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抱擁(後)


 時は少し(さかのぼ)る。キャロルはエリカと別れてすぐに北の丸へ入り、黒い靄の出る教会を目指した。


 北の丸では戦風(いくさかぜ)のようなものは発生していなかった。その代わり、路地には地を這うように黒い靄が立ち込めていた。靄は教会に近づくほど濃度を増し、汚泥(へどろ)となって脚に絡みついた。


 路地には兵や使用人、下男下女、伯爵らと逸れてしまった貴族など、様々な人間が倒れて靄に埋もれていた。みな(むくろ)だった。人間に混じって魔物も何体か倒れており、同様に骸となって点々としている。


 靄は強力な呪い。魂に触れて、命を吸う。キャロルは毒八角(マッコウ)を手首に塗って防いでいるが、無知な者は死ぬしかなかった。


 教会の前には、10人前後の人間が不安げな表情で立っていた。半分は神官の格好で、半分は兵。神官らは振り香炉を持っていて、濃厚な煙を立たせている。靄は煙を嫌がり、彼らを大袈裟に避けているようだった。


 この神官と兵は、獅子侯と共にロングランドから逃げ延びた者達だった。若者はいない。みな先代からアンデルセン伯爵領を支えてきた忠義者であり、カレドニアの地に逃げ延びてからも獅子侯を支えてきた。


 神官の一人が路地の奥から歩いてくるキャロルに気がつき、吃驚(きっきょう)の表情で目を見張る。


「なぜ靄の中を歩ける」


 キャロルは教会へと続く30段の階段を上り始めた。それを見た兵の1人が声を上げる。


「待て! 近寄るな!」


 気にする事なく階段を上りきり、扉へと向かう。呼びかけに応じないので、兵がキャロルの前に出て、手を広げて制した。


「入ってはならない!」


「獅子侯がいるだろう。中で何をやっている」


 これには答えない。というよりも、具体的には分からないから答えようが無かった。彼らには、何故この靄が出始めたのかもよく分からない。怨霊(おんりょう)の類なのではないかと神官が勘ぐり、香を焚き始めたのでそれに縋ったが、これ以上はどうしたら良いかも分からなかった。


 だがそれでも、皮膚が滴る程の大火傷を負った瀕死の主人(あるじ)に『誰も入れるな』と強く命じられたのだから、必死に拒むしかない。


「時間がない。どけ」


 兵は首を横に振る。


「どけ」


 黄金の瞳を見て、その圧に怖気つき、兵は1歩退いた。キャロルは教会の扉に触れ、押し開けようとする。


「無理だ。閣下が堅い封を施された。ワシらにも開けられん。諦めてくれ」


 神官の一人が優しげな声色で説得するが、キャロルはさらに力を入れて押した。周囲にふわりと風が舞って、血塗れた髪が重く躍る。


 ギギと音を立てて扉が開き始め、神官は静かに呟く。


「……そんな、馬鹿な」


 扉を開けた途端、中から濃い靄が吹き出した。背後にいた兵と神官たちは腕で顔を塞ぐ。キャロルの後ろにいたからか、振り香炉の煙が依然(いぜん)有効だったからか、彼らが命を吸われることは無かった。


 数秒経って、ある程度の視界が晴れる。荘厳なる礼拝堂、規則的に並ぶ長椅子の間、真紅の道の先に巨大な祭壇がある。


 祭壇の燭台(しょくだい)の灯りを背に、説教台の前で胸を押さえて地に膝をつける男がいた。獅子侯とあだ名される者、アンデルセン伯爵。名をエドガー・クロムウェルである。


 獅子侯は奇しくも、キャロルが来るのを待ち構えていたように出入り口の方を向いていた。祭壇の上部にある巨大な薔薇窓が炎の光を漏らして、漂う靄を切り裂き、獅子侯を照らしている。


「死なんかったのか」


 蓬髪(ほうはつ)の間からキャロルを見る。


「酷い火傷を負ったぞ。実に、実に……、狂いそうなほどの苦しみであった」


 その瀕死の男から靄が立ち昇るのを見て、キャロルは真紅の道を歩み出す。


「死霊を体に取り込んだな。それも尋常じゃない数だ。──当ててやる。幽鬼(レイス)だろう」


「ほう。やはり準男爵の娘などではないな」


 言ったところで、経血(けいけつ)を吐いた。


「前に本で読んだ事がある。ロングランドではかつて、怪我をした兵や民をそのまま生き埋めにして処理をするという文化が根付いていた。その者達の怨みの意志が霊体となって消えず、さらに膨らみ、多くの土地が呪われたと言う」


 キャロルは胸元に隠していた煙草を取り出す。血で固まり火のつきが悪かったが、何とか火種を作った。


「300年前、それらの霊体が集合し武人の姿となったらしい。その武人は、戦争を強いる貴族達を襲った。そしてその地を穢し、命を吸う靄で埋め尽くした。当時の詩人達はそれを『幽鬼(レイス)の復讐』と表現し、語った」


 煙草を親指で弾いて灰を落とすと、足元の靄が逃げた。


「その後、幽鬼を祀る(びょう)を作り、地は穢れから解放された。封印の獣と考えて良いだろう」


 キャロルは獅子侯の側に割れた陶器が転がっているのを見る。これを肌身離さず持ち歩いていたから、獅子侯は呪われていたのだと察した。即ち、陶器は封の本体。


「中身は清酒か。飲んだな?」


「グハァッ‼︎」


 獅子侯は更に腐った経血を吐く。すると背中がぐぐぐと盛り上がって、骨が皮膚を突き破って出て来た。幽鬼が体を乗っ取ろうとしているのだが、人体が適応せず、骨や臓器が体の中で逃げ惑った。死霊と生命は混じれない。


「閣下ッ‼︎」


 教会の中に入ってきていた兵達が大声を上げる。勢いそのままに近寄ろうとするが、足が止まってしまう。目の前の主人、人とは思えない。魔物に成り果てようとしている。


「なぜ幽鬼(レイス)を飲んだ。封が解かれれば、この地は誰も住めない場所になる。穢れは広がり、マール伯爵領だけじゃなく隣領にも侵食し、やがては国を飲み込むんだ。お前の手に入れたかった土地は無くなってしまう」


「私は、体を焼かれたのだ。死ぬのだ……。再興の夢は果たせず、死んでゆく……」


 獅子侯はぎょろりと目を剥き出して、キャロルを見る。


「ならば! もはや夢叶わぬと言うならば! もう、何もいらん!」


 重く立ち上がる。その割れた胸の中央から、何かが出て来ようとするのが見えた。


「幽鬼となって、マール伯爵も領も討ち滅ぼしてやる。民達の怨みを晴らしてやるのだッ‼︎ ──でなくば、報われないではないかッ‼︎」


 キャロルは悟る。幽鬼の封を肌身離さず持っていたのは、もし何らかの要因で、土地を奪う事が叶わないと察した時に、全てを穢すため。つまり、癇癪(かんしゃく)を起こした子供と同じ。手に入らなければ壊してしまえ。そういう考えだ。こんな無益なことを、日頃から呪いに蝕まれてもなお、やりたかったらしい。


「う、うう……、うあああああッ‼︎」


 ついに獅子侯の胸は破れ、中から白骨の腕が突き出た。体は徐々に肥大化し、服が破れる。4倍程度に膨らんだ体は所々皮膚を割って、肉を盛り上げて見せ、まるで体に果実が成ったようだった。皮膚の色は白く抜けて、死人の色。


 その胸から伸びる、長い白骨の腕を見て、獅子侯は喜ばしげに声を上げる。


「お、おお。おおッ! 私はついに軍天(ぐんてん)となったのだ。3つ目の腕を手にしたぞッ!」


 旅の途中、漁村サハンの集落。農場の管理小屋にあった軍天の姿をキャロルは思い出した。あの軍天は、目の前の怪物のように醜くはなかった。従騎士達が丁寧に管理をしていたから、隅々まで輝いていた。


 獅子侯は3つの腕で祭壇の燭台を3本掴み、勇ましく振り回す。


「いざ、神の名の(もと)にマール伯爵を討たんッ‼︎ 集え、我が兵どもよッ‼︎」


 その言葉に、キャロルの後ろで様子を見ていた兵と神官達は嘆いた。


(おぞ)ましや。な、なんてお姿に……」


 獅子侯は1歩踏み出す。幽鬼が体の中に入った事で質量が増し、バキバキと音を立てて床が抜けた。傾いて倒れる。それを見て、兵の1人が獅子侯に近寄った。


「もう、おやめくださいッ! この領の民達や、隣領を苦しめるのは、我らの理想とは違いまする! 穏やかな毎日を夢見て我らはッ!」


「どけいッ!」


 獅子侯は燭台を振るう。兵はパンと弾かれて、下半身だけを残して、残りは血飛沫になって消えた。獅子侯はこの力に驚き、歓喜する。


「おお。なんたる力。指を曲げるようにして、簡単に敵を屠ったわ……」


 キャロルはそれを聞き、煙草を捨て、足で火を揉み消した。脳が腐って、味方の顔も分からなくなったようだ。


「危険だ、君は逃げなさい」


 神官がキャロルの手を引く。だが動かない。今度は強めに引いても動かないので、顔を見て、その表情に気がつく。


「──泣いているのか?」


 キャロルは少しだけ神官から顔を背けて、その問いには答えない。だが、肩も吐く息も震えていた。


「この力があれば! 王都に攻め入り、王すらも屠れようぞッ‼︎ ──王だッ‼︎ 私は王となって、民達を喜ばせるのだッ‼︎」


 今、獅子侯には民達の礼讃(らいさん)(うるさ)いくらいに聞こえている。その声に導かれるようにして、抜けた床から這い上がり、のしのしとゆっくりと、床や長椅子を壊しながら、獣のように這って出入り口へ向かう。


 キャロルが太腿(ふともも)の裏に隠した銀の短剣を抜いた時、後ろで見ているばかりだった兵たち四人が飛び出す。キャロルの『よせ』という強い言葉も、掴んだ腕も振り払い、彼らは獅子侯の前に立ちはだかった。


「なりませぬ、なりませぬッ!」


「もはや夢は潰えたのです、閣下‼︎」


 兵達は燭台の餌食となり、血飛沫と変わり果てる。かつて友であった(はず)の兵達に何を思うでもなく、獅子侯はただひたすらに燭台を振るって、己の力に欣悦(きんえつ)する。


「ああっ……! 素晴らしいぞ、素晴らしいぞッ! 力が漲る! もっと早く、こうしていれば良かったのだ!」


 獅子侯は最後の一人をくしゃりと潰して、叫んだ。


「死中に活路を見出したりッ‼︎」


 それを見た神官の1人が諦めたように首を横に振り、もう1度キャロルに言う。


「もはや、我が身を神に捧げて、閣下をお止めするしかない。すまないが、その短剣を貸してはくれぬか」


「そんなことはしなくて良い。私がやる」


「あなたが……? いや、あなたはまだ若い。こんな所で死んではいけない」


 自分の代わりに生贄となるものだと勘違いした神官の言葉を無視し、キャロルは自らの手首を短剣で斬った。そして涙の瞳で刮目(かつもく)する。


 血煙を上げる腕に短剣を持ち替え、地面と水平に、真横へ突き出す。足を揃え、顔を正面。地球の中央から天の永遠まで一本の線が繋がっているように、背筋を張る。天地人の構え。胸には赤く光る、原典の血。


 キャロルを中心に光が満ちて、それは天を突き上げる光柱となった。辺りは眩い光に包まれる。


「……!」


 凄まじい(ひじり)の気配に、獅子侯の体の中の幽鬼が苦しみ、この光を何とかしろと暴れ出す。肉がボコボコと盛り上がり始めた。


「お前をこの先に行かせるわけにはいかない」


「何だと……?」


 獅子侯は吠える。


「貴様は俺を哀れだとは思わんのかぁ‼︎」


「哀れだと思うよ。でも、哀れさを武器にしてはいけない。哀れさに刃があれば、誰も受け入れられないじゃないか」


 キャロルの持つ銀の短剣は、いつのまにか、赤い花の咲いた野茨(のいばら)(つる)が絡みついていた。野茨は血を吸って生育し、刀身を伸ばして広刃剣(ブロードソード)の様相を(てい)していた。


「……お前には、お前には分かるまいッ‼︎ 志半ばで諦めねばならぬ悲しみがッ‼︎」


 獅子侯はぼたぼたと歯を落としながら、光の中、一歩進む。王となる前に、人の気持ちの分からぬ不徳な小娘を排除しなければならない。こうした無感覚な者がいるから、世界は一向に良くならないのだ。


「お前には分かるまいッ‼︎ この私がどれだけ領民を愛していたかッ‼︎」


「それでも壊していい権限なんて、誰にも無いんだ」


 キャロルの目からは、涙が流れていた。


 とても、悲しかった。やるせなくて、虚しくて、どうしようもなく、ひどく、悲しかった。


 輝聖という立場を与えられておきながら。人類の希望でありながら。人のために何かをしてやれる事もできず、隠れて旅を続け、輝聖の運命に真っ向から向き合わなかった。そのせいで、人を魔物にしてしまった。


 自分で分かるのだ。輝聖となってもなお、貧民街で暮らしていた頃の無力な自分が、今ここに立っている。故郷を救えなかった無力な自分が、今ここに立っている。当時の面影を残したまま、あの時と同じように、涙を流している。


 ここまで成長が無かったわけではない。あの頃よりも比べ物にならないくらい強くなったし、賢くなった。物事の道理も分かるようになったし、教養も得た。でも無力だ。


 この気持ちはなんと表現したらいいのだろう。自分を情けなく思うのとは、違う。自分を高く見積もって自惚(うぬぼ)れているのとも、違うと思う。自分ではどうしてやる事も出来ないものが、気持ちをぶつけられる度に一つ一つと積み重なって、塔となって(そび)え立ち、今、とにかく悲しい。


 エリカを苦しめていた事を理解した時に現れたのも、同じ色をした悲しみだ。それだけではない。結局のところ、目の前にあるのはいつだって同じ色の悲しみだ。まるで変わらない自分の前に、(いまし)めとしてその悲しみが存在している。そんな気がした。


「詫びるよ。もうお前のような獣は作らせない。絶対にだ」


 それを聞いて、獅子侯は何かを言いかけて、やめた。


「……」


 光の中、2つの影が見えたのだ。1つは強い光の中、影となったキャロル。もう1つは、淡い影。キャロルの背後、重なるようにして浮いている。その影から、目を離せない。


 目が光に慣れてきたのか、次第にその淡い影は、影である事をやめて、姿を曝け出した。


 それは、少女だった。


 赤い雀斑(そばかす)、中性的な美しい顔立ち。髪は石黄(せきおう)の如く照って輝く。その少女がゆっくりと獅子侯に向けて、人差し指──いや、人差し指のような指をさした。それで羽織っている頭巾(フード)のついた外套(ローブ)の、その袖がはらりと落ちて、右手の全てが見える。──指が、7本。


「貴様、何者だ。いつからそこで私を見ていた」


 少女の口元が、ニヤリと意地悪く(ゆが)む。鈴を転がすような声で、言う。


『王に(あら)ず』


 そして愛おしむような表情でキャロルを後ろから抱く。極端に長い指で、残っていた涙を優しく拭ってやった。そのドレスの令嬢、猛禽(もうきん)の瞳。猛禽は鳥。──鳥は、神の御使(みつかい)


 まさか。この娘。探していた、光の──。


「……うおああああああああ゛あ゛あッ‼︎」


 ならば己は、神の敵か。そんな事は絶対にあってはならない。


 獅子侯の体は更に裂け、胸から8本の白骨の腕、腰から12本の白骨の脚を出し、蚰蜒(げじ)のように手足を動かしてキャロルに迫る。


 己が神の敵な訳がない。己は王なのだ。神は哀れな者を救うのではないのか。こんな事実は認める事ができない。そう思い、一心不乱にキャロルに殴りかかる。だがその腕は野茨の剣により次々に斬り飛ばされ、拳が届くことはなかった。


「神はなぜ私をお見捨てになるのかぁッ‼︎」


 野茨の剣はついに獅子侯の裂けた胸を突き上げ、食道に絡みついていた封の酒に干渉する。血を吹き出すと共に、その身体から幽鬼が逃げようとしたが、光柱に巻かれて靄と共に霧散しながら、天へと昇ってゆく。


 幽鬼を失った獅子侯は次第に(しお)れ、干からび、ついには干物のようになって、黒ずんで転げた。教会内に満ちていた光は、パンと弾けるように消えた。


 神官達はようやく目を開けることが出来た。光の中で何が起こっていたかを知る者はいない。ただ、この少女の超人的な力によって、狂った主人が成敗されたことだけは理解していた。


 キャロルは胸の前で十字を切り、邪気を吸って枯れ果てた野茨で、獅子侯の首と胴を斬り放した。かさりと割れるように剥がれて、一滴の血も出ることがなかった。


「エリカ、今行く。無事でいてくれ」


 その目にはもう涙はない。己がやるべきことを、決めた。

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