海から来た獅子(中)
川辺の野営地、夜空の下で薪の炎を見ること暫く。メリッサはうたた寝をしてしまった。連日の疲れが出た。
そして夢を見た。ここ数日は決まって同じ夢だった。
「必ず、カタロニアをお救いください」
後ろから声がして振り返ると、そこには女官長のミランダが立っている。力無くだらりと腕を垂らした子供の骸を抱えて、涙の目で真っ直ぐとメリッサを見つめている。この子は魔物に崖から突き落とされて死んだ、ミランダの息子。まだ7歳という若さだった。
「姫なら、出来まする。カタロニアに栄光を」
ミランダの傍、爺と乳母がいる。その足元には、若い戦士が三人転がっている。どれも爺らの子で、勇敢に魔物と戦い、死んでいった。
「姫様をお慕い申し上げる」
「必ずや、カタロニアに安寧を」
「お命、預けましたぞ」
カタロニアの民たちが集う。みな、メリッサをじっと見つめている。それぞれの側には決まって亡骸があった。
その群衆の先、瘋狂の父が王座に座る。民に何かを言うわけでもない。ただ、座す。もはや滅亡の国には、病の王を王座から下ろすだけの力はない。だがそんな王も、今だけはメリッサに優しい眼差しを向けていた。自身が成し得なかった事を成して欲しいという思いが、そこには込められている。
誰もがメリッサを思い、メリッサに期待する。民達の心は暖かい。燦々と輝いている。まるで一つ一つが太陽のようだった。
子供達の笑い声がしている。遠く置き去りにした過去の方向、緑地が見える。そこで水遊びをするのは錬金術の学友たちだった。彼らもまた太陽のように燦々と輝き、決して忘却し得ない過去からメリッサを勇気づけている。
メリッサは歩き出す。幾千の太陽を背負い、遥かなるカタロニアの王宮を目指す。白亜の壁、艶やかな石の床、金の塔、精巧な彫刻、清らかなる泉と噴水、豊かな公園。そこは魔物も瘴気もない世界。民が幸せに暮らせる国。
(──渇く)
進めば進むほどに、太陽は輝きを増してメリッサの体を焼いてゆく。民たちの希望が、己の全てを焦がしてゆく。
(──そうだ。人も乾いて乾いて乾いて、乾き切ると獣物になるのだ。あの柘榴獣のように)
ふいに足元を見ると、今歩いている場所が血の海だと分かる。それは光を跳ね返し、メリッサの姿を映している。それで、麤皮の鏡の上に立っている事を知る。
それを知ると決まって熱にやられて歩けなくなり、膝をつく。血の床に映るのは、乾いて醜い獣となった己だった。それを認めると、床の血を啜りたくてしょうがなくなる。血に混じる肉片や臓物を喰らいたくなる。
その血や肉片は何処から来たのか。答えは知っている。今後、己が生み出すものだ。多くの人を殺めて生み出すのだ。
獣物となれば、奪う事でしか己の欲求を満たす事ができない。他人の安寧を喰らって、自らの安寧とする。幾千の太陽を背負って、ただひたすらに喰らい続ける。
血を啜ろうと床に口をつけた所で、メリッサはゆっくりと目を開けた。
そこに夢の光景はない。薪のぱちぱちと弾ける音と、川のせせらぎ、夏虫の声だけが聞こえている。
顔に滲んだ玉のような汗を、手で拭う。
「今更、戻れるものか……。下らぬものを見せてくれる……」
そして周りに誰もいない事を確認し、何かに怯えるようにして膝を抱え、深く息をついた。
「咎めるならば、誰か代わりに国を救ってくれ……」
眠ろうにも、こうしてすぐに目が覚める。熟睡をしたのは、いつが最後か忘れた。
□□
マール伯爵領、リゴードン。閑やかな田舎街に、レッドグレイヴ家の邸宅がある。
執務室の扉を叩き、一人の使用人が入る。長い髪を小綺麗にまとめた、柔和な顔立ちの小柄な女性だった。名を、フローレンスといった。
フローレンスは机に向かうライナスに寄る。
「あのっ。旦那様、斥候からです」
そう言って、一枚の紙を渡す。ライナスは急いでそれに目を通し、読み終えると立ち上がった。
「やはり、動き出したか」
飾ってある長劔を腰につけ、銀の杖を取る。
「やはり……、と申されますと」
「陸聖がナットウォルズに向かった。直ちに出立する。フローレンス、留守居を頼むぞ」
ライナスが向かったのは、マール伯爵領最大の街、ヴィニスターである。邸宅からは馬で駆ければ2時間とかからない距離にあった。
古くから港町として発展しており、船着場には多くの船が停泊している。街の中央は船乗りや商人など様々な人が行き交い、道には露店も並んでいて賑やかである。
ライナスは、旅商人の啖呵売に群がる人の間をするすると抜けて、街の高台へと向かう。
目指すはヴィニスター城。マール伯爵に謁見し、直接、危機を訴える。軍を動かす許可を得て、陸聖を牽制しなくてはならない。
□□
謁見の間。白い大理石の床が広がっている。南側にある巨大な青いステンドグラスから光が漏れて、床を浅瀬の色に染めていた。
部屋にライナスの堂々たる声が響く。
「調べによりますれば、第四聖女隊はナットウォルズに向けて進軍中の由。アンジェフォード城の落成式典に合わせての進軍と考えますが、陸聖はそれに招待されておりませぬ」
そのライナスの話を静かに聞いているのは、凝った彫刻の椅子に座る男であった。長い白髪を後ろで結き、その顔の鼻から下は鉄製の仮面で隠されている。若き日に疱瘡を患い、そこが痘痕となって崩れているのだった。この男こそが『義の貴族』と称される、マール伯爵領領主ノア・バトラーである。
「ほう」
「由々しき仕儀に御座いまする」
「つまり、陸聖に何某かの企てがあると、そう言いたいのかライナス」
「はっ。式典に集まる貴族を一揉みに潰し、我が領から土地を奪うものと考えます」
ライナスの申し分を聞いて、伯爵の隣に立つジョッシュが笑いながら言う。
「待て待て、ライナス。なんと突拍子もない。何故にメリッサが土地を奪おうとする。聖女なんだぞ」
「聖女である前に亡国の姫なんだよ、ジョッシュ」
「いや、だが──」
伯爵がジョッシュの二の腕を捩じ切らんばかり摘む。
「大人しくライナスの申し分に耳を傾けよ」
「あいででででっ!」
「確かに、これは火急の要件に相違ない。確証はあるのか」
ジョッシュが痛みに耐えかねて跳ねるのに目もくれず、ライナスは膝をついたまま言う。
「ございます」
「申してみよ」
「ナットウォルズに向かいたるは、第四聖女隊のほぼ全軍。内、魔導砲14門、銃は約100丁。駱駝騎兵に至っては対人を想定している模様。さらに斥候によれば、アンデルセン伯爵の部下を捕え、その居場所を問いただした由。それも穏やかならぬ方法だと聞いておりますれば、用心をしておくのが寛容と存じ上げます」
伯爵は表情を変えず、肘置きを指でトントンと打つ。
「つまり、ライナスはどうしたい」
「卿ならびに家嫡ジョッシュ・バトラーの式典参加をお見合わせ下さいませ。また、私に兵をお預け頂きたく存じます」
伯爵は目の色を変えて、強く言った。
「ならぬ」
そして立ち上がり、ライナスに近寄る。ジョッシュはようやく痛みが引いたか、苛立つように呻き、地団駄を踏もうか踏まないかの踊りのような仕草をしている。
「アンデルセン伯爵は領が滅びてもなお、弱き人のために何を為すかを常に考えている御仁と見る。我が領に於いても、雷竜を退けたのみならず、数多の魔物を追い払ってくれた。そのお陰で領北部の民たちは安心して暮らせている。恩義には報いねばなるまい」
「しかしアンデルセン伯爵は怪しげな術を使います。焼印にて魔物を操る。お言葉ながら、あまり信頼しすぎるのは危険と存じます」
「我が領のために尽くしたことだけが、確かな事である」
「重ねて言上仕る。兵をお貸し与えくださいませ。陸聖の動きを止めます」
「陸聖もまた、我が領に尽くしてくれている。それをどうして、武力を使って追い払うことが出来ようか」
ライナスは顔を上げて、伯爵の目をまっすぐと見据えた。
「──私の話を信じぬと仰せですか」
「否。信じる。──儂はお前の忠義を知っている。嘘を申せる男で無いこともな」
「これは異なことを。ならば、何故お聞き入れくださいませぬ」
「たとえ、相手が腹を刺さんと刃物を隠し持っていても、受けた愛には愛で返さねばならん」
ライナスは諦めたように目を瞑る。初めから分かっていた。マール伯爵とは、そういう男だ。人を信じ、義を重んじ、ただ己が道を行き、そこに藪があろうとも突っ切るしか、やり方は存在しない。
「死んでは元も子もありませぬ。今、領主を失えば、民も大いに悲しむ事となりましょう」
伯爵は肩を揺らしてくつくつと笑った。
「そうなれば、全ては儂の不甲斐なさが起こしたこと。主人が非力だったと罵り、それで諦めよ」
痛がっていたジョッシュがヘラヘラと言う。
「まあ、そのなんだ。仮にお前の悪い予感が当たったとしても、案ずるなライナス。父上の隣には常に俺がいる。地獄の業火で焼かれでもせん限りは、護り通してみせるわ。ははは」
□□
ライナスは邸宅に戻り、執務室から沈む夕日を見ている。
「思うようにいきませんでしたか?」
フローレンスが香草茶を淹れて机に置いた。ふわりと檸檬茅の香りが広がる。
ライナスはただ静かに考えている。算段を、立てる。
軍の中から己を信頼してくれている兵を連れていけば、第四聖女隊に対抗しうるか。いや、難しい。あの魔導砲の一撃で、木っ端微塵となって吹き飛ぶ。
奇襲をかけるのはどうか。いや、それも厳しい。既に第四聖女隊はナットウォルズに向かっている。それを追いかけ、奇襲の支度をするとなると、兵馬に相当の負担が掛かる。口から泡を吹いた馬と、碌に睡眠も取れていない兵では、成功確率が著しく落ちる。
手詰まりか。このまま、故郷が乱れていくのを見ていることしか出来ないのか。主人とジョッシュを危険に晒す事しか出来ないのか。
──いや、まだだ。まだ、己には出来ることがあるはずだ。
「あのう、困ったことがあっても、大丈夫ですよ。きっと、伯爵様が助けてくださいます」
フローレンスはにっこりと笑って言う。
「困ったときはいつだって、伯爵様が助けてくれました。旦那様のお母様がご病気になった時も、私の脚が無くなってしまった時も」
そう言って、フローレンスは服の裾を上げた。左脚、銀の義足。魔物に食われたのだ。
「今回も伯爵様が助けてくださいますよ」
いや、その伯爵を助けようとしているのだが、と言いかけて飲み込む。確かに、マール伯爵はいつだって我らの味方であり、窮地に立たされた時は決まって助けてくれた。フローレンスの言っていることは筋違いのようで、全く正しかった。
「……主人を信ずる、か。騎士の第一歩だな」
ライナスは少し笑って言い、目を閉じる。そして再び開いた時、その目はギラリとした光を帯びていた。──狼の目だった。
「よし。フローレンス、夜が明けるまでに支度を済ませる。来い」
「支度……?」
翌日、マール伯爵は祝賀の行列を作ってナットウォルズへと向かった。馬印を掲げた行列はおよそ437碼(約400m)となり、人々の目を引いた。
リゴードンのレッドグレイヴ準男爵、即ちライナス・レッドグレイヴが用意した馬車10台もその行列の中にある。これらはその日の早朝に届けられ、幾つかの祝いの品が積まれていた。
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