夢(後)
「夢……?」
問うと、ターナーはその部分を指し示した。飾り部分、金の装飾。私には読めない文字が連なっている部分の最下部だ。
「『世が円の姿に蘇る事を夢として望む』」
「……円とは、平和になるという意味か?」
いや、違うな。その前、41篇に『太平成る』と書かれているから、そうではない。
「ここからはあくまで私個人の考察として聞いて欲しい。……リュカが生きた時代よりもっと前、それこそ瘴気が生まれる前、恐らく、世界は円の姿をしていたのだと思う」
世界が円? となると──。
「球の形で地平が繋がっていた、ということか? 歩いて歩いて歩き続ければ、同じ場所に戻ると……?」
ターナーは頷き、理屈で言えばそうだと言ったから、私は首をひねる。
「あまりピンと来ないな」
「正直な話、私も想像がつかない。だが、リュカは聖女達にその夢を託した。これは奇形として生まれ、何も良い事が無かった少女が、痛々しいほど切実に思い描いた夢なんだ」
ターナーの目に、少しの輝きが戻っているような気がした。この男の信仰心の根底の部分には、悲劇の少女だったリュカに対する、一種の恋慕のような感情もあるのかも知れない。
聞いていたリアンが、口を開く。
「僕も……、僕もそれを見てみたい。瘴気が無くなって、世界が円になるところを……」
辺境伯もそれに乗じる。
「そうじゃな。面白いじゃないか。確かに、今を生きるのに必死で、瘴気の無い世界に思いを馳せたことはなかったかな……」
辺境伯に言われて、気がつく。
私も今ここに在る事しか考えてこなかった。もちろん瘴気に飲まれた故郷のことは考えたが、世界全体、瘴気が無くなった後の事など、考えたこともなかった。
一体、瘴気のない世界には何があるのだろうか。瘴気がなくなった後に残るものは何だろうか。山はあるだろうか。原はあるか。海はあるか。街は残っているか。森や花畑などの自然はあるのか。それとも、全てが砂と塵になっているか。世界が円であるという事以上に、想像がつかない。
エリカは私を見て、言う。
「私、世界をぐるっと一周してみたいです! キャロルさんと一緒に!」
きらきらと輝く赤い瞳に、私の姿が見えた。
「……そうだな。分かった。分かったよ、エリカ」
私は私の意思で、リュカの夢に乗ってやる事にした。世界を円にするという、無謀とも馬鹿らしいとも思えるその突拍子のない夢は、まあ、中々に感覚の良い夢だと思う。
「いつになるかは分からないが、瘴気を無くそう。光の聖女として出来る限りをやってみるよ」
それに……。たとえ、瘴気の外の世界が砂しかなくても、荒地が永遠と続くだけの地でも。その時きっと私は、この子と歩くのを楽しむだろう。
「キャロルさん!」
エリカは満面の笑みを作って、私の手をきゅっと握ってきた。やれやれ、全く恥ずかしいし、照れくさい。これに、どう反応したら良いのか。私も握り返せばいいのか? 想像しただけでも汗が出る。ええい、言わなきゃ良かった。
「あー、それで……。私は光の聖女として、どうしたら良い? 一度、学園に戻るべきか?」
一時的な照れを隠すために問う。
「いや、旅を続けてくれ」
これに対し、ターナーは即答だった。
「……のう、ジャック・ターナーよ。それはさっき言ってた、ヴィルヘルム・マーシャルの件と関係しているのか?」
辺境伯の問いに、ターナーは頷き答える。
「今、クリストフ五世は捕えられています。そして正教軍大元帥ヴィルヘルムは、自らを教皇だと名乗り始めている」
そうか。崖崩れにあった商人達からクリストフ5世は査問にかけられて退陣したと聞かされていたが、その後は捕えられたか。
「彼は神となり、この世界の頂点に君臨するのが目的です」
エリカが目を見開き、言う。
「えっ⁉︎ そんな事が可能なんですか⁉︎」
冗談みたいな話だが、決して不可能ではない。彼は正教会の頂点なのだから、自らが神であるとして教えを広めれば、それに従う者も出てくる。
特にヴィルヘルムは聖女4人を見定めた者だ。聖女は神により選ばれ、その力を与えられる。そういう教えがあるから、彼は神の資格を得ている。これは例えばだが、人民の前に立ち、『旧世代の神リュカ』の意思を引き継いだ新たなる神であると名乗れば、それ相応の効果がある。
それに、ヴィルヘルムも一人の力ではその地位に座れない。つまり、私が想像するより遥かに味方は多いと言う事だ。それだけ長い期間、彼は準備を進めてきたのだろう。
なんにせよ、名乗って仕舞えば、正直、あとはどうとでもなる。学の無い人間は容易に騙される。もちろん黙ってはいない勢力も多いだろうが、反発する者の対処は簡単だ。
人は恐怖によって統一される動物だ。そして軍にはそれを可能とする、統一する力がある。真に神となるまで、力で制すれば良い。その間、多くの人が死ぬ事が予想されるが。
ターナーも同じ見解だったようで、こう言う。
「大きな動乱があるだろうが、可能と言えば可能だ」
「何とかして、その人をやっつけられないんですか……?」
「それは危険だ。正教軍は一丸となってヴィルヘルムを神にしようとしている。誰かがヴィルヘルムを倒したとしても、その死が神秘を高め、『神殺し』が成立する可能性もある。また、中途半端に戦うのも良くない。反抗勢力を人類の敵に仕立て上げられると、それまで。人民は一つの敵を前にして、より結束するだけだ」
「それって……。そんなの、無敵じゃないですか……」
と言うよりも、無敵の状態にしてから行動を移した、と言った方が正しい。
「ヴィルヘルムにとって最も邪魔な存在は、光の聖女リトル・キャロル。君だ」
「だろうな」
私は煙草の吸い口を指で弾き、灰を皿に落とす。
「正教軍は君を葬る為に、あらゆる手を尽くすだろう。君を聖女とは認めず、女神像を腐らせたのは人類の敵だからだ、とするかも知れない」
「ちょ、ちょっと待ってください。その、ヴィルヘルムって人も原典を読めば、ちゃんと分かってくれるんじゃ……」
エリカが焦ったように言うので、制止する。
「ヴィルヘルムはもう原典を手にしているんだよ、エリカ。クリストフ五世を捕らえた時点で」
「あっ……」
前にコスタス卿に会った時、正教会は私の力を調べていると教えてくれた。恐らくその頃にヴィルヘルムは原典を手にした。そこで大方を理解し、動き始めていたのだろう。
ターナーは煙草を揉み消して、言う。
「たとえ光の聖女でも、大きな濁流の前には無力だ。歴史の流れは民の波を生み、民の波は濁流となって正しさも過ちも飲み、新しい正を生む。正教会が君を敵と定め、君が真っ向から立ち向かえば、血で血を洗う戦いになりかねない」
「血溜まりの中、最後に立っているのは私だとも限らない。そうだろう」
「そうだ。神殺しに抗うのは、今ではない。故に、神はキャロルを追放させた」
「だから、お前の理屈で言うと……、旅を続けろ……、か」
「どのみち、聖女はまだ瘴気を祓う力を養っていない、と私は考える。力が整うまで旅を続け、君に従う者を増やすんだ」
そう言ってターナーは一つの本を差し出す。前半部分には聖女に関する記述がなされ、後半部分は白紙だ。マリアベルと行動を共にし、分かった内容が書かれているようだった。
この書を読むに、聖女は未だ成長途上。力が整えば『精霊を擬人化した状態』に近い存在になるのではないか、と記されている。つまり魔力を人から集め、その力を人々に分け与えるし、自分で行使もする無二の存在だ。やがてマリアベルは海霊にもなるだろう、とある。
「これを君に完成させてほしい」
「聖女が何たるかを見届けろ、と?」
「そうだ」
それについては、良く分かった。だが──。
「──ジャック・ターナー。これを託して、お前はどうする。そのまま死ぬのか」
この男はクリストフ五世の養子。ヴィルヘルムにとって、私と同様に邪魔者だ。
「罪を償うつもりだ」
「罪? 生命の力だと気がつかなかったのは神の意思ではないのか? お前に罪はないのだろう?」
私はターナーの理屈に合わせてやったつもりだが、ターナーはふんと笑って、こう言った。
「それでは、納得がいかない」
「冗談じゃない。私の真似をするな」
「罪はそれだけじゃないんだ。1つ、神が力を授けた海聖を信じられず、密告した。2つ、実は学園が君を追放処分とするにあたり、儀式に出席した者全員に可否の決が取られたが、特異体質と決断付け可に署名した。3つ、腐食の力を生命の力と気がつけなかった。私はもう十分過ぎるくらい神を裏切ったんだよ、リトル・キャロル」
おそらく、私とこの男は決して交わる事がない。だが、どうしてもその狂った琥珀の目に魅力を感じる。この世界にとって必要な存在だと、私の細胞が叫んでいる。
「私は、お前が死ぬのが惜しい。どうにかして逃すことも出来ると思うが」
ターナーは首を横に振る。
私は辺境伯を見た。彼を正教会に引き渡す義務があるのは、この場合、辺境伯だから。
「ワシもそうしてやりたいのは山々だがな。本人がこうでは、難しい」
「だが……」
──その時だった。
小さく、歌が聞こえた気がした。天から、旋律が降りてきたのだ。
私は上を見る。見えるのは吊り燭台と、油染みのある天井の板だけだ。
「キャロルさん……?」
エリカが不思議そうに私を見る。
「いや、何でもない……」
歌は消えた。だが、耳にはこびり付いている。聞き覚えのない旋律だが、それなのに何故か懐かしいような気がした。そして、歌は『案ずるな』と、そう言っているような気がした。
まさか、神か。いや、そんなことは……。
「ふう……」
私は眉間を親指で押し、溜息をつく。疲れているのだ、と思う事にした。そしてターナーを見て、十字を切る。
「──神のご加護が在らん事を」
ターナーは少し笑って、十字を切り返した。
「行くか、エリカ」
「え? もうですか?」
これ以上話すこともないだろう。それに、地下墓地にいた正教軍が私の存在を教皇に報告した可能性もある。長居するのは危険だ。
「待て、キャロル。これも持っていけ。君が光の聖女だと証明するものだ」
ターナーが渡してきたのは、首飾り状の原典だった。
「恐らく、今後それが唯一の証明になる」
私は頷いた。つまり、近いうちに原典は新たなる正教会によって書き換えられる可能性がある、と言いたいらしい。
■■
深夜、牢獄を出立する。見送りに、辺境伯とリアンが裏口の庭園まで来てくれた。
星空を見上げ、方角を確認する。月は出ている。風が北東から吹いている。地上、胸の原典は、星の瞬きを映す。
辺境伯が髭をさすりながら言う。
「それにしても、まさか我が領から光の聖女に仕える人間が出るとはなあ。邪竜を倒した暁には只者では収まらんぞとは思っておったが、さすがにそれは想像もしてなかった。よく働けよ、エリカ・フォルダン」
仕えるなんてやめてくれ。こっちとしては、そんなつもりはない。
「はい。辺境伯さま、私……」
エリカは涙を堪えて、俯く。
「なあに。二度と戻って来ん訳でもなかろう。多少の別れは人生の華よ。ま、問題は里帰りまでにワシがぽっくり逝ってないかだけだな」
そう言って辺境伯は耳の穴に小指を突っ込んだ。最後まで飄々とした爺な事だ。これは当分死なんだろう。
「で、お前さんはどうするね。リトル・キャロルを見る目が少々違っておるようだが?」
「えっ!」
リアンは赤面した。私は面倒な話になると思い、煙草に火をつける事にした。
「……こんなんでも王子の一人だから、僕が着いて行ったら悪目立ちする」
辺境伯が『ほ〜ん』とでも言うような顔で、私とリアンを見比べている。
「でも、僕はキャロルの役に立ちたい。離れていても出来る事はなんでもする」
「やめとけ、立場が悪くなるぞ」
「構わない。キャロルがこの世界を変えるのを、僕は信じているから」
リアンはこういう男だ。あんまり自分のことを大事にしない癖のようなものがある。きっと、己の事が好きではないのだろう。それは私が学園にいた頃から変わっていないし、その気持ちも分かる。
「リアン。そしたら、約束だ」
「約束……?」
「次に会うときは、自分で自分を誇れるような、そんなリアンでいてくれ。私も、そうしてみる」
リアンは目を見開き、少し経って、頬を緩ませて女の子のように笑った。
「ありがとう、キャロル」
■■
牢獄の敷地を出て、ウィンフィールドの街へと向かう。長い石畳の道、杉の並木は静かに立つ。
「まずはどちらを目指すんですか?」
「適当に行こう。向かい風があまり好きでないから、常に追い風を受けていたいと思う。だから、街から出たら南だ」
さてと……。牢獄から十分離れたかな。もうこんな所で良いだろう。
「エリカ」
「はい?」
「少し話をしなきゃならない相手がいる。先に行って、馬車を捕まえておいてくれ。もしかしたら、街にまだトムソンがいるかも知れない」
エリカはすぐに察して、頷いた。そのまま私に背を向けて、街の方へと向かっていく。
それが遠くなるのを見届けてから振り返ると、後ろに立っていたのは良く知る顔だった。月の明かりを受けて青白く輝く長い髪は、風に揺れて星雲の輝きを模す。
「久しぶりだな、マリアベル。もう動けるのか?」
マリアベルは無表情で私を見ている。
私は彼女と沢山の時間を過ごした。だから、分かる。彼女が表情を出さない時は、意図的にそうしている時だ。つまり、腹の中で思うことがある時は、決まって無表情になる。とすると恐らくは、私の事を光の聖女だと気がついている。
「無視か、マリアベル」
「どうして殴らなかったの?」
私が学園から出て行った時に、顔に一発くれてやると凄んだ事を言っているんだろう。
「……確かに、あの時は殴ってやりたいくらい腹が立った。全てのことが下らなく感じた。でも、マリアベルの顔を見たら殴る気にならなかった」
「──やめてよッ‼︎」
悲鳴に近いような叫びだった。
「私のこと軽蔑してるくせに、やめてよ……‼︎」
「……してないよ」
マリアベルは顔を引き攣らせて、微妙に笑いながら言う。
「嘘ばっかり言わないでよ……。キャロルちゃんはずっと嘘ばっかりついてる……。私だけじゃないよね……? 表面上の付き合いだったのは、キャロルちゃんもだったよね? 何で自分だけ、今更良い顔しようとするの……?」
「マリアベル……」
近づこうとすると、マリアベルが一歩退いた。
「キャロルちゃんは、私に初めて会った時から軽蔑してた」
そして、マリアベルは腰の石剣に、手を添えた。
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