生贄(後)
その後、ウォルターは4匹を釣り上げた。一方でエリカは、この悪者には負けられないと意固地になり、なんと10匹も釣り上げた。
小さな机に、木の皿が3つ。そこに、茶鱒の粉屋風が一尾ずつ置かれた。牛酪の奥深い香りと、檸檬茅などの香草の爽やかな香りが、小屋の中で踊っている。皿に乗ってもなお、ぱちぱちと弾ける皮の音が、エリカの食欲を駆り立てた。
「なんだこれ美味しすぎる……。こんなの初めて……」
エリカは蕩け落ちそうになる頬を押さえながら食べる。口の中で身がほろほろと崩れて、それで牛酪の甘みと鱒の脂の風味が広がった。なんて美味しいのだろう。
キャロルはエリカの食べる様子を微笑んで見て、チラリとウォルターの方にも目をやった。
ウォルターは切り身を口に運ぶと、腕を組んで、悔しそうに顔を顰める。
「……どこで手解きを受けた?」
「感想は美味いか美味くないかで言え」
ウォルターは視線を逸らして言う。
「美味い」
「それは結構」
キャロルは素っ気なく答える。
「お前は本当に何者だ。料理人なのか?」
「ポタージュ専門のな」
キャロルは嫌味を言って、筒状に丸められた一枚の犢皮紙を取り出す。薄い桃色に染められていて、大きさは一般的な書簡ほどである。これは会誌と呼ばれる紙で、近隣の冒険者組合が受けた依頼が纏められている。
「それはそうと、これを見ろ」
ウォルターは紙を受け取る。46件の依頼の内、大半が荷物運びと護衛。
「左下だ」
そこには『密儀についての調査依頼』とある。場所はラロッカという村らしい。
「密儀?」
「土着的な生贄の儀式だ。マール伯爵領東部では晴れ乞いをすると本で読んだ事がある。状況から考えるに、恐らくはその事だろう」
そう言ってキャロルは窓に目をやった。未だ雨はざあざあと降り続く。
「分かったぞ。お前は学者だな?」
キャロルは無視をして煙草に火をつけ、話を進める。
「内容を掻い摘んで話せば、こうだ。しばらく晴れ乞いを行っていなかった為か成功せず、その手段を間違えている可能性がある。一度、専門的な知識のある者に、この儀式が魔術的に正しいかどうかを確認して欲しい。報酬は今春獲った熊の臓物と10ドゥカート硬貨6000枚」
熊の臓物は薬の材料として高く売れる
「成功しない理由を探れと?」
「生贄の生娘が消失してしまうそうだ」
吸い口を叩いて灰を落とす。
「寄り道になるが、行こう。百獣軍の残党が関わっているかも知れない。そう思わないか?」
エリカが問う。
「あのー、この紙はどこから……?」
「ああ。梟だよ。実はそこで羽休めをしているから、腕を水平に出してみるといい」
言われた通りに腕を水平に持ち上げると、小屋の暗がりからバサバサと茶色い梟が飛んできて、その腕に止まった。首を傾げてエリカをじっと見ている。
この梟は冒険者組合の所有物で、伝書鳩のような働きをした。名称を会鴞と言う。街が近くに無い場合でもこれを呼べば、会誌を持って来てくれるのだった。
呼び方は簡単で、組合が販売する閃光弾を空に放てば、飛んで来てくれる。会誌に載る依頼を受けたい場合はそれを丸で囲み、自らの認定証の番号を書いて梟を放てば、それで受理されるのだった。
「可愛い」
エリカが鱒の皮を与えてやると、梟はホーホーと言いながらそれを啄んだ。それから顎を指で撫でてやると、梟は気持ちよさそうに目を閉じた。
□□
夜が明けて、小雨に変わった。キャロルらはこの程度ならば進めると判断し、小屋を出て馬に跨る。結局、小屋の持ち主は現れなかったので、ドゥカート硬貨が300枚入った袋を机の上に置いた。使用料のつもりだった。
馬上、エリカは梟を放つ。梟は小雨を弾きながら、会誌を持って鉛色の空に消えていった。
氾濫する川を避けつつ、川上へと向かう。途中、川に浸って流される集落があった。周囲に人気はなく、避難済みか、もしくは廃村だったか。とにかく壊滅した集落を2つ越えた先に、目的の農村ラロッカはあった。
辿り着く頃には小雨は滝のような大雨に変わっていた。周囲は烟って殆ど見えない。ゴオという川の音と、ガアという雨の音で、戛々と鳴るはずの蹄の音も聞こえない。土の臭いばかりで鼻も利かない。馬上に関わらず地に跳ねた水が顔にかかり、まるで上からも下からも雨が降るようであった。
村は静まり返っている。木造の家に囲まれた広場まで行くと、煙る中薄らと、家屋から老人が顔を出したのが見えた。
「組合の冒険者だ」
キャロルがそう言うと、老人は、おお、と声を上げながら近寄って来た。すぐに雨で濡れてしまったから自信は持てないが、エリカにはその顔が涙で濡れているように見えた。
□□
老人はこの村の長で、依頼を出した本人でもあった。キャロルらは家に通され、老人は事の次第を話した。
ラロッカでは生贄を使った『晴れ乞い』が行われている。ただし、ここ100年の間は豪雨に見舞われる事がなく、儀式は行われなかった。
だが今回の雨で川は氾濫。村の3分の1が流され、田畑に関しては殆どが消えた。このままでは壊滅すると思い、長は古来の慣習に倣って生贄の儀式を決行した。苦渋の決断だった。
キャロルは儀式の方法が記された水瓶の文字を読む。瓶は生贄の髪を、松の樹脂と共に入れておく物だったらしい。
エリカはそれを隣で覗き込んでいるが、何が書いてあるかがさっぱり分からない。知らない文字だった。
「何か変な所がありますか?」
「いや、典型的な生贄の儀だ。問題があるとは思えないが」
この村では儀を『嫁入』と呼称していた。
生贄は初潮前の少女に限られた。伝統的な花嫁衣装を着せた生贄を『雨粒』が住むとされる場所へ一人で行かせる。すると雨が止み、晴れの日が生まれるのだと言う。そうして緩やかになった川に、生贄の亡骸が流れてくるのだった。
亡骸を拾い、座棺に入れたら、男達が獲った鹿や山菜を供える。次の日の朝、村人全員で踊りをする事で儀式を終える。
しかし花嫁を向かわせても雨が止まない。川から花嫁も流れてこない。生贄は消失している。ついに一昨日の朝、3度目を失敗して今に至る。
花嫁の親たちは涙も枯れ果てた。愛しい娘のおかげで村が救われるなら、まだ良い。村と共に彼女の生きた証も残る。だが雨が止まないなら、無駄に命を失っただけではないか。
そうして絶望し、自ら命を断とうとした母がいた。苦蓬の毒を飲んだのだ。その事に隣人が気がついて、何とか一命を取り留めたものの、毒で精神が曖昧となった。今もこうして長の家で、目を見開いたまま涎を垂れ流し、言葉にならない声を発しながら、ふよふよと空を掻くように腕を動かして床に伏している。
その隣で6歳の娘が、泣きながら母の頭をさすってやっていた。彼女は籤で決められた一番最初の生贄候補だったが、4歳上の姉が『妹を嫁に行かせるわけにはいかない』として、立候補していたのだった。
(可哀想……)
エリカには、母を失う怖さと悲しさが痛いほど分かる。もし、これに百獣軍が関わっていると言うのなら、酷い。多くの人が不幸な目に遭っている。村だって流されてしまって、住んでいる人も行き場を失う。
きっと、雨粒の住処に百獣軍が潜んでいるのだ。それで、生贄が来たところを襲って、獅子侯とやらの元に届ける。──犯人はこう考えているのだろう。生贄だから消えてしまっても誰も不審がらない。良い標的を見つけた、と。
それでウォルターを睨め付けた時、彼は立ち上がって少女の側に腰を下ろした。そして笑みを浮かべて、優しく頭を撫でてやる。
「大丈夫だ。今からおっちゃんが原因を探って来てやる。だから、泣くな」
エリカは目をパチクリとさせた。一体これはどういうつもりか。
□□
雨の中。3人は雨粒の住処へと移動を始めた。足元を確認しながら、山沿いの坂道を登ってゆく。その途中、エリカは問うた。
「何であんな事を言ったんですか? 俺が探って来てやるだなんて……」
エリカには良くわからなかった。この男は悪者の癖して、どうして人を助けるような事を言ったのか。それに、百獣軍が任務を順調にこなしているなら、敢えて止める必要もないだろう。少なくとも、この男にとっては。
「まさか、百獣軍が関わってないとでも言いたいんですか?」
「分からん。だが、閣下は『魔法と武術に長ける女を集めよ』と命を出した。長の話を聞くに、生贄はただの小娘だ。生贄の消失にもし百獣軍が関わっていたとしたら軍律違反だ。厳罰に処する必要がある」
ウォルターはエリカを見て、続ける。
「今だけでも良い。武器を返せ。もし百獣軍が潜んでいたら俺が直々に打首にする」
エリカは答えあぐねて目を逸らし、キャロルを見て意見を仰いだ。
「良いだろう。百獣軍が潜んでいなくても、雨粒とやらと戦うことになるかも知れない。突っ立ってくれているよりは、役に立つ」
「雨粒と戦う……?」
エリカは首を傾げる。
「雨粒は魔物だよ。生贄には二つの例がある。一つは、人の血や臓物を魔術の素材とする場合。もう一つは魔物へのご機嫌伺い。今回の場合は後者で、魔術的な機序はない」
その魔物は何らかの方法で天候を操ることができ、娘を喰らえば満足して晴れにする。しばらく経って娘が食いたくなったら大雨を降らせる。つまり災害を振り翳し、自分の欲を満たしているのだ。雨粒さえ倒して仕舞えば、このような災害は起きずに済む。生贄も未来永劫、要さない。
エリカは口を尖らせて、持っていた蛮刀を見る。果たしてこれを返して良いものか。この悪者に。
「信用ないんだな」
ウォルターは少し笑って言う。
「あるわけないじゃないですか。襲って来たら舌を引き抜いて殺しますから」
エリカは刃を逆さにして、ウォルターの胸に押し当てるように渡した。
□□
雨粒の住処は、村から見えた岩崖の中腹、その洞窟にあった。入り口には楢で作った祭壇があり、普段は絶えず肉桂の香が焚かれているらしいが、今は長雨で火が消えている。
長の話によると、この地には『王の涙』という御伽話がある。
古代、この地にあった小国の老王が戦争に負け、洞窟に身を隠した。その王は逃げる際、貰い受けたばかりの幼い花嫁と逸れてしまっていた。政略結婚であるが故、初潮も迎えていない娘だったが、王はその不憫な嫁を愛していた。
王は洞窟に隠れている間、彼女の無事を祈り続けた。
そして、ついに荒ぶる敵兵が洞窟へ攻め込んできた時、敵兵達は人彘に仕立てた花嫁と、その四肢を槍に刺して掲げていたという。それ見て王は狂乱し、死んだ。その時に王が流した涙が、不思議な力で永遠の命を得て、雨となって全てを流してしまうのだ。
洞窟の入口、引いてきた馬を枯木に繋ぐ。松明に火をつけ、洞窟の中に入る。中は異常なまでに蒸していて、浴場のようだった。
入ってしばらく歩くと、腐った木の柵があった。それには様々な呪文と紋様が書かれており、原色に染められた色とりどりの紐と布がつけられ、垂らされている。
「ん?」
キャロルは怪訝な顔で、柵の扉に触れる。
「結界が張ってあったようだが、壊されてるな。しかも、かなり精巧な結界だ……」
そして黙る。
「キャロルさん?」
エリカが問うて、ようやく続きを話し出した。
「もしや、ここは聖地だったかな……。雨粒は『封印の獣』なのかも知れない」
キャロルは正教会が把握している聖地を参考に巡礼をしている。が、正教会とて全てを網羅している訳ではない。特にこの様な田舎で、その上、誰かが災厄を封印したという記録が残っていない場合、礼部聖省の調査役も判断しかねた。
「百年近く晴れ乞いを行っていなかった事を考えると──」
「それって封印が解かれてる、ってことじゃ」
エリカはゾッとした。まさか、また、風を食む雄牛のような魔物が現れるのか。
「少し用心しようか」
キャロルは煙草に火をつけ、何でもない風に扉を押し開けた。この先は、生贄しか入ることが出来ない。未知の領域だ。
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