
「どこに行く気? あなた、誰?」
「お医者様に診せます。死んでしまうから」
「それは、やめて。お願い」
「どうして? 死んでしまう」
待っても返事がない。どうやら、また気を失ってしまったようだった。
無視をして修道院に行く事を考えたが、ああして言われたからには逆らう事が出来ない。それで、靴底に隠しておいた硬貨を使って宿を取り、気を失ったままの赤髪の少女を寝台に寝かせ、自分で処置をする事にした。
まず傷口の雑菌を殺す為に、水薬を垂れ流す。じゅうという音がして煙が立った。これは水薬の魔力と何かしらの反応があったわけだから、どうやら魔術的なもので負った傷らしい。次いで、胸の傷を塞ぐ為に回復魔法を唱える。
「──《花の香に驕る事無からん麗しの春雨よ、神の養ひに……》」
途中で止める。傷の中、青い光が見えた。
水薬で手を洗い、そっとそれに触れてみる。小さな何かがあって、指で押してみると簡単に動きそうだったので、慎重に引き抜いてみた。
「何だろう、これ」
人差指の第1関節程の玉であった。それを見て思い出したのは、幼い頃に母の部屋で見た藍玉。近くに置いた桶で玉を洗い、よくよく観察すると、細かく呪文が彫り込まれているのに気がつく。
それは仄かに青く光っていて、見ていると憂鬱になる奇妙な代物だった。なんだか嫌なものだと思い、とりあえず寝台の横の棚に入れて遠ざけた。
「う……」
赤髪の少女が魘されて、クララは急いで回復魔法を施す。
「姉さん……」
少女のふと漏らした声があまりに切なくて、悲しそうだったから、クララは彼女の手を握りながら詠唱を続けた。
夜が明けて少女が目を覚ましたら、説得をして、医学者の下に行こうとクララは考えていた。だが驚くべきことに、胸の傷は瞬く間に回復した。処置を始めたのは午後9時、夜中の3時には露出していた肋骨は肉で覆われ、朝の7時には概ね傷が塞がっていた。クララの魔法が成せる回復速度ではない。異様だった。
3日後、窓から木犀の香りを乗せた風が吹いて、少女は目を覚ました。机に向かって水薬を調合していたクララを見て諸々を理解したのか、小さくため息をつく。
「あなたが、助けてくれたの?」
クララは神秘の赤い双眸に見つめられ、動きを止める。その瞳から発する圧に怯えた。
「あ……」
クララは不安になった。まさか、助けない方が良かったのだろうか。いや、それでは死にたかったと言うようなもの。さすがにそうではないと思うけれど、でも、何か悪いことをしてしまったのでは。
頭の中で思いをぐるぐると回していると、少女はくしゃりと笑って、言った。
「ありがとう」
無邪気で優しい笑みだった。ウィンフィールドを出てから久しく聞いていなかった温かい言葉も胸に沁みた。ほっとした。──良かった。悪い人じゃなかった。
目を覚ましたもののまだ満足に動けないようだったので、その後も看病を続けた。
クララにとって少女は、旅の中で出会った誰よりも優しく、か弱い人だった。身体を拭く時も感謝の言葉を忘れず、飯を作れば決まって美味しいと褒めてくれる。夜中は咳き込むことが多く、右手で背中をさすってやると、少女は決まって、ぎゅうとクララの左手を握った。少し動けるようになってからは食事を作るのを手伝ってくれた。
また、不思議なことに少女は博識だった。クララは日中、少しでも魔法の勉強を進めたいと思って本を読んでいたが、隣で解説を行うことがあった。水薬の作り方についても教わった。通っていた魔法学校の教師でさえ知り得ないような知識の数々にも、クララは驚いた。
しかし、少女は自分のことは喋らない。どこから来たのかも、何者なのかも、なぜ怪我をしたのかも、何もかもを喋りたがらなかった。
彼女については気になることがたくさんある。取り分けて全身にある妙な刺青は気になった。確か、水の聖女の肩や腕にも精巧な刺青が入っていた。図案が少し似ているとも思うが、どうなのだろう。さすがに細かくは覚えていない。とにかく、他にも様々聞きたいことがあったが、神秘的な容姿が壁を作っていたから、深く追求する気にならなかった。
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