海から来た獅子(前)
柘榴獣という魔物がいる。
大きさは兎ほどである。姿形は栗鼠に近く、それに白狐と白鼬とを混ぜたようだと表現する人が多い。
毛皮は真っ白く、ふかふかともふわふわともしている。目は愛らしくてくりくりだ。鼻は小ぶりで、触ればぷにぷにと弾む。
そして何といっても特徴的なのは、額にある赤い宝石だった。額石と言い、大きいもので20金ほどある。装飾品に加工されることもあれば、触れることで悪心を鎮める作用も期待できるから、水薬や魔法素材として利用されることもある。
柘榴獣は個体数が極めて少なく、入手も難しい為、額石は大変高値で取引される。状態の良いものは城1つとの交換が妥当である、とさえ冗談混じりに言われる。
そうした事もあって、柘榴獣は愛玩動物の頂点として君臨し、金満家はこれを探し求めて冒険者を雇い、方々へ向かわせる事もあった。
だが、どんなに美しくとも、所詮は魔物。決して人に慣れることはない。遠くで見ている分には良いが、指を近づければ食いちぎられるし、檻から放てば目を繰り抜かれる。そうして酷い目を見た貴族も中にはいる。
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第四聖女隊『神の駱駝』はナットウォルズへと進軍中である。その道中、川辺に設置した野営地で一夜を明かす。
燃える薪の前、メリッサは一つの赤い宝石を夜空に翳した。赫赫と煌めく中に、ゆらりと光の塊が揺蕩っている。まるで炎を宿しているようであった。これが柘榴獣の額石である。
メリッサは石の中の炎を見て、何度目かの小さなため息をついた。
──出立する前に、賢者の石を完成させておくべきだったか。
実は、既に賢者の石は完成間近で、あと1つ、たった1つの工程を行えば、それを手にする事ができる。その工程が大変かと言うと、全く大した事はない。ただ、この額石を『哲学者の水銀』と名づけた溶液に入れて反応を待つだけだった。その事をメリッサ以外に知る者はいない。
終着点は見えている。だが、それをしない。理由は1つ。万が一にもあるかも知れない失敗が怖い。失敗するくらいなら、あと一歩の所に、永遠に踏み止まっていれば良いような気さえした。
「夢とは、斯くもそういうものかな。叶えたくて、叶えねばならぬと思う程に、叶えたくない」
いや、本当に夢とはそういうものであろうか。そう思おうとしているだけではないか。夢は、知らぬうちに自身を締め付ける鎖へと変化したのではあるまいか。
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賢者の石は錬金術の極意である。これは錬金術の祖、シモン・イヮグラーイーが決めた。
シモンは闇市で神になる前のリュカと出会い、予言を聞いたとされる。
闇市へは錬金術の素材の売り買いに来ており、そこでは見世物小屋が商売をしていた。西へ向かって旅をする評判の良い連中で、出し物は多彩だった。
その日は、二首人間の歌、小人たちのかけっこ、怪力男の岩転がし、足無し道化師の踊り、そして多指の少女の予言があった。
リュカは琵琶を奏でながら、歌うようにして未来を予言する。
そして歌が終盤に差し掛かった頃、『永遠の生命と永遠の破壊を齎す聖は、やがて世界を統べる』と歌ってみせた。
リュカの予言は見世物の締め括りのようなものであり、他の見物人も予言としてではなく、意味深な詩として楽しんだ。
が、野心家であったシモンは『永遠の生命と永遠の破壊』を作り出せと門下に広めた。そして、世界の王となるのは己だと言って憚らなかった。これが、賢者の石の始まりである。
その当時、賢者の石という名はなかった。はっきりとそう名付けられたのは後の事で、門弟アドベドの文献が初出である。『賢者』は神となる前のリュカがそう呼ばれていたからであり、『石』は錬金術によって生み出される物質であることを示した。
メリッサは賢者の石を『生命の甕』だと仮定した。
甕からは絶えず命が溢れ出て、所持者に永遠の命を与える。反転して甕は他所から命を吸って溜め込んでいる。実際に甕のような形をしているわけではないだろうが、そう考えれば作り出せそうな気がした。
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今より2年前の事だった。
学園内、メリッサに与えられた工房。その床には白墨で計算式と魔法陣とが一面に描かれていた。メリッサはその上に寝そべり、大いに笑っている。──論ではあるが、賢者の石を再現する事が出来たのだ。石というよりも液体に近いらしいそれは、祖国を救えるかも知れなかった。
賢者の石は永遠の命と永遠の破壊を齎す。瘴気に飲まれた土地に正気を与えるか。人に瘴気の中でも生きられる力を与えるか。破壊の力として使えばカレドニアを征服できるか、否か。
だが、それを作るには一つ大きな問題がある。賢者の石を生み出す、その素材を集めるのに難儀するのだ。何十種類という鉱石、何百種類という植物や動物の素材が必要だった。だが、そこはまあ、良い。時間がかかってでも、こつこつと集めてみせよう。
しかし、燕窩と柘榴獣の額石、女面鳥の子壷。これら三つは手に入れられる自信がなかった。どれも本でしか見た事がない上に、どう手に入れたら良いか見当もつかない。
だからメリッサは、祖国に協力を求める事にした。
賢者の石が生み出されるという報は、カタロニアの王宮を俄に活気づかせた。髄膜の毒で瘋狂となったカタロニア王も報を聞いて、1節程ではあるが王たる風格と理性を取り戻した。
王は賢者の石を作るのに必要な全ての素材を集めるよう、家臣たちに命を出した。
燕窩は燕が唾液を使って作る巣の事を言う。文献によれば、かつて東の国にその存在を認められていたが、今となっても手に入れる事が出来るのかは謎だった。
だが、これはメリッサを慕うカタロニアの民たちが昼夜問わず国中を探し回り、瘴気にほど近い土地の崖から、古い燕窩を見つけ出した。
女面鳥の子壷とは、女面鳥の子宮部の中に卵を宿したものの事を言う。卵管の中に卵があるのは総じて1節ほど。たがしかし、子宮部の中に留まるのは2時間ほどとされ、大変貴重だった。それに卵を宿した女面鳥は臆病で、人前には現れない。
だが、これもメリッサの為にと立ち上がった義勇隊が、嵐の日に羽を休める女面鳥を大量に屠り、その中から子壷を探り当ててみせた。
燕窩と子壷を含む必要素材が学園に届いた時、メリッサは少しの涙を流して使いの者達を抱きしめた。
だが、柘榴獣だけは見つからなかった。
辛うじて掴んだ情報を元に捕らえた柘榴獣は、小さな石しか持たない雌だった。もっと立派な石が必要だ。やはりせめて、20金以上が欲しい。
しかし20金以上の石は雄しか持たない。柘榴獣の7割は雌であるとされるから、困難極む。その上、若い雄では石が小さく、15年は生きた雄でようやく20金になるかならぬか、といった具合だった。
魔物の殆どが雌雄同体であるのに、厄介な事に柘榴獣は雌雄異体。なのに交尾で増える事はなく、雄からは雄が生まれ、雌からは雌が生まれる。ならば初めから分けるな、全部に大きい石をつけろ、と文句を垂れる日もあった。
既に入手した素材から、賢者の石の元となる溶液『哲学者の水銀』を生成し、あとは額石を手にするだけ。だが、それが手に入らないまま、ついに半年が経ってしまう。
□□
聖歴1661年。遠征に出ていた『第五聖女隊』が学園に帰って来たのは、朔風の節、暁月の事だった。
第五聖女隊とは、聖女候補リトル・キャロルが率いる部隊である。白装束と鎖帷子を血塗れにして帰還する事から『返り血の軍団』と陰で呼ばれていた。正教軍から危険な任を押し付けられている為、正教会内で嫌われているのではないかと疑う者もいる。
現に正教軍の爪弾きものや、諸領の軍や冒険者組合で問題ありとされた者が、こぞってこの隊に組み込まれていた。第五聖女隊は言わば、嫌われ者の寄せ集めであった。
この日も返り血の軍団は、体を赤黒く染めて帰って来た。それを学園の生徒や教師が人垣を作って見ている。実際には死臭はないが、鼻をつまんで臭いと言って笑いを取ろうとする阿呆も生徒の中にはいた。
帰って来たは良いが、どうやら出陣した数よりも相当少ない。キャロルと第三王子リアン、その他に従事した者が3人ほどで、あと数十人いるはずの人員が見当たらない。
人垣の中、教師らがひそひそと話をしている。
「隊の大半が離叛したらしい」
「何?」
「キャロルが軍の命に反して、ディアボロとかいう貧民街に向かった事が原因だそうだ」
「どうしてそんな所に」
「竜が出た」
話を聞いていた他の教師も、怪訝な顔をして口を出す。
「元はファーレンロイズ侯爵領に向かっていたはずだろう」
「ベクレルだな。第二王子がいる場所だ」
「そこと天秤にかけて、貧民街を救おうとしたわけか。信じられん」
「まあ、故郷だと言うしな」
「故郷だろうと、王族と秤にかけられるものか。そんな無価値な土地は捨て置けば良いのに、聖女となろう者が如何なる考えで……。まったく、自覚が足りん。狂ったとしか思えん」
「むしろあの才女が嫌われ者の集団にいる事こそおかしいと、俺は思うがな。あんな中に放り込まれれば、狂うこともあるだろう」
前を行くキャロルの表情は凛としているが、少し目が腫れている。それが涙やけだと気づく者は誰1人としていなかった。
「俺はいつかは瓦解すると思ってたけどな。あいつらは殺戮の集団。いつまでも一つに纏まってるわけがねえ」
近くで話を聞いていた生徒は、そう言って笑った。そして他の生徒がリアンを指さしながら面白半分で続ける。
「あの可愛い顔した女の子も殺しが出来るのか?」
その生徒の肩に、手が乗った。そして退けと言わんばかりに生徒を押し除け、前に出てくる影がある。メリッサだった。
「陰口を叩いていると、本人に頭を撃ち抜かれるぞ。第三王子は狙撃の天才だ」
2人の生徒は突然現れた聖女候補に驚いて、いそいそと消え失せた。
メリッサはじっとキャロルを見る。厳密に言えば、キャロルが持っている鉄製の鳥籠を見ていた。
その中に、白く輝く栗鼠のような動物がいる。額には赤く輝く石。間違いない。あれは柘榴獣である。しかも額石が大きい。雄なのだ。
なぜキャロルが柘榴獣を持っているかは知らないが、突然にこんな好機が巡ってくるとは思いもしなかった。胸が高鳴り、自然と笑みが溢れ、額に汗が滲む。
「さて、リトル・キャロルとは大して話をした事もないが……」
隣、メリッサの差副として共に入学をした生徒に言う。
「姿形は見繕っていても、所詮は貧民の出。金を見せつけてゆすれば靡いてくれよう」
メリッサは祖国に頼んで金を用意させた。また、キャロルが何に価値を置くか分からなかったから、宝石類や美術品などの金目のものを用意した。それだけではなく珍味や果物なども準備し、何を要求をして来ても応えられるようにした。
──とにかくあの柘榴獣が欲しい。喉から手が出るとはこの事か、と思うくらいに。
そして抜かりなく準備を済ませ、学園の裏、薬草畑と手付かずの雑木林の間にある、庵のような雰囲気の小屋に1人で赴く。そこはキャロルに与えられた場所で、工房となっていた。
キャロルは突然の来訪に嫌な顔ひとつせずメリッサを通し、紅茶を振る舞った。そして世間話も程々にメリッサは本題を切りだす。
「単刀直入に言う。その柘榴獣を譲って欲しい」
硝子の入っていない窓際に置かれた鳥籠。その中に、冬の白い日差しを受けて神々しく輝く魔物がいる。
キャロルは柘榴獣をじっと見て、黙ってしまう。それで、メリッサは少し肩を落とした。まあ、渋るのも当然だろう。貴重な魔物だ。キャロルが何に使用するかは分からないが、譲って欲しいと言われて譲れるものでもない。
「いくらでも出そう。言い値で良い」
もし難しいようであれば、奪うしかない。無論、そのための準備もして来た。雑木林には毒矢を構えた味方が3人いる。が、恐らく、キャロルもその気配には気づいているだろうし、上手く油断させるには──。
そう思った時、キャロルは何でもないように言った。
「構わないよ。別にお金もいらない」
メリッサは目を見開く。そんな呆気なくて良いものなのか。
「必要なのは額石?」
「そ、そうだが……」
「でも、絞めるのだけは私にやらせて欲しい。強いて言えば、それが条件かな」
□□
額石を魔法素材として高めるには、柘榴獣の生命力の全てを額に送り込む必要がある。
それを成すには、生きたまま乾かす事である。乾いて乾いて乾いて、体は縮んでいき、逃げ場を失った生命力が額石へと集まる。
乾かす方法は単純である。魔法で熱線と熱風を常に当て続け、柘榴獣を脱水させる。単純だが、難しい。決して殺してはいけない。死なない程度に餌と水分を与えながら、根気強く続けてゆく。生きている期間が長ければ長いほど、質の良い額石に仕上がるとされる。
2節の後、梅の木が僅かに花を咲かせた頃、額石は神々しい輝きを放つようになった。ついに生命力の全てがそこに宿ったのだ。
「おお……」
メリッサはそれを見て、感嘆の声を漏らした。このような美しく素晴らしい額石、いや、素材があろうものか。触れなくとも顔が火照るほどに魔力を感じるし、少し肌がピリピリともする。これを使えば間違いなく、賢者の石を生み出す事ができる。そう確信した。
「見事だ、リトル・キャロル。本当に、見事だ」
キャロルは仄かな笑みを浮かべる。そして、干涸びて死んだ魔物を見て、こう言った。
「……あんなに美しかった柘榴獣も、乾けばただの獣物になる」
可愛らしかった目は盛り上がって白く濁り、愛らしかった口は縮み上がって歯茎が剥き出しとなっている。白く美しい毛は焼けて縮れ、その下に見える皮膚は赤黒く変色していた。
額にある石だけは立派だが、これがあの柘榴獣かと問われて、そうだと答えられる者は多くないだろう。それ程に醜い。
「額石を高めている時にはあまり気にならなかったけれど、出来上がってみれば、残酷な事をしてしまったと思う」
そう言ってキャロルは短刀を使い、額石を繰り抜く。次いで、僅かにこびりついた脳を布で拭き取った。
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メリッサが完璧な額石を手にして2日後。ふいに、あの柘榴獣がどこから来たのかを知る事となった。差副の生徒が第五聖女隊の者から話を聞いたのだ。
あの柘榴獣は、キャロルの育て親の一人であった、とある老人の所有物であった。この額石を売れば、今後食うに困らない大金を得られるし、魔法の研究の足しにもなるだろうと、キャロルが帰郷する時に渡す予定だったらしい。
しかしディアボロは竜によって滅ぼされた。その老人も死に、彼女と彼を結ぶものは柘榴獣しかない。
「なぜ……」
それを聞いたメリッサは顔を顰めた。解せない。全く解せない。
「なぜ、何も言わん……」
そんな大切なものを、どうして、こうも易々と、何の見返りもなく渡してしまったのだ。
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それからメリッサは、この額石を暫く使う気にはなれなかった。時を置けば気持ちが晴れて使えるようになるだろうと思い、その時を待った。
だが、時を置けば置くほどに、その他の素材を集めてくれた者たちが、一人、また一人と故郷で帰らぬ人となってゆく。燕窩を手に入れた友たちが死に、子壷を求めた戦士たちが散る。そして完成を待つ『哲学者の水銀』自体が、掛け替えのない思い出となってゆく。
──そうしてメリッサは、賢者の石を作る事が怖くなっていった。
失敗すれば、その全てを失う。賢者の石作りに協力した者達は、失敗という2文字の下、完全に死ぬ。己が、とどめを刺してしまう。
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