百禽礼讃(前)
左右対称に区画分けされた菜園は、曲輪と同等に強固な防御性能を誇る。作業小屋や倉庫が規則的に並ぶ上に、堀から枝分かれした川もある。特に畑と畑を区切る潅木は厄介で、砂塵で周りが見えない中では戦闘の邪魔になった。
「だありゃあーッ!」
ガストンは、襲いかかる獣人の剣を戦棍で弾き飛ばす。そして畑に植っている人参を踏み締め、獣人に向かって戦棍を叩きつけた。勢いに任せて大ぶりとなった為、ひらりと避けられる──と思ったが、戦棍は脳天に直撃する。獣人の頭部は肺まで減り込み、倒れた。
「ん⁉︎」
ガストンは考える。今、獣人は防御をするでもなく、棒立ちした状態で攻撃を受け入れたようだが。
違和感があって、辺りを見回す。火と砂の嵐が吹き荒れていて視界が悪い。が、魔物の大群に襲われたばかりだというのに、剣と剣がぶつかる音も獣人や大狼の喚きも聞こえない。風の音に消されているわけでは、ないと思う。
「んん……?」
よく目を凝らして見れば、魔物が至る所に倒れている。
「ウォルター、お前がやったのか?」
崩れた小屋の脇から寄ってきたウォルターが、首を横に振った。
「いや、勝手に倒れた」
「勝手に倒れたぁ? んなわけあるかい」
ウォルターは獣人の体を弄る。注目したのは焼印。それが膿んで汁を出している。異様だ。こんな状態は、今まで見たことがなかった。
「まさか、魔物の全てがそうなったのか」
呆然としていると、シャーロットが駆け寄ってきた。表情は必死である。
「ようやく見つけた……ッ! エリカ・フォルダンはこっちに来ていないか⁉︎」
「この嵐じゃあ分からねえが、見てねえぞ」
シャーロットは頭を手で押さえ、言う。
「……迂闊だった」
エリカを担いで走っていたのだが、突然覚醒して、己の剣を奪って駆け出してしまった。
すぐに追いかけたが、この砂と火の嵐で見つける事も出来ず、ならばマール伯爵がいるであろう南の菜園に向かってみたものの、来ていない。と、なると。
「まさかとは思うが、また戦いを挑みに……」
引き返そうと動き出した途端、突然くらりと来て膝をつく。それでウォルターが咄嗟に支えた。もうシャーロットの体力は残りかす程も残ってはいなかった。
「私はいいから、伯爵をお守りしろ。追われないように撹乱しながら逃げてきたが、つけられているかも知れない」
「誰にだ」
シャーロットは思い出す。炎の中、幻想的で、かつ美しく輝き、我ら凡人とはかけ離れた、あの近寄りがたい乙女の姿を。だが、誰かと聞かれれば分からない。
「エリカが命を捨ててでも止めなくてはならないと考えた相手だ」
「まさか、魔導弾を撃ち込んできた勢力か」
ウォルターは居城の方を見る。何かが近づいてくる、ぞわりとした不快な感覚があった。
□□
メリッサは堀を越え、背の高い邸宅に挟まれた、細長く、曲がりくねった階段を下っていた。この道を進めば、菜園のある南の丸に出る。もはや到達は時間の問題だった。
だが、何かに気がついて足を止める。ふらりふらりと階段を上ってくる影があった。その者の面相と格好を見て、メリッサは驚いた。
──あらん限りの力で腹を打って倒したはずの銀髪の少女が、意識を朦朧とさせたままに立ちはだかった。
「なんと」
目を丸くして呆然とする。その姿で戦えるわけがない。
「それは蛮勇だ。蛮勇は心を酔わせる。身を滅ぼす増長の一つと心得よ」
メリッサの頬に嫌な汗が伝った。エリカの体から滲む、質量のある覚悟とでも言おうか、その静かな気迫に戸惑った。
「そこを退け。本当に死ぬぞ」
エリカは俯き、シャーロットから奪った剣を杖にして、階段の途中で止まる。
「力の差は歴然。お前如きを殺せぬと思うか」
言って反応を待つが、返答がないので続ける。
「妾には女子を甚ぶる趣味はない。それに、妾の目から見てもお前は見事な武人だ。殺すには惜しい」
「……伯爵を殺す気か」
「退け。その前にお前を殺してしまう」
「殺す気か、と聞いているんだ……」
「……そうだ。と言えば満足か」
メリッサはエリカを見下ろし、言う。
「ならば問おう。誰が、わが民を慈しむ。誰が、わが民の幸福を保障する」
微笑みながら言うが、そこに柔和さはない。それは目の前の真っ直ぐな少女に、自らの心の内を曝け出す事の烈しい苦さがそうさせる、笑みに似た複雑な何かであった。
「聖女は瘴気を祓うと原典にあるが、それは本当なのか? 原典が裏切らないと、なぜそう言える。本当だとして、いつ祓う事が叶う。今日か、明日か、それとも10年後、20年後か、まさか100年後か?」
原典の1篇における時間の概念は広い。
「もはや雀の涙ほどの土地しかないカタロニアは、祓える時まで保つのか? 信じて待ち、その間に国が滅びたならば、神が憐れんで下さり、瘴気に負けぬ土地をお与えくださるか?」
エリカはただ黙って聞いていた。
「然に非ず。神は人々の心の柱であって、直接救っては下さらぬ。今を生き延びる為には、弱者は武器を持って立ち上がるしかない。蹲って待つ事は、破滅を受け入れるのと同じだ。妾の言っている意味が、わかるか?」
やはり返答はない。あるのは遠くの建物が崩れる音と、炎の音だけだった。
「それとも、ただ瘴気に近い国というだけで滅びてしまう我が国は仕方がないと、そう言いたいのか?」
メリッサは階段を下り、エリカに近づく。
「もう後には引けぬのだ。この感情、きっとお前には理解できまい」
「分かった。──あなた、弱いんだ」
ようやく放たれたエリカの言葉に、メリッサは足を止めた。顔は強張り、拳に力が入る。
「何……?」
「弱いから、奪うことを前提にしか考えることが出来ないんだ」
メリッサは息を大きく吸い込んで、叫ぶ。
「控えろッ‼︎」
肩で息をする。
今の一言は、メリッサの心を掻き乱した。胸が冷たくなる感覚があり、手も冷え、反して顔だけは熱くなり、目には涙が溜まって充血するくらいに、効いた。鼻はツンと刺激され、目眩すらする。
なぜこんなに深く傷ついたのか、自分でも分からない。分からないが、どうしようもなくて、涙が出てきて、今すぐエリカの口を塞いでしまいたくなるほどに動揺した。
「ならば! ならば、どうしたら良いッ!」
その声は上擦って震えていて、今にも大泣きしそうな童のそれであった。
「妾は、奪われたのだぞッ! 瘴気に、奪われたのだぞッ! 妾だけではないッ! 民たちは、何もかもを奪われたのだッ! それを、お前はッ!」
「そんな話、してない……!」
「黙れッ! 黙れ、黙れッ‼︎ 黙れぇッ‼︎」
エリカは杖にしていた剣を構え、顔を上げてメリッサを睨む。
「この先には、行かせない……」
そして柄を力一杯に握る。熱された空気を深く吸って、息を整える。
「私は強くなりたい。だから、弱いお前になんか、ぜったいに負けないんだ……!」
メリッサは息の荒いままに、エリカを睨み返した。その分かったつもりになったような物言い、我慢できない。髪を掴んで、もう一度殴ってやりたい。いや、今度は殴り殺してしまうかも知れない。でももう、それでも構わないか。──どうせ生かしたところで、分かり合えぬのだから。
「……」
だが突然、エリカから闘志が消える。目線はメリッサの背後に向けられていた。
何事かと思い、メリッサは振り返った。階段の5段上った所、立っていたのは久しい顔。
血に濡れた紺の髪、返り血に染まった美しい顔、血をたっぷり含んだ重そうなドレス。手には小さな鉄板を先に付けた、鉄の棒のような、見慣れないものを持っている。
「リトル・キャロル。やはり、城内にいたか」
エリカはキャロルの姿を見て緊張の糸が切れてしまったのか、剣を落として、ふらりと倒れてしまった。階段から転げることはなく、邸宅の壁に靠れるような形で気を失う。
「久しぶりだな、メリッサ」
「何をしに来た」
「話をしたいと思っていたんだ。間に合って、良かった」
キャロルが近づいて来ようとするのを見て、メリッサは制するように低い声で、強く言う。
「その口ぶり、既に妾の目的は分かっているようだな。もう後には戻れない。お前なら分かるだろう」
その声は、震えを残している。
「今回の攻撃で何人もの兵が死んだ。1人1人が忠義者で、妾を信じて付き従う者たちだった。名前だって全員覚えている」
メリッサは涙を堪えるように、ふう、と息を吐いて続けた。
「妾が立ち止まれば、彼らの死を無駄にすることになる。何も達成せずに終わるわけにはいかない。それが分からぬお前ではあるまい」
「うん」
「止めるつもりならば、私はお前を討つぞ。これは脅しではない」
冷たい瞳でキャロルを見る。
「一方的に攻撃するのは好きではないから、決闘でいこう。武器を取れ。そこらに獣人の剣が落ちているだろう。私もお前と同じ武器を用意する」
「もうやめようメリッサ。これは、お前が望んでいることじゃない」
メリッサの目に、また涙が滲んだ。これは正真正銘の涙だった。ここ数節、血や涙の代わりに流れ出る凡そ人に有らざる物質は特別な魔力の形。今日に於いてはそれを流しすぎて、本来あるべき涙が流れた。
「何故そう言える。お前に何が分かる!」
「分かるよ」
メリッサは激昂した。階段を駆け上り、5指を伸ばして固めてキャロルの胸を突く。
「──国を背負ってから、分かった口を利けッ!」
掌はずぶりと胸に刺さり、そして、キャロルの心臓を直に掴んだ。メリッサは興奮の色を吐息に映して、ふうふうと息をする。
「これ以上、喋ってみろ。殺してしまうぞ、お前を……」
この熱い塊を握りつぶせば、いくら聖女と言えども只では済まない。
聖女の体は神秘である。理外の力が働いて死に難い。致命的な傷を受けても、完全にとは言わないがある程度は自己再生する。それは意識の外でも、聖女の体内に漲る魔力によって成された。
だが自己再生には多少の時間がかかる。一瞬で治るわけではない。特に心臓を破壊されれば、魔力を作る臓器『気海』に血が通わなくなり再生が鈍る。
心臓を潰したその手に炎を宿し、体を燃やして炭にして、砕いて風にしてしまえば、聖女とて体を失う。
メリッサの手に魔力が集まる。火の魔法が発動しようとしている。
「メリッサには私を殺せない」
言われて、ぎり、と歯を食いしばる。なんと憎い物言いか。ずけずけと人の心に入り込んで、分かったような口を利く。
「何故、殺さないと言い切れる!」
「そんなの、当たり前じゃないか」
キャロルは、メリッサの手が胸に刺さるのをそのままに、体から力を抜き、そのまま体重を預けた。
「なっ……!」
「メリッサは誰よりも優しい子だから」
そのまま強く抱きしめる。抱きついて、キャロルは確認したかった。思った通りだった。エリカと全く一緒で、メリッサの体温は熱いくらいに暖かかった。幽鬼の氷水のような血で冷えた体に沁みた。心の底から安心した。
「や、やめろ……!」
メリッサは慌てた。キャロルの力が思ったより強く、脈打つ塊を傷つけそうになった。
「何をしている⁉︎ 本当に潰しかねない!」
「メリッサが手の力を抜けば、潰れない」
「馬鹿な真似は、やめてくれ……!」
引き離そうと抵抗しても中々できない。思いっきり突き飛ばせば、心臓を傷つけてしまうだろうし、困った。でも、この手を離すわけにもいかない。
焦るメリッサの耳元で、キャロルは言う。
「──覚えているか、柘榴獣のことを」
メリッサは抵抗をやめて、目を見開いた。
「あの時の額石は、まだ使わずに持っているんだろ?」
「え……?」
「学園にいた頃、私は見たんだ。メリッサは額石を使わずに残していて、度々それを隠れて眺めていた」
「な、何の話を……」
「それだけじゃない。──額石を手に入れた後も、メリッサが柘榴獣を探し続けていた事も知っている」
キャロルは続ける。
「気づいてないとでも思ったか?」
メリッサは何かを言おうとして、口をぱくぱくとさせた。だが、中々言葉が出てこない。あの柘榴獣は、キャロルの親代わりだった人物の形見。それを知った時の、手足の冷える感覚を、思い出してしまって。
どうしよう、なんてものを奪ってしまったのだという焦り。毒矢を射掛けてでも手に入れようとした、浅はかさ。後悔。無邪気に喜んだ事の罪悪感。無知の恥ずかしさ。未だ全てが鮮明。
「額石を渡した後、メリッサはそれまでよりも頻繁に学外に出ていた。しばらく学園を空ける事だってあった。隊を率いずに、いつもたった一人。学業をこなしながら、昼夜問わず。私が何をしに行ってるのかを聞いても、隠そうとして、私を近づけようともしなかった」
メリッサはただ黙った。というよりも、黙らざるを得なかった。涙を噛み殺すのに必死だった。何故だろう。涙が溢れそうになる。『弱い』と言われた時のような、怒りだとか、苛つきだとか、そういう感情が弾けた時の涙とは質が違う。
「私のために、柘榴獣を探し回ってくれていたんだろう? 1人で背負い込んで、自分を犠牲にして、ずっと、ずっと……」
何故、こんなに胸が一杯になるのだろう。
「──こんな残酷なまでに優しい子が、土地を奪う事に、心を痛めてないわけがないじゃないか」
少し考えて、すぐに分かった。薄々と、勘づいていたことだった。
孤独だ。孤独だったんだ。
キャロルが寄り添ってくれた事で、1人じゃないと言われたような気がして、それがとても暖かいように感じて。涙が出そうになるんだ。
民のための英雄であろうとした。でも本当は自分で選んだ孤独に寂しがっていて、自分で選んだ道に恐怖を感じていた。でなくば、キャロルの言葉に、こんなにも救われはしない。
理解してしまったら、ついに涙を噛み殺すこと敵わなかった。メリッサは小さく嗚咽を漏らして、泣いてしまう。
今の瞬間、感じた。
涙と一緒に、肩の荷が降りてしまったのを。
亡国の姫として、決して降ろしてはいけないはずの肩の荷が、降りてしまった。
そんなこと、本当はいけないはずなのに、体が軽くなってしまって、それがまた悲しくて情けなくて、でもほっとして涙が止まらない。
キャロルのせいで、押さえつけていた物が全部こぼれ出た。
「ずっと言いたかったんだ。でも言わせてくれなかった。……柘榴獣の事は気にしないで欲しい。必要としている人に使って欲しかったから、あげたんだよ」
メリッサはキャロルの胸から掌を引き抜く。そして胸の傷に手を沿わせ、回復魔法をかけてやった。
「使える、わけが、ないだろう……っ。あんな、大切なものを……っ。残酷なのは、お前の方だ……っ」
「そんなつもりはなかった。ごめん」
「許す、ものか……っ、お前は、妾を苦しめたんだ……っ」
キャロルも治りかけたメリッサの脇に手を添え、傷を癒す。
「実は、メリッサは変わってしまったのかと少し不安だった。でも、会って安心した。優しいままのメリッサで良かった」
メリッサの千切れた耳にも手を添える。肉片はないから元に戻す事は出来ないが、傷口は塞いでやった。
「獅子侯のようになってはいけない。私はメリッサがそうなってしまうのを止めに来たんだ」
「獅子侯を討ったのはお前か……?」
「うん。人を殺すのは久しぶりだった。何百人と殺してきたはずなのに、あまり慣れない」
キャロルはメリッサの涙を指で拭ってやる。
「舞踏会で獅子侯に『輝聖は逃げている』と言われて、その場で燃やして殺そうとした」
語るキャロルには仄かな笑みがあった。
「本当の事を言われているのに、聞きたくなくて。そして、私のせいで起きている悲劇を受け入れたくなくて、相手の口を封じるために咄嗟にそうした。嫌な自分がそこにいた。──結局、私もヤツと変わらない。獣物だ」
メリッサは小さく首を横に振る。そんな事を言うな、と意味を込めて。
「私はまだまだ弱い。自分が思っているより、ずっと弱い」
そう言って、キャロルは階段を下り始める。
「誰にも、私のようにも、獅子侯のようにも、なって欲しくない」
キャロルはエリカを、優しく抱きかかえた。
「キャロル、教えてくれ。妾はどうしたらいい」
か細く、弱々しい声だった。
「瘴気が晴れるその時まで、全てを失おうとする民達に、堪えよ、と言い続ければ良いのか……?」
キャロルは少しばかり振り向き、言う。
「私が全てを背負う。だから、弱い私を支えて欲しい」
そして再び前を向き、階段を下りて行こうとして、止まる。
「……そうだ。邪推かも知れないが、メリッサの目的の1つには、この焼鏝の存在があったと思う」
エリカが倒れていた所、キャロルが持っていた3呎(90㎝)ほどの鉄の棒が立てかけられていた。獅子侯の亡骸から出てきたもので、この消炭の色をしたこれこそ、魔物を操ることが出来る魔道具『アドラー家の鏝』である。
「居合わせた神官に軽く教えてもらった。これで印をつけられた動物は脳が破壊され、命令を愚直にこなすだけの傀儡と成り果てるらしい」
命令を出すには呪文を用いる必要があるが、人語を理解しない魔物にも通じた。神官の話によれば、全ての動物、魔物に適応するわけではなく、種は限られる。
「獅子侯が死んで、印が刻まれた魔物も死んだ事を考えると、術者の血筋に保障された魔法だったのかも知れない」
獅子侯の本名はエドガー・クロムウェル。クロムウェル家はアドラー家の傍系。即ち、アドラー家の血が途絶えたという事である。獅子侯には子はいないし、家族もみな死んでいる。
「他の壊れた魔道具と同じように、解析して、改めて魔法をかけ直せば、使えるようになる。きっと、メリッサになら使いこなせると思う」
そう言ってキャロルは再び歩みだし、焼けた階段を下りていく。
「今日は会えて良かった」
メリッサは、小さくなっていく背中を見ていることしか出来なかった。
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