獅子侯(前)
エリカは見回りの兵士の目を避けつつ、地下へと下りる階段を探した。結局、それは中庭を超えた先の別館にあった。
暗い中、濡れて艶めく石の階段を、一歩一歩と下る。ドレスの裾が汚れて残念に思ったが、気にしている場合ではないと首を横に振り、階段を下りきる。
殺風景な石の廊下に出た。壁には等間隔で松明が仕付けられている。
エリカは身を低くし、廊下の角に積まれていた木箱の裏にさっと隠れた。──足音が近づいて来ているのに気がついた。
靴の音ではない。ひたひたとした、肉球を持つ動物が歩くような音だった。カチと固い音も混じっている。恐らく、爪が床を打つ音。
気が付かれないようにそっと、木箱の陰から顔を出し、音のする方を見た。暗がりから、松明を持った獣人が近寄ってきている。大きさは頭が天井につきそうでつかないくらいだから、6呎7吋(2m)程度か。手には剣を持っている。そして恐らく、脇腹には焼印。
やはり操られた魔物は城内にもいるか、とエリカはボウガンに手を添える。すると獣人はクンクンと鼻を動かし、辺りを見渡し始めた。この魔物は暗がりでは目は利かないが、鼻が利く。突如漂い始めた人間の女の匂いに、違和感を覚えているのだ。
獣人が木箱を見た。その瞬間、エリカは飛び出し、敵の頭に矢を撃ち込む。見事に脳を貫き、獣人は声を上げる間もなく倒れた。
エリカはふうと息を吐き、獣人の来た方向を見る。
壁から灯りが漏れている。部屋があるのだ。その灯りは時折ちかちかとして暗くなったり、そうでなかったりを繰り返す。
(……影だ。あの部屋に誰か、いる)
今度は後ろからひたひたと音がした。急いで獣人の亡骸を持ち上げ、その下に隠れる。そして息を止めてその音が近づいてくるのを待つ。亡骸の頭から漏れ出る血の臭いに警戒しているのだろうか、現れるのが遅い。
10秒、20秒、30秒──廊下の角から新手の獣人が現れた瞬間、頭に矢を撃ち込む。敵は音もなく倒れた。亡骸の下に隠れたから、匂いで勘付かれていきなり襲われることは無かった。亡骸ごと剣で貫かれたら危なかった。エリカは額に滲んだ脂汗を拭う。
「……ふぅ、ふぅ」
このままここに居てはその内窮地に陥る。一気に部屋の近くまで走り、事を成してしまったほうが無難だ。
亡骸の下から出て、走り、壁に張り付き、息を殺す。半開きの扉を、ゆっくりと音を立てないように足で押し、部屋の中を覗き込む。
そこにいたのは2人の男。1人は机に向かっていて、背中を向けている。何かを書いているようだ。離れた場所にもう一人がいて、鞭を手に誰かを打っている。
(罪人の拷問……)
そっと壁から背を離し、打たれている誰かを見る。天井から鎖で吊るされていて、体中血塗れの男。背格好に見覚えがある。だらしなく伸びた髪にも、青い瞳にも。──もしかして。
「ウォルターさん……?」
言ってから気がつく。──鎖に繋がれたウォルターの両手、その小指と薬指が無い。
「……っ!」
エリカは口に手を当てる。
当たり前だが、ウォルターが捕まっている事は想像していたし、覚悟もしていた。もしかしたら、ご飯を食べさせてもらっていないかも。鎖に繋がれて、手首を痛めているかも。そう、心配していた。だが、実際に目の前に飛び込んできたのは想像の何倍も酷い仕打ちだ。
脳裏によぎる。あの晴れ乞いの雨上がり。妻と子を失っても、なお故郷のために尽くそうとした、寂しいとも悲しいとも断言できない、冷たい石のようなウォルターの背中。
それで、冷静でいられるわけがなかった。エリカは扉を蹴破った。
「誰だッ!」
鞭を持つ男が振り返る。エリカは何も言わず、矢を2本放つ。放たれた矢は2本とも腹に命中し、後ろに吹き飛んで積まれた木箱を散らし、男は荷に埋もれた。
「貴様、どこから入ってきたッ!」
次に、座っていた男が剣を手にエリカに斬りかかる。だが、エリカはその剣を持つ手を掴み、思い切り捻って投げ、地に叩きつけた。そして喉を勢いよく踏みつける。兵は血反吐を散らして、焼けた虫のように丸く縮まる。
「……今すぐ助けます」
エリカは肩で息をしながら、剣で鎖を斬ってやる。ウォルターは膝から崩れ落ちた。
「出血が酷い。早くなんとかしないと」
エリカは事情を聞くよりも傷を治さねばと思い、ドレスの内にある薬を取り出そうとする。が、ウォルターが赤い3本の指でエリカの腕を掴み、それを止めた。
「──先に、女達を助けてやれ」
言われて、嫌な予感がした。ウォルターがこの有様。だとしたら攫われた女の人達は、どうしている。
「この先が、拷問室だ」
エリカはウォルターの目線の先、赤い塗料で塗られた鉄の扉に目を向ける。
そして立ち上がり、ゆっくりと近寄り、その冷たく、重い鉄の扉を押し開けた。
開けてまず、臭いが鼻につく。血の臭いだ。錆びた鉄を擦ったような。痰が絡む。
音は、様々。ガボガボという水の中で誰かが叫ぶ音、小さな悲鳴、呻き声、助けてと叫ぶ声、パチンと何かを弾く音、潰す音。他にも色んな音がして騒がしい。
目に入ってきたのは、茶色い服を着た兵士。茶色いのは、血の色だ。兵士は様々な道具を扱って、裸の女達を傷つけている。1人は鋏のようなもので爪を剥がしているようだし、1人は女の顔を水桶に入れて頭を押さえつけているし、1人は縛られた女を松明で焼いていて、一人は……、いや、もうこれ以上見たくない。
部屋の隅には、山になって折り重なっている裸の人たち。その内の一つに、金色の髪があった。それで、ついにハッキリと思い出した。スレイローの酒場で、困ったように笑って近寄ってきた凛々しい男装の麗人の顔を。
扉が開いたのが分かって、兵士たちはそちらを見た。エリカは彼らを強く睨め付けるでもなく、ただ目を見開いたまま、震える手で黒い剣を抜いた。いつも輝きを湛える赤い瞳は、深い血の色をしていた。
「ひっ……!」
兵士の一人が怯えた声を上げた。水桶に沈めていた女の頭から手を離し、尻餅をついて後退りをし、近くにあった剣を握る。エリカはその兵士の足に向けて、矢を放つ。
「ぐわっ……!」
矢を腿に受けた仲間を見て、兵達が言う。
「貴様、何者だ!」
「落ち着け! 話をしよう!」
「やめろ! そんな事は、無意味だ‼︎」
兵達の中には自らが何をしているのかを理解している者もいたから、エリカを恐れて宥めようとする。──彼女から滲み出る強烈な殺意に、次に自分達がどうなるかを悟っていた。
「絶対に許さない」
エリカは一歩踏み出す。スカートの中で、ぱしゃんと血が跳ねた。
「絶対に、許さない……ッ‼︎ お前らは畜生だッ‼︎ 畜生以下だッ‼︎ 全員人の皮を剥いで、その汚い中身を引き摺り出してやるッ‼︎」
□□
舞踏室には先程のスロー・ワルツよりも豪華なワルツが流れていた。これはヴェニーズ・ワルツといって、既に瘴気に飲まれた東の国で流行っていたワルツの形式だった。スロー・ワルツよりもやや拍子が早く、大きく弧を描きながら踊るため、軽やかかつ優雅な動きが特徴だ。
キャロルと獅子侯は踊る。若者達も8組踊っていて、彼らも大変煌びやかであったが、やはりと言うべきかみなの注目はキャロルらに集まっているのであった。
「こんなに間近で見ても美しい。私は今まで、これ程に美しい女性を見たことがない」
「大袈裟にございます」
「どうだ。この城に留まるつもりはないか。私が取り立ててやろう。無論、お前の家族もな」
キャロルはくすりと笑う。
「お戯れを」
「いいや、私は本気だ」
「奥様に目をつけられます」
「あいつは死んだ。私には過ぎた女だった」
「それは、失礼いたしました」
目を伏せつつ、キャロルは続ける。
「閣下のお側に仕える女性たちも黙ってはいないのでは」
「私に仕える女?」
「──領中から優れた女性を集めていると聞きます」
キャロルは顔をあげ、獅子侯の目を見る。獅子侯は眉を上げて小さく驚く。
「ほう、知っておるか。その事を」
「閣下は女の身分でも腕が立てば重用してくださると、お聞きしました。私も出来れば閣下の騎士として仕えとうございます」
獅子侯は鼻で笑った。『女の身分でも重用する』か。どうやら、そうして集められた女もいたらしい。
「お前に剣は似合わない。それに、何か勘違いしている」
「勘違い……?」
「女を集めているのは、雇うためにあらず」
「では、何のために」
キャロルの手に思わず力が入る。何か嫌な予感がした。
「そうだな。どう話せば良いか……」
獅子侯は言って、踊りを止める事なく目を瞑る。見ている貴族たちには、それが大変優雅なものに思えた。
「──この世界に輝聖は必要ない。そうは思わんかね」
キャロルは何かを言おうとして微かに口を開けたが、言葉が出なかった。
「輝聖の意味が分からんか? 光の聖女のことだよ」
獅子侯は薄く目を開け、左の口の端を僅かに上げて微笑む。
「光の聖女は、日蝕で現れなかったと聞きます」
「いや、そうではない。確かに、この世界の何処かに存在する」
「何故、そうと分かるのです」
「私は獅子と呼ばれた男だ。獣物は、鼻が利く。──正教会が秘密裏に輝聖を探し始めているのを掴んだ」
キャロルは思う。この男の話ぶりからして、日蝕の日に女神像を腐らせたリトル・キャロルが輝聖である事までは、知らないようだ。
「さて、輝聖は何を考えている?」
「え? 何を、考えているか……?」
突然問われて、答えに詰まる。
「そうだ。迫る瘴気に。この世界の崩壊に。何を思う?」
獅子侯は笑みを浮かべたまま続ける。
「知らぬ存ぜぬだろうか。果たして心は痛めていないのだろうか」
「……心は、痛めているのではないでしょうか」
「ならば何故、この世界の危機を前にして、なおも現れない」
「それは……」
「何故、故郷を追われた我が民を、そして私を救おうとしない。何故、私や民たちを憐んでくださらない」
キャロルは、やや息を荒くする。額に汗が伝った。この問答、苦しい。
「世界を救う力を神から授かっておきながら、卑怯にも表に出てくることなく、世界の片隅でのうのうと生きる輝聖など、果たして我らに必要であろうか」
答える事が出来ない。
「思うに、輝聖は臆病なのだ。逃げているのだ。ハハハ……」
キャロルの胸の内に黒く重いものがずしりと生まれる。それは呼吸を遮り、手足を急激に冷やし、震えを齎す。心臓の鼓動が煩いくらいに聞こえ、優雅な音楽を掻き消していく。
(私が、臆病にも逃げている……)
ジャック・ターナーに旅を続けろと言われた。正教会に狙われるのを避け、輝聖の力がさらに覚醒するまで待てと、そう言われたのだ。だからそうしてきた。逃げているのではない。ちゃんとした理由があるんだ。
──違う、逃げてなんかいない。お前に何が分かる。
そう、叫びたい。だが、叫べない。それは、私が輝聖であると白状するようなものだから、だろうか。いや、そうではない。──獅子侯の自論を否定する権利がない。
日蝕で腐食の力を手にした。聖女でなかった事を受け入れられず、この力とまともに向き合おうとしなかった。逃げていた。私は、そこから変わったつもりだった。
しかし、客観的に考えた時、私は何1つ変わっていない。獅子侯の言う通り、未だに逃げているんだ。臆病にも。
「だから、私は探している。何も出来ない、役立たずの輝聖をな」
「……どうやって、探すのですか」
キャロルは重い唇を意地で開けて、なんとか言葉を発した。
「いくら臆病な輝聖と言えど、生命の危機が迫れば激しく抵抗するだろう。聖女たる力を使い、何とか逃れようとする。そのはずだ」
「生命の危機……?」
「臆病者には罰を、と言ったところかな。輝聖に民の苦しみを理解させてやるのだ」
獅子侯はニヤリと笑う。
「輝聖を炙り出すには拷問の他、これなく」
キャロルは踊りを止め、目を見開く。
「……女を集めるのは輝聖を探るためと、そう仰せですか」
「左様。輝聖と疑わしき者には拷問をかける」
「そうして無実の者を痛めつける事に、意味は……?」
獅子侯は笑みを崩さず、言う。
「──輝聖は犠牲の山を見て、自らの卑劣を悔やむべし」
キャロルは獅子侯の瞳を見据えた。その黄金の目、光を湛えて、遥か奥に宇宙を携える。銀河に似た煌めきは、強烈な光の力。
二人の周りに旋風が起きる。それで、近くで踊る若者達は何事かと、足を止めた。
獅子侯は黄金の瞳を見て、キャロルの手を離そうとした。無意識だった。体がそう反応したのだ。が、キャロルのその手がしかと掴んで、離せなかった。
「違うな。貴様。準男爵の娘などではないな」
キャロルは答えない。
「何者だ、貴様」
「──お前の敵だ」
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