生贄(前)
スレイローの街から漁村サハンまでは50哩(80㎞)の距離である。整備された街道ばかりを進むわけではないので、順調に進んでも一日17哩。馬に急がせて24哩進めば2日で到達するが、無理をせずに行くことにした。
キャロルらが街を発って半日と経った頃、急に空模様が変わった。昼間の青空は消えて、海のある西から暗雲が垂れ込め、それから程なくして大雨が降り始めた。
エリカはこれを驟雨と思ったが、雨はさらに激しくなって止む事が無い。
雨避けをしようにも近くに馬宿もなく、街に戻るには苦労する距離だったので、近くの森に入る事にした。そこに森小屋があったので、休息を取ることに決める。持ち主は知れないが、現れたら事情を話すつもりだった。中には棚があって薪が並べて置いてあり、簡素な椅子と机、油の入った燈があった。
さて、エリカには解せない事があった。それはやっぱりリトル・キャロルの事である。
エリカは、罪のない女性を騙し討ちしていたウォルターが憎い。耳飾りを投げ捨てられた事も恨んでいる。口なんか利きたくもない。だが、どうもキャロルは違うようだった。
まず、キャロルはウォルターの為に馬を用意してやっているし、飯も用意してやる。エリカから言わせてみれば、こんな奴は首に縄をつけて引きずって行けば良いし、飯などは黒麦粉でも舐めさせておいて、水も雨水で良い。
キャロルはウォルターに優しくするばかりか、身体強化の魔法について教えも乞う。今もこうして、キャロルは机に向かって術式を書き、ウォルターは燈で机を照らしてやりながら、壁に靠れてそれを見ているのだった。
「もっと効率的に魔力を力に変えたい。ただ、前回は破壊力が出過ぎた」
ウォルターはじっと、式を見ている。
「俺には無詠唱がわからん。だから見当違いかも知れないが……。俺は、こう習った」
そして、その式に計算式と矢印を書き加えた。
「ほー。ロングランドではこんな周りくどい式を作るのか……。卿はあの脚部の強化をどうやって作り出した?」
「試行錯誤だ。失敗を繰り返して良い形になっただけで、理屈はよく分かっていない。俺の術を書き起こせと言われても、実は出来ない」
「偶然の産物か……」
魔法の構造は座標や数式によって可視化する事ができ、それを術式と言った。余計な要素のない綺麗な式は、座標軸上で美しい幾何学的紋様を作るのが特徴だった。
これを簡素化すれば魔法陣となり、術式が『何を意味するものなのか』を言葉として表現すれば呪文となる。即ち、魔法における究極的な共通言語は座標であった。
しかし魔法に疎いエリカには、術式も二人の会話も何のことだかさっぱり分からない。この場にいると無学が苦しくなる。身体強化術はエリカの為のものだから、それ故に複雑な心境だった。
□□
その後も雨は勢いを弱める事なく1日中降り続いた。
翌朝、エリカは何とか先に進めないものかと、馬で道を駆けて様子を見に行ったものの、しばらく先で川が氾濫して道を塞いでいた。
他に道がないかと探してみたが、山沿いは崖崩れ。雨さえ止めば土砂を乗り越えて何とか進めようものの、肝心の雨が止まない。ついに、森小屋から動けぬまま4日が過ぎた。
そして5日目の朝。エリカが枝と葉だけで作った厩もどきで馬の体を磨いてやっている時、ウォルターが寄って来た。
「付き合え」
そう言って、釣竿を渡してくる。小屋に置いてあったものだった。
「へ?」
「只飯喰らいでは騎士としての面目が立たん。食料の一つくらいは取ろうと思ってな」
エリカはチラリと顔を見て、それからぷいっとそっぽを向いた。女を不意打ちしておいて、それでまだ騎士のつもりでいるとは。もうその資格を失っているとは思わないのか。全く恥ずかしい。馬鹿げている。
「……大雨が降ってますが」
「それが好機だろうに」
とりあえずウォルターはエリカを連れて行きたかった。と言うのも、掛かっている呪いの内『キャロルから離れてしばらく経つと死ぬ』というものは、立会人であるエリカに対しても効力がある。つまり、キャロルがいなくても、エリカが近くにいれば死ぬことはない。キャロルと一緒に行くのは少しおっかないから、エリカが必要なのだ。
エリカが無視をして馬を磨くのを再開しようとしていたら、キャロルが小屋の窓から気怠げに顔を出した。
「行って来たらどうだ。ここ数日、野菜と茸ばかりだったし」
その口には煙草が咥えられていて、吐き出す煙を雨粒が掻き乱している。
「でも……」
「どうせ武器もなく丸腰だ。魔法を使えば死ぬし、何か不審な動きをしたら遠慮なく殺していい。それでも逃げられたら無理せず戻ってこい。調伏する」
エリカは口を尖らせた。
「その間、私は炊事でもしておこう」
「ポタージュか?」
ウォルターが問う。
「ポタージュだ」
「ポタージュか……」
そして少しばかり肩を落として、釣竿を揺らしてしなりを確認した。その様子を見たキャロルは、不満そうに頬杖をつく。ポタージュしか作れないと思われたとしたら、心外だった。
「釣果次第では粉屋風にしてやるよ。王族が食うような、とびきり美味いやつだ」
「言ったな、リトル・キャロル」
キャロルは煙を輪にして吐き出す。
「二言はない」
二人は小屋から少々下った場所にある、小さな谷の沢に向かった。ここは所謂、枝沢であった。本流は雨のせいで激しく荒ぶるのに対し、枝沢は水量こそあるものの嘘のように静かだった。ウォルターが言うに、本流から逃げて来た魚がこうした場所に潜んでいる、らしい。
エリカは外套を頭から被り、苔むした大岩に立った。眼下、川に釣り糸を垂らす。ウォルターは大岩の隣、小さめの岩に腰掛けている。
「リトル・キャロルは何者だ? 茸に関してはそこらに生えているから分かるが、野菜は解せん。どこから仕入れてくるのか見当もつかん」
そう言って、ウォルターも釣り糸を垂らす。
「それに、回復魔法の腕は並じゃない。あれだけ砕かれた手を湿布一つで治した。薬師かと思ったが、魔法に詳しい上に格闘術も心得ている。ならやはり冒険者かと思うが、五等のまま更新しないのはおかしいだろう」
エリカはつーん、と無視を決め込んだ。と言うより、雨音で聞こえないふりをしている。こんな悪者と、あえて話をする必要はあるまい。
「とにかく普通じゃない。一体何者なのか……、っと」
ウォルターは早速1匹目を釣り上げた。茶鱒である。夏にはどこの地方でも良く釣れる。
エリカは目を丸くしてウォルターを見た。まだ糸を垂らして30秒と経っていないのに、もう釣ったか。
「安心しろ。別に詮索している訳じゃない。雑談のつもりだ」
再び糸を垂らしてすぐ、2匹目を釣り上げた。同じく茶鱒。
エリカは負けてられないと、糸を動かしてみる。が、針が引っかかって動かなくなってしまった。それを見て、ウォルターが軽い身のこなしで大岩に跳び乗り、エリカの元に寄る。
「さては大地を釣ったな」
そして釣竿の糸を噛み切り、新しく針を付け直してくれた。それでもエリカはつーん、と無視を決め込んでいる。
「魚釣りの経験はないのか。貴族の嗜みだぞ。この国では違うのか?」
エリカは無視を続けるつもりだったが、貴族である事を言い当てられ、ハッとしてウォルターを見てしまった。
「分からないとでも思ったか。俺も元は貴族だ。立場上いろんな身分の人間と接してきたから、所作を見れば分かる」
なんだか偉そうなので、ふくれる。言い当てられたのも悔しかった。
「とにかく魚を釣りたければ、もっと魚が喰らい付きたくなるように針と餌を動かせ。葉から落ちて水中で悶える虫のように、だ」
指図されたので、さらにむすっとした。が、大人しく針を垂らす。エリカは心根が素直なので、言われた通りに針を動かした。
「上手いぞ」
竿が弛んだ。思いっきり竿を引き上げると、茶鱒が釣れた。
「筋がいい。が、俺の娘には及ばないな」
(……子供がいるんだ)
エリカはそれを知って、ウォルターもただの獣物ではなく、人であるということを理解した。が、それと同時に、怒りの感情が沸いた。そしてシャーロットの顔が思い浮かぶ。
「──娘さんがいるのに、なんであんな酷いことが出来るんですか?」
ウォルターは硬い表情で答える。
「獅子侯閣下の命だからだ」
エリカは強く竿を握る。命だから? 人のせいにするのか。
「……それは、理由にならないと思います」
静かに言い放ち、二匹目を釣り上げた。
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