マリアベル・デミ(後)
マリアベルが14歳の時。
大好きだった千の丘は魔物や人間の血で赤く染まった。
魔物たちの酸や毒素で、橄欖の木や橙の木は溶かされた。
海は灰色に濁り、風は温く腐った。
「どうして? 私たちは、何かしたの……?」
先に瘴気の手が伸びたのはモラン子爵領であった。モランの兵たちは悉く敗れ、土地は強力な魔物で溢れた。領民は無惨にも殺された。いつもの如くエドワードに助けを求めたが、それでも間に合わなかった。
この状況を受けて、モラン卿は苛立った。苛立ったと言っても、彼にとって人々が襲われる状況は、そこまで重要ではなかった。だが、贅を尽くした歌劇場や大庭園が破壊されるのは嫌だった。自らの趣味を詰め込んだ、大事な大事な結晶だ。それを失うなど、我慢ならない。
──そこでモラン卿が取った行動は、魔物達をサウスダナン子爵領に流すことだった。
魔物の大半は、血の匂いに誘われる。死にかけの人間を喰らおうとするからだ。その特性を活かし、か弱い女子供を半殺しにして、領と領の境に置いたのだった。瀕死の女子供が杭に括られてずらりと横に並ぶ様は、まさに地獄の光景であった。
かくしてモラン卿の作戦は成功し、魔物たちはサウスダナン領へと雪崩れ込んだ。
「モラン卿は何がしたいの……?」
この10年近く、エドワードは自領のみならず、モラン子爵領の為に戦ってきた。それだけではなく、防衛策まで提案した。それも全て、隣領の不憫な民達、そしてモラン卿が苦労しているだろうと思ってのことだった。それにも関わらず、この仕打ちはあんまりだ。
「今、旦那様が何とかしようとしてくれています。ですから……」
エスメラルダが宥める。だが、その声はマリアベルに届かなかった。
「どうしてこんなことするの? なんで、彼らの為に戦ってきて、考えてあげて、補ってあげたのに、こんな風にされなきゃならないの……?」
そこからは早かった。5日と経たぬ内に、サウスダナン子爵領は瘴気に飲まれ、街一つといくつかの農地、集落を残すのみとなった。
領主エドワードは最早どうにもならないと察し、最後まで付き添った側近達や農民に私財を分配して、良きようにしてくれる領へと逃した。
「お嬢様、どうかお元気で」
マリアベルは、長年女中を務めていたエスメラルダとも別れる事となった。エスメラルダはマリアベルが物心ついた頃から共にいた、言わば母親役だった存在。我儘が過ぎた時も、悪戯をした時も、いつも笑って許してくれた。苦楽を共にしてきた。
「必ず、必ず、神が良いようにしてくださいます。こんな終わりはあんまりですから、神が良いようにしてくださいます」
最後に抱きついたとき、マリアベルはエスメラルダの温もりに涙を流した。母というものがあれば、こういうものだったのだろう、と思った。
その後、残った領地は隣領のリューデン公爵領と合併。サウスダナン子爵領は完全に消滅した。ほどなくして、モラン子爵領も合併し、消滅した。
□□
エドワードはマリアベルを連れて、隣領のリューデン公爵領に行くことになった。騎士として近臣となる約束になっていたのだが、それはあまりにも簡単に裏切られた。
自ら呼んだはずの公爵はその地位を与えなかったのである。理由は、サウスダナン子爵領が陥落して魔物が押し寄せるのだから、責任をもって対処するのが先であるとした事からだった。したがって、エドワード・デミは一兵の身に落とされた。
「約束と違う……! なんでお父様がこんな目に……!」
マリアベルは兵舎でエドワードに問うが、父は黙々と装備を整えるばかりで何も言わない。獣人の軍勢が、旧サウスダナンとの境にあった砦に攻めてきているのだ。いち早く撃退しなくては、リューデン公爵領で暮らす人達に危険が生じる。それはエドワードにとって耐え難い。
「それが私の務めだからだ」
また、エドワードが率いる兵は、老人や子供ばかりであった。どれも元難民で、公爵が押し付けたものだった。自分が真っ当な指揮を取らねば、不憫な彼らをも死なせてしまう。
「違う! お父様は子爵です! こんな、こんな風な扱いをされる謂れはありません……‼︎」
「マリアベル。私に領主としての才能はなかった」
「え……?」
「私は元々兵隊だ。この国の為に出来ることは、これなんだ」
──そんな事はない。
父の作る世界は、幸福に満ちていた。農民達も、商人達も、エスメラルダも、将も、子爵領に生まれて良かったと言っていた。多くの人に認められていたのだ。お願いだから、才能が無いだなんて、そんな悲しい事を言わないで欲しい。──己の憧れを否定しないでほしい。
マリアベルが目に涙を溜めるのを見て、エドワードはいつものように頭を撫でてやった。
「いいか、マリアベル。後悔などしていない。私は剣で国王に認められたのだ。ならば国のために、それを振るおう」
□□
マリアベルは教会で働くことにした。父を側で支えたいと思っていたが、公爵領では兵として女が前線に立つことを許されていなかった。
教会での仕事は、掃除に炊事、洗濯と、多岐に渡った。リューデン公爵領でも田舎街の教会だからか、ここでは新参者に辛く当たる風習があるようで、若いマリアベルは苦労した。
それでも弱音を一つも吐かずに耐えられていたのは、全て父を助けたいという一心からだった。父は死に物狂いで働いたが、大した給金を与えられていない。なので自分が働けば、少しは良いものを食べられて、力を蓄えられるはずだと、そう思って健気に耐えた。
3日働けば燻肉や腸詰めが買え、1節働けばエールを樽で買えた。少ないかもしれないが、それでも父の助けにはなる。
□□
マリアベルが炊事の当番をしている時、ふいに声が聞こえた。勝手口の裏で、修道女が立ち話をしていたのだ。
「聞いた? モラン卿の話」
マリアベルは野菜を切る手を止めて、聞き入る。
「聞いたわ。──公爵様の騎士になられたようね」
耳を疑った。
馬鹿な。そんな事があるはずがない。なぜ、周りに迷惑をかけるばかりだったモランが。なぜ、領民を虐げ、自分の贅沢に一生懸命だったモランが騎士となれるのか。
あり得ない。あり得てはならない。
「周りの人に媚を売ってたからねぇ。お仲間作って外堀を固めたんじゃ、どうにもならないわよねぇ」
「早速、豪華なお屋敷を作ったみたいよ。何で、あんな人が……」
「まあ、領主時代は魔物を撃退したり、内乱治めたりしたものねえ。一応は認められているって事なのかしら」
──違う。
それは父がやったのだ。モラン卿は何もやっていない。
「もともと騎士になる筈だった人を押し退けたみたいだしねえ」
「サウスダナン卿よね。まあ……、仕方ないわね。寡黙な方で、横のつながりも薄かったみたいだし……」
「あと財力も違うわ。モラン卿、ばら撒いてるみたいよ」
「教会に少しでもお恵みくださると良いのだけれど」
──悔しかった。ポタポタと涙が溢れて出た。
結局は、それではないか。父がどれだけ人格者であろうと、どれだけ能力があろうと、どれだけ強かろうと、どれだけ努力をしようと、結局はそれではないか。横の繋がりとやらで、何の努力もしていない無能で浅はかな人間が、支配層に君臨する。ならば兵の身からの成り上がりで、初めから横のつながりの薄い父は、どうしたら良いというのか。
悔しくて悔しくてしようがなく、石鹸で荒れた手でナイフを握りしめ、ポロポロと涙を流すことしか出来なかった。
□□
その翌日の事だった。大寒の節、暁月。寒空の下、湿る風に粉雪が舞う。それは何の前触れもなく訪れた。
午前10時。その一団は、燻した香の薫りと絹のような紫煙を雪に溶け込ませながら、リューデン公爵領に足を踏み入れた。兵達は白く輝く甲冑を揺らし、燦々とした赤い聖鳥章を掲げ、小さな街の中央を行く。
異様な集団だった。庶民たちは道を避けて頭を下げ、しばらく上げられなかった。その一団の佇まいに粛然たる畏怖を感じていたからである。
前を行くのは白髪の男で、年は50か60か。大層な甲冑を身につけて、左手には杖を持ち、その杖を左右に動かして足元を気にしながら前を行く。目には深い傷があり、瞼を閉じている。盲だった。畏怖の正体はこの男なのだと気づいた者は、庶民の中に混じる元軍人や元冒険者などに限られていた。
──正教軍大元帥『ヴィルヘルム・マーシャル』の巡礼である。
ヴィルヘルムは教会に、街にいる15歳未満の処女を全て集めさせた。聖女の選定を始めるのだと言う。
教会に出入りしていたマリアベルは、第一陣として選定を受ける事になった。マリアベルにとっては何が何だか分からなかったが、とにかく従うしかなかった。他の娘と同じく一斉に横に並び、大元帥が目の前に立つのを待つ。
大元帥は聖水を乙女の頭に振りかけ、黙る。その後、何事もなく隣の乙女の前に立ち、再び聖水を振りかけるのを繰り返す。乙女の前に立っているのは、およそ20秒ほどだった。
その間、マリアベルは震えていた。この盲の男の周りが、陽炎のように常にぐにゃぐにゃと歪んで見えたからだ。それが何によるものなのか、見当もつかなかった。とにかく、恐れた。
ヴィルヘルムはついにマリアベルの前に立った。それで、きゅっと目を瞑る。聖水を振りかけられ、ひやりとしたものが首筋を伝った。この感覚は、冬には辛かった。
──帰りたい。
そう思った時、臍の下辺りに妙な温かみを覚えた。今まで感じたことのない力だった。次いで、脈打つのと同時に、まるで太鼓の響きのような振動が全身を駆け巡った。それがあってから、血の流れる音がざあざあと漣のように聞こえてきた。
マリアベルをそろりと目を開けて、気がつく。盲のヴィルヘルムは目を開けて、既にこちらを見ている。男の潰れた瞳は膿んで白く濁っている。眼球とするべきか悩ましいほどにグロテスクなそれは、15歳の少女を恐怖させるのに十分過ぎた。
ヴィルヘルムは何も言わず、右手に持っていた小さな鈴を鳴らした。ここに聖女がいたのだ。
□□
マリアベルが聖女だったという報は瞬く間に国中に広がった。多くの人が祝いの言葉を口にし、誰もが聖女に近づこうとした。
「凄いぞ、マリアベル。お前は特別だと思ってはいたが……、聖女だったのだな」
エドワードはいつものように優しく頭を撫でてやった。
「……」
当の本人は、嬉しくはなかった。まだ聖女というものがよく分かっていないのと、多くの人に喜んで貰ったにも関わらず、デミ家の待遇が何一つとして変わらなかったからだ。
今日も父は、公爵領を守る為に魔物との戦いに出る。日に日に、体の傷は増えていた。
マリアベルが聖女だとされてから5日後。聖女の誕生を祝す、ささやかな式典が街の教会で行われた。祈りに始まり、少しの食事をし、祈りに終わる。街が主催するものであった為に領外からの来賓こそいなかったが、公爵領の騎士は数人参加した。その中に、モラン卿の姿もあった。
「おめでとう、おめでとう。今日は素晴らしい日だ」
式が滞りなく終わって、モラン卿はマリアベル親子に近づいた。マリアベルが彼の姿を見たのは、初めてのことだった。
思っていたよりも、若い。第一印象はこれだった。
下品に巻いた金髪に、嘘のような高い鼻と青い瞳。貼り付けたような塩気のある薄ら笑い。金と銀の糸で飾られたローブ。鼻を突くような香水の匂い。全てが教会という神聖な場に相応しくないように思えた。
「実にめでたい。君のような没落貴族でも、神は見離さないのだよ」
モランは馴れ馴れしくエドワードの肩を抱いた。娘には目もくれていない。
マリアベルは父の隣で、ぎりと歯を食いしばった。なんて忌々しい言い草。この男のせいで没落したと言うのに。握った拳、爪が肉に食い込み血が滲んでいたが、それには気づかない。
「ありがとうございます」
頭を下げる父を見たくなくて、目を伏せる。
「私は考えたんだがね、彼女を私の婚約者とするのはどうかね? うん?」
マリアベルは硬直した。この男は一体何を言っているのか。
「君にとっても悪い話ではあるまい。うん?」
エドワードは何も言わない。言葉を探している。はっきりしない態度に腹が立ったのか、手放しで喜んでもらえると思っていたのが裏切られたのか、モラン卿は声を荒げ始めた。
「言っている意味がわからんのか。地に堕ちた貴様を救ってやると言っているのだ! 恥を忍んで、聖女とかいう迷信に付き合ってやると言うのに! 感謝をしないか!」
この時はまだ、聖女という存在が本当にあるのかどうかは誰にも分からなかった。信仰心の薄いモラン卿は聖女などは戯言であると、この祝典などは全く面白くもない面倒なものだと、そう決めつけていた。
「頭を下げんか! 痴れ者め! 貰ってやると言っているのだ、喜べ!」
祈りに参加していた貴族達が、3人を見ている。嫌な顔をする人はいても、止めに入る者はいない。モラン卿は公爵を取り込んでいるようだから、あまり関わりたくないのだ。意見すれば、自分の立場が怪しくなる。
だがマリアベルは、我慢の限界だった。肩で息をしながら、言う。
「──揺蕩う水の美よ。刻に岩を砕きしその清流よ……」
詠唱。水の剣。
父を侮辱するこの男を許せなかった。誰よりも痴れ者であるこの男を許せなかった。この時、マリアベルは生まれて初めて人間に対して暴力を振るおうとした。
「……ひっ!」
マリアベルの掌に何処からともなく水が集まるのを見て、モラン卿は身を縮こめて、顔の前に手をやり、身構える。その上、情けなく震える。
しかし、エドワードは水の剣が仕上がる前に、マリアベルの腕を掴んで魔法を止めた。
「マリアベル」
ざばり、と水が床に落ちた。静寂が訪れる。
「……何の真似だ‼︎ クソッ‼︎ 教育がなってないぞ‼︎ 外道がッ‼︎」
その静寂を破ったのは、頬を叩く音だった。モラン卿がエドワードの顔面を打ったのだ。次いで腹を蹴り飛ばした。エドワードは倒れ込む。
「いいかッ‼︎ この娘は俺の者にするッ‼︎ お前に拒否権はないッ‼︎ クソがッ‼︎ クソがッ‼︎」
そう言いながら、何度もエドワードを踏みつけた。見ている者の誰もが止めようともしなかったし、何も言わなかった。関わりたくないと、目を背けた。
父の虐げられる様をじっと見ていたのは、マリアベルただ一人だった。
□□
マリアベルは兵舎でエドワードの治療をした。水の力を使った回復魔法は、すぐに傷を癒した。
あの男は本気で拳を振るい、蹴りを喰らわせたが、エドワードには大した傷を負わせる事は出来なかった。それほどに、非力な男だった。
「私は……」
マリアベルは、ぽつりぽつりと話し出す。
「……私は、聖女として必ず、大成してみせます」
マリアベルは、教会で悟った。父は報われず、痴れ者のモラン卿が幅を利かせている事実を目の当たりにして、強く悟った。
所詮、周りを良いように振り回して我儘をした者が得をする。恥知らずで、人を頼り、甘え、罪悪感を抱くことなく、あたかもそれが当然のように振る舞い、あまつさえ自分の手柄にし、人を蹴落とし、大した志もなく、自分だけがいい思いをすれば良いとして、楽をした者が成功する。
父のように人道を重んじて、弱者を助け、寄り添ったところで、何の意味もない。弱者は弱者。感謝こそすれ、何もしてくれない。モラン卿のような恥知らずに足元を見られて、掬われて、利用され、馬鹿にされ、それで終わる。
父は、自分を大切にせず、身分の低い人間などにかまっているから失敗した。それでは意味がない。自分が不幸になるだけだ。
自分の幸福だけを考えた者だけが、幸せになる事が出来る。その者が勘違い甚だしくても、恥知らずでも、それで良い。他人を蹴落としても、嫌われようとも、結果的に得るものを得られる。成功する。
不誠実が得をし、誠実は足蹴にされる。世界は、そうやってできている。その真実を誰が否定することが出来よう。
「どんな行動を取ろうと……、必ず、必ず……」
エドワードは娘の話を黙って聞いている。
「光の聖女として認められれば、きっと……、報われる……」
そして、マリアベルの掌に血が滲んでいるのに気がつく。
「私は、お父様のようには、ならない」
エドワードはいつものように頭を撫でてやった。
「マリアベル、私は……」
娘の考えを否定してやりたいと思った。だが、その言葉が出てこなかった。
「──お父様は、上に立つ者として才能がなかったのかもしれません」
マリアベルはつい、言いたくもない事を言った。それで急いで、父の顔を見る。父の目からは涙が溢れていた。初めて見る父の涙だった。
その涙の意味を理解すると自身の決意が揺らぐと思い、マリアベルは考えるのをやめた。
□□
時は経ち、聖女となって初めてとなる、国王アルベルト二世との謁見。
「──畏れながら、私とデミ家に相応の地位をお約束くださいますよう、お願い申し上げます」
静かなる部屋に、マリアベルの堂々たる声が響いた。
「出来ることがあるなら、何でも協力しよう……。うむ。何でも、協力する……」
王はただ優しく笑って、そう答えた。その笑顔に、憂いはなかった。ただ、子供の我儘を聞く大人のような、生暖かくて、あまり味のない、素朴な笑顔。
──ああ。この人はエドワード・デミを忘れている。爵位を与えた男がどうなったかを知らない。
そして、マリアベル・デミという悪女は完成した。
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