三つの難所
読み切りの短編です。
第四章序盤、リトル・キャロルが大白亜を下山してからリューデン公爵領に到着するまでの間、一人旅の最中のエピソードです。(「ep.131 間話:病」の後)
最後にお知らせがありますので、宜しくお願いします。
茄参という植物がある。文献によっては魔物だと決めつけて書かれているものもあるが、リトル・キャロルは植物の枠を出ないだろうと考える。
葉は大きく、概して青々とし、形は莧に似ている。楕円形で、それが放射状に広がるのが特徴だった。葉を傷つけると汁が出て、蕪を腐らせたような臭いがする。最もたる特徴は根である。赤褐色或いは土色をしていて、先端が二股に分かれて脚のようになっている。根の上部には人面を模ったような窪みがあり、個体差はあるものの総じて人に酷似していた。羊の胎児のようだとする文献もある。夜になると独りでに地中から抜け出し徘徊するとも言われ、それを題材にした民話や伝説も各地に残る。
地方によっては恋茄子とも呼ばれた。古来より茄参は媚薬の主たる薬材として知られていて、願いを込めて意中の相手にそれを飲ませれば、忽ち惚れる。文学は勿論、歴史書に於いても茄参の媚薬は度々登場し、中には眉唾な記述もあるが、効果は概ね信頼できるものであった。
さて、魔物は人類に害なす存在である。例外はあれども、魔物由来の薬が人の益となることはない。惚れ薬の類が人の益であるかどうかは議論の余地があるが、少なくとも人間という種を繋ぐ事に寄与するわけであるから、つらつら惟るに、茄参を魔物と断じるのは些か乱暴であろう。
茄参を引き抜けば、根は悲鳴を上げる。耳を聾さんばかりの声量で、その声は遥か千哩先まで届くとされるが、流石にそれは誇張である。良くて3哩(5km)程度だろう。兎に角、その声には特別な理力があって、霊感の強い者が悲鳴を聞くと度々脱魂した。持病があれば呼吸不全に陥って死ぬこともあるし、気弱の性なら気ぶりとなる。
従って茄参を直接採取するのは危険である。犬を使うと良い。それも、死んでも良いような病気の犬が良い。まず麻紐を用意し、一方を犬の体に括り、もう一方を茄参の葉に結ぶ。それが出来たらば、人間は穴倉か、可能であれば小屋の中に入る。次いで蝋で耳の穴を完全に塞ぎ、準備が出来たら爆竹等で犬を驚かせる。すると犬は驚愕して走り出し、すぽんと茄参が抜ける。茄参が悲鳴をあげるのは凡そ15秒ほどであるから、心の中で秒数を数えて、念の為さらに15秒数えたらば耳栓を外せば良い。茄参は一度黙れば二度とは口を開かない。
脱魂した犬は冷水を浴びせれば蘇ることもあるが、それでだめなら弔う必要がある。怠れば化けて出て大事となるから、努努忘れるべからず。
□□
飛蝗雲はマーシア公爵領東部地域を襲った。生命力凄まじく、遥か高く聳えるはずのグレンデル山系を越えたらしかった。秋の色に染まり始めていた野山は二晩で枯山と化し、収穫間近だった南瓜や韮葱、甘藍などは軒並み食い荒らされた。農地に残ったのは飛蝗の糞と力尽きた飛蝗の亡骸だけである。家畜は飛蝗嵐に狼狽し、無闇に暴れるから疲弊して乳を出さない。秣も飛蝗に食い荒らされた。人々は飛蝗が黒死病や暴瀉を運ぶという根拠のない噂に怯えて、家々に閉じこもっている。
リトル・キャロルは、卍巴に飛び交う飛蝗に眉根を寄せながらホーソーン街道を行った。人とすれ違う事は無かった。まだ明るい時間帯だったが、虫除けにと松明を灯してみる。しかし飛蝗達は怯みもせずに体当たりして来て、頬や額にばちんと当たれば中々に痛いし、目や鼻に直撃すれば腹が立った。
歩いて歩いて、蟲嵐に霞む景色の中、遠く、街道の脇で1人の女がぴょんぴょんと飛び跳ねているのを見た。何をしているのかと思えば、立木に吊るされた死体を下ろそうとしているらしい。初め物取りだろうかと疑ったが、衣服を重ね着しているようだし、しかも小綺麗にも見えるから、商人の娘か小貴族かも知れなかった。
キャロルは跳ねる女に近寄って、血膨れた青い死体を見上げた。『私は卑しくも皆さんの大切な食料を盗みました』。そう書かれた木の板を首に下げている。私刑に遭った罪人だろう。キャロルは十字を切って、糞尿の垂れ落ちたあたりに聖水を撒いた。
「知り合いか?」
問うと、その強気な風の白皙の女は、
「まさかっ!」
と目を丸くして驚いた。それでキャロルが小首を傾げると、女は苛立ちを露わにしてキャロルを睨めた。
「誰、あなた。浮浪者? 私に話しかけて何をする気?」
「ああ、私は──」
身の上を説明しようと思ったが、女はそれを待たずして早口で捲し立てた。
「まあ良いわ。あなたの身分を聞いたところで何の得にもなりやしない。時間の無駄とはこの事よ。いい? 私が言えるのはこれだけ。『私の邪魔をするな』」
キャロルの顔を指差しながら言って、ぷいっと外方を向いた。そして亡骸に向かって手を伸ばしながら、ぴょんぴょんと跳ねる。跳ね続ける。脚を掴もうとしているらしいが、一向に届く気配がない。無理である。それこそ時間の無駄だろう。
煙草に火をつけてその様子を眺めていると、女は唐突に『あ!』と声をあげた。何か閃いたのであろう。
「これも何かの縁ね。あなた、ここで四つん這いになりなさいな」
まさか、踏み台にするつもりだろうか。嫌である。
「見ず知らずの死体を下ろして何がしたいんだ? 鬘でも作りたいのか?」
試しに問うてみると、女は実に態とらしく呆れてみせた。
「はあ〜? 私がそんな卑しい身分の人間に見えるわけ? 私はね、栄光の手を作りたいだけ」
栄光の手とは、凡ゆる魔を退ける神秘の魔道具である。それを翳せば四方八方に霊力が放たれ、魔物や悪き心を持つ人間を眠りへと誘うとされた。
「今すぐにそれが必要なの。急ぐ必要があるわ。少しくらいは恵んであげるから、大人しく私の為に四つん這いになりなさい」
「ん? 今すぐに必要? 栄光の手は今日明日で出来る代物じゃないぞ」
栄光の手は、謂わば『手首の酢漬け』である。主となるのは吊り首に処された罪人の手で、右手左手どちらでもよい。亡骸から手を切り放したらば断面を下にして血を抜き、子供の尿、塩、酢、硝石を混ぜた液体に漬け置く。一節程経って色が白けて来たら、天日干しにして乾燥させる。夏であればまた一節ほど乾かせば良いが、それ以外の季節なら諦めて、藁や香草に包んで軽く焼くと良い。これで栄光の手は完成、最低でも2節は掛かる。
あとは罪人の脂肪から蝋燭を作る必要がある。脂肪を溶かし、胡麻と馬糞でよく練り合わせ、三つ編みにした罪人の髪の毛を芯とし、整形した後に冷やして固める。それを栄光の手の上に乗せて火をつければ、神秘の力を発揮した。
「……何よそれ。私の知識が間違っているって言いたいわけ? 私を否定するわけ!?」
女は顔を真っ赤にして激昂した。流石のキャロルも眉尻を下げる。
「ええ? そりゃあ、まあそうだけど、魔法使いくらいしか知らない知識だから、別に知らなくたって──」
しかし、女が遮る。
「ああ、結構。結構よ。もう言わないで。良いこと? 私は負けるのが我慢ならないの。これ以上は言わないで」
急勝である。キャロルは居心地が悪そうに頭を掻いて、それからゴソゴソと外套の裏を弄った。
「……因みに栄光の手ならあるよ」
そして蝋紙に包まれた、6吋程度の楕円形の物体を取り出した。包みを丁寧に解くと、中から酷く色褪せた手──と言っても見た目は灰色の烏賊の干物のようなもの──が現れる。これが栄光の手である。
キャロルは大白亜を下山する際、長旅で使えそうなものを聖ダービー宮殿から持ち出していた。栄光の手はその内の一つ。とは言え、世間一般的に知れ渡っている効果は些か誇張されていて、それを翳したからといって魔物が眠りに落ちることはない。ただ、亜人等の脆弱な魔物や鼠等の不潔な動物を退ける事はできるから、持っておいても損はないだろうと思い、程度の良いものを品定めして外套に忍ばせて来た。結局、今日まで包みを解く機会も無かったのだけど。
女は渋い顔で栄光の手を見た。
「本気? これが?」
顔を近づけて、まじまじと見入る。褪せた手の硬い指紋や、指に生える縮毛に妙な生々しさを感じたのだろう、突然跳ねるようにして仰け反った。
「うわっ。汚っ。なんか栄光って感じじゃないわね……」
「なんでこれが必要なんだ?」
しかし女は質問に答えなかった。
「あなた、こんな趣味の悪いものを持ち歩いているなんて、普通じゃないわね。辻占い師? それとも歩き巫女?」
「いや、私は聖──」
──聖女と言いかけたのだが。
「あなた気に入ったわ! 着いて来て! 私を手伝いなさい!」
女はパッと満面の笑みを作ると、飛び交う飛蝗に怯むことなく、小走りで街道を北へと進み始めた。
(人の話を聞かない女だな……)
心の中で愚痴を溢して、鼻から煙を噴く。まあ何というか、確かに、こんな日に1人で外を出歩くような人間が至って普通なわけがないのだけれど。
□□
強張った栄光の手をそっと開き、蝋燭を握らせる。枝の先端に手を結びつけ、キャロルは魔法で火を灯した。高く掲げて、蝋の火がぽうと虹の光環を作り出す。すると飛び交う飛蝗はそれを嫌って、2人から距離を取り始めた。
(……へぇ。確かに、松明よりかは良い虫除けにはなるな)
同い年くらいであろう高飛車な女は、メイジーと名乗った。身の上を聞いてみたが、残念ながら答えてはくれなかった。彼女としては別に隠しているつもりはなさそうで、兎にも角にも自分が話したいことだけを話す性分らしかった。
「いいこと。良くお聞きなさいな。私はね、媚薬を作りたいの」
「え?」
媚薬作りを手伝わされようとしているのか。
「どうしても諦められない男がいるのよ」
「あまり褒められた手段じゃないな。薬なんぞ使わなくても、気立てが良ければ気に入られるよ。ほら、見たところ顔も良いし。頑張ってみたら?」
「初対面で偉そうに。顔が良いのは見れば分かるでしょ。わざわざ言わなくて結構」
キャロルはため息に煙を乗せた。気立ては難あり、煽ても効果なし。
「何をやったって無駄よ、無駄! とにかく媚薬が必要なの! なんとしても媚薬、媚薬、媚薬!! ぜーったい媚薬っ!! その為に私は茄参を手に入れなきゃならないのっ!!」
「そう簡単に手に入るものじゃない」
どうも放っておくと危険な目に遭いそうな気がする。やれやれ、どうしたものか。ある程度までは付き合ってやる必要があるか。しかし、媚薬は良くない。倫理に悖るようであれば何某かの理由をつけて諦めさせなくてはならないだろう。
「ふんっ。知った口を利くわね。そもそも、考え無しに私が動き出すと思って?」
「茄参が何処に生えるか知っているのか?」
「当然。もう目星はついてるのよ。ただ、そこに行く為には三つの難所を突破しなきゃならない」
「ほう。三つの難所」
「ふふん。果たしてあなたに突破することは出来るかしら? 精々私から遅れないようにすることね。遭難しても知らないわよ」
「鋭意努力させていただくよ」
「でも安心なさい。第一の難所は、飛蝗のおかげで簡単に突破できるはず」
メイジーはにやりと笑って、街道の先を指差した。
「──第一の難所『荊棘の道』」
ホーソーン街道は要衝を繋ぐ捷径として新たに出来た道であったが、いつの日か枳殻や薔薇などの荊棘が繁茂して、道を塞いでしまった。完全に塞がる前に手を打てば良かったものの、ものぐさばかりが通っていたのだろう、後手に回って残念無念、荊棘は金剛不壊と化した。メイジー曰く、燃やしてしまおうと意見した商人もいるらしいが、街道に接する森が燃えれば大事となるから、結局別の道を拓いたとのことだった。
「やっぱり思った通りね。飛蝗たちが荊棘を食らっているわ!」
荊棘の藪に飛蝗の群れが無数に纏わりついて、がじがじと一生懸命に齧っている。そのお陰で人が通れる程度の隙間もありそうで、仮に塞がっている場所があっても脆くなっているから、短剣を振るえば払えそうだった。
「ふふん。良くやってくれたわ飛蝗軍団。下々の民にとっては災害かもしれないけど、私にとっては神の恵みってわけ!」
2人は落ちた棘を踏まないように、或いはまだ形を残している荊棘に服を引っ掛けないように、慎重に、長い長い藪を行った。
「でも油断はしないことよ、あなた。荊棘の道は攻略出来たけれど、第二の難所はそうはいかないわ」
藪を抜けた辺りで冷ややかな空気が立ち込めた。微かに水の匂いもしている。キャロルはうそ寒いような、厭な気配も感じ取った。
「それで、その第二の難所っていうのは?」
「──第二の難所は『霧の湖畔』よ」
□□
マーシア公爵領東部には妙な湖があった。それは数百年前、マーシアで起きた局所的な地震、通称『南部迷惑』により出来た小さな湖で、名をオールドマン湖と言った。
湖が出現した地点は元々地形が複雑で空気の滞留しやすい場所で、湖畔には頻繁に霧が立ち込めた。昼でも松明を持たねば通行能わない。慣れた者が同伴しなければ、いつの間にか街道から逸れて彷徨うこともあるのだと言う。
こんな話がある。今より数十年は前のこと、街道ができるよりもっと前。或る猪狩りの何某という猟師が湖畔の森で迷った。行けども行けども霧ばかり、目印とした樫の大木は何度も男の前に現れる。同じ場所をぐるぐると巡っているようだった。歩き続けて暗くなり日暮れが近い事を認めると、猟師はついに狼狽し、大声を上げて助けを求めた。
すると、木々の間に見える湖に、ふわりと青い炎が浮かんでいるのが見えた。釣り人が船釣りでもしているのだろうか。いや、何でも良い。幸運だった。猟師はおおいと声を張り上げて、両腕を大きく振った。すると青い炎は揺らめきながら猟師の方へと寄った。そして声がした。『こっちへおいで』。女の声だった。
こんな場所に何故女が1人で。一瞬疑問に思ったのだが人に会えたことの安堵が勝って、それ以上は深く考えなかった。『森の外へ案内してくれないか』。そう道案内を求めると、青い炎はついて来いとでも言わんばかりに猟師を先導し始めた。助かった。猟師は胸を撫で下ろした。
彼女は何者だろう。目を細めて霧の中を見つめれば、美しい女の後ろ姿が霞んで見えた。『君は誰だい?』。猟師は問うたが、女は『こっちへおいで』と返すだけ。『何処から来たんだい?』。これにも女は答えない。『こっちへおいで』。
猟師が不審に思った時、唐突に、ずぶりと脚が埋まった。経験から、泥濘に嵌った事を察した。かなり深い。迂闊だった。猟師が『助けてくれ』と叫ぶと、青い炎はくすりと笑ってその数を増やした。2つ、3つ、4つ、5つ──。青い炎は蝿が群がるようにして猟師に集った。そして、哀れ猟師はあっという間に燃やされてしまい、灰となってしまった。あな恐ろしや鬼火の森。あな恐ろしや霧の湖畔……。
「街道を作る時に王都からやって来た神官が祓ったらしいわ。それでも何人かの商人は、度々女の声を聞いたのだとか。荷に火をつけられた商隊だってあるんだから」
「愚者火だな」
「ウィル? 何それ?」
「怨霊のようなものだ。その正体は諸説あって、例えば天に辿り着けなかった罪人の魂だとか、洗礼を受ける前に死んだ赤子の魂だとか」
「へぇ……」
「王国各地で似たような伝承が残っている。話のオチとしては善良な人間を死へ誘う……、というのが定番だな」
「詳しいのね、あなた巫術師なわけ? それとも学者?」
「いやだから私は聖──」
「まあいいわ。良くお聞きなさい。そこで役立つのが、この栄光の手!! コイツで退けようってわけよ!! どう? 完璧な作戦でしょう?」
問うてくれる癖して答えを待ってはくれない。なんと急勝だろうか。キャロルは肩を窄めて煙草に火をつけた。
「街道が使われなくなった今、湖畔はどうなってるのかしら? もしかしたら火の玉が大きくなってるかもね? ふふふ。まっ、精々驚いて逃げ惑わないことよっ。私から離れたら終わりなんだからね。良い? 分かった?」
「はい」
次第に木々が鬱蒼としてきて、濃霧が立ち込めた。確かに迷い人が出ても可笑しくない程の霧深さで、30呎(約10m)先も見通せない。水の匂いもはっきりとして来たから、恐らくはオールドマン湖の湖畔に到達したのだろう。気づけば飛蝗も消え失せている。貧弱な蟲ながら野性が働いて、この湖を避けているのかも知れなかった。
「ひっ……!」
唐突にメイジーが声をあげ、震える手で一点を指差す。
「あっ、ああ、あっ、あれを見てっ!」
遠く、濃霧の先に青く光る炎が見えた。それは海月のようにゆらゆらと揺蕩って、宙に浮いている。愚者火であった。
「まずはその指を下ろそう。あんまりまじまじと観察しない方がいい。霊の障りを防ぐコツは、無関心を貫くこと。何も自分から現世と隠り世の垣根を超えることはない。淡々と前を向いて歩く。これに尽きる」
「あ、あんた驚かないわけ!? どうして平然としていられるのよっ!」
2人は愚者火を無視して霧の中を進む。しかし、その青い炎はふらふらと左右に振れながら、送り狼のように着いて来た。メイジーはわなわなと震えながら断固無視を貫こうと努力するが、恐ろしいことに青い炎は1つ、また1つと数を増やしていった。やがてその数は、20余りとなった。
「ククク……。凄いな。ここまでの数は記録にないんじゃないかな。史上初だぞ」
「何よ、その悪人みたいな笑い方っ。ってか反応して大丈夫なわけっ!? 現世と隠り世はっ!?」
「この程度なら大丈夫だよ。雑談、雑談」
「適当女っ! 燃やされたらあんたを呪ってやるわっ!」
「人気が無くなると、概して怨霊の類は増えるものだ。説明がつくから問題はない」
「か、囲まれてるけどっ。襲われないわよね……?」
「どうかな」
「襲われるとどうなる……?」
「猟師のように燃え尽きるだろうな」
メイジーはさあっと青ざめて、キャロルの腕に自らの腕を絡めて獅噛ついた。
「だ、だだだだだっ、大丈夫なんでしょうねっ!?」
期期艾艾、殆ど言葉になっていない。
「メイジーが信じる栄光の手を信じろ」
掲げられた栄光の手からは日暈の如く虹の輪が放たれ、今の所それが守護壁の役割を果たし、2人を守っているらしかった。愚者火は虹の輪の内、即ち15呎(約5m)より内側には近寄れず、うろうろとしながら着いてくるばかりである。
「は、はんっ! たっ、たたた、大したことないわねっ! 私を驚かせようったって100年早いわ!」
「あっ。そんな調子で挑発すると……」
愚者火が一つ、虹の境界を割ってひゅんとメイジーの頬を掠めた。弾丸の速さだった。
「ひいっ!!」
現世と隠り世の垣根を超えてしまったらしい。反省したのだろう、メイジーはもう二度と愚者火を挑発することはなかった。
「霧が少しずつ晴れてきた。あとちょっとだ、頑張れメイジー」
「なによ偉そうにっ! あのね、霧の湖畔を越えたら第三の難所が現れるのっ!! 次の難所は本当に、本当に本当に怖いんだからっ!! 覚悟なさいっ!!」
「私をビビらせる事に目的がすげ替わってないか?」
木々の間隔がゆったりと広がり、柔らかな光が霧を満たし始めた。蓊欝と立ち込めていた霧は東風と共に失せる。先々を見通せるだけの澄んだ空気を鼻から吸い込んで、メイジーは安堵のため息を吐いた。
飛蝗は湖を嫌って到達していない。羽音もなく、通行人もない。つまりは静かな街道がそこにあった。
キャロルは街道の先を見つめた。
「街か……」
遠く、郭が見えた。
「ふふふっ。楽しくなってきた旅もそろそろ終着地と言ったところね。最後にして最強の難所の登場よ。あなたの恐怖に歪む顔が楽しみだわっ」
「ん? 楽しかったのか?」
メイジーは不意を突かれたように目を丸くし、そして赤面した。
「馬鹿ねっ! 言葉の綾に決まってるじゃないっ!!」
「しかし、どうしてこんなところに街が? メイジーの話では街道は使われなくなって久しいはずだが……」
「はんっ。何にも知らないのね。この街は──」
「ああ、そうか。中継地か」
「ちょっと!! 私が答える前に答えないでよっ!!」
怒られてしまった。キャロルは煙草に火をつける。これは嫌味だが、メイジーと一緒にいると煙草が美味しい。
さて、街の名前はスタンリー・ジェンキンスと言う。街道作りを指揮した商人の名前をそのまま取った。元は単に在所と呼ばれていた庄で、猟師たちが住んでいた。街道が形作られてゆくと、難所オールドマン湖に入る前に宿場が必要であろうという話になり、商人たちは詐欺紛いの言で猟師たちを追い出したのだった。
「──あの街こそが第三の難所『暗黒郷スタンリー・ジェンキンス』よ」
街道が使われなくなると、2年3年で宿場から人が消えた。性質上、商人が通らねば商売が出来ない。それに所詮は宿場、ここで商売をする者も元は商隊について来た放浪家族や流れ者で、街にも愛着はない。駐在する商工組合員も、新たな街道に出来た宿場に移動した。
「斯くして蛻の殻となったわけだけど、今では物取りや盗賊騎士なんかのやくざ者たちが住み始めて、そこは正しく暗黒郷。貧民街より酷い有様なんだとか」
「へぇ……」
「でもね、そこに茄参が生えているはずなのよ。それさえ手に入れば、媚薬が作れる」
メイジーは期待を顔に滲ませて、ぐっと拳を握った。
「さあさあ、私たちのような女子が身一つで入ればどうなってしまうかしらね!? あなたの顔が恐怖に歪むのが楽しみだわっ!!」
「私がこてんこてんにやられたらどうするつもりなんだ?」
「え? それは困るわよっ!! 栄光の手で何とかしてよねっ!!」
そして2人は郭門の前で立ち止まった。通行料をうんとせしめたであろう門は硬く閉ざされ、門番も見当たらない。キャロルはゆっくりと門を押す。閂も掛かっておらず、簡単に宿場に入ることが出来た。
まず2人を出迎えたのは広場であった。敷き詰められていたはずの切嵌石は剥がれて散らばり、至る所に雑草が生える。広場中央には彫像があって、恐らく件のスタンリー・ジェンキンス氏だろう。
「宿場にしては気合の入った広場だったようだ。……ただ、人っ子1人いないな」
「おかしいわね……」
縦に長く作られた宿場であった。通りは広く、大規模な商体が通行する事を想定して作られた宿場だと見て分かる。ずらりと並ぶ宿舎、それから人馬継立の為の伝馬所もあって、酒場や食事処、なんと小劇場まである。蔵の数は多い。預かり業も行っていた店もあるらしい。
キャロルは目に付いた酒場の扉を押し開けた。埃の匂い。中は荒らされていて、衣服や毛布等が散らかっている。街に盗賊が住み着いたというのは間違いなさそうだった。
「第三の難所は呆気なく終わったのかな」
そして板張りの床に挟まった硬貨を引き抜いた。金貨だった。噛んでみれば歯形が残る。純金だ。よく見れば部屋のあちこちに金貨が落ちている。こんな価値のある物を其処此処に散らしたままで、一体彼らはどこへ消えてしまったというのだろうか。
メイジーは頬を膨らませて、
「うるさいっ! 盗賊がいないなら結構! ならさっさと茄参を取りに行くわよ!」
キャロルは頷いて部屋を出た。行き先は既に分かっている。街に茄参があると聞いた時点で、凡その見当はついていた。
茄参という植物は、往々にして穢れに根付くものである。死骸から漏れ出る体液を糧とする事で、根に咒力を宿すとされた。図鑑には墓場や戦場跡等に生えると書かれているが、中々どうして見つけられる者は少ない。ただ、これは一部の人間しか知らない事なのだが、『機能していない処刑場』こそ茄参狩りの穴場である。それも、首吊り台のある形場が良かった。
絞首となった罪人は見せしめの為に大抵3日は吊るされた。その間には必ずと言って良いほど、体から糞尿が漏れ出る。それがぽたりぽたりと滴ると、地も穢れよう。その首吊り台が使われれば使われるほど、茄参好みのする土壌が出来上がるわけだった。刑場が機能している内は、処刑人が地を踏む為に芽が出ることは少ない。しかし使われなくなれば、休眠していた芽が萌芽し始める事も間々あった。
ここは宿場にしては規模が大きい。であれば荷を盗んだ罪人等を吊るす為の刑場もあるだろう。十字路があればそこに、無ければ街の中央に備えられていると思うのだが。
「……あったわ。首吊り台よっ!」
宿場の中央付近、大通りと蔵の連なる脇道が交わる十字路に秋千でも設置できそうな木枠が一つ。絞縄こそ無いが、あれが処刑台だろう。木枠の根本は土が盛り上がり、青々とした菜っ葉らしきものが3つ程生え出ているように見える。
「しめたっ。やっぱり生えて──」
「待て」
言ってキャロルは、メイジーの口を押さえた。そして素早く伝馬所の扉を開けて中に入る。
「何するのよっ!」
「しっ。臭いがする」
キャロルは出入り口からそっと顔を出し、十字路を覗いた。何もいない。が、極々小さく地面が揺れている。遺棄された伝馬所の、棚や箪笥がカタカタと音を立てていた。
「第四の難所と言ったところかな」
メイジーもひょこっと顔を出し、十字路を見た。何もいない──と思った瞬間、殆ど音を立てずに、ぬうっと体の大きな魔物が十字路に入ってきて、そして木枠に体を擦り付け始めた。四足の魔物である。メイジーが今まで遭遇した中で、最も大きい魔物であった。立ち上がれば13呎(4m)はあるだろう。
それは熊に似ていた。毛深く、茶色い。ふわふわとしている。しかしながらその柔らかな毛皮の下には岩のような筋肉が潜んでいる事は明白、顔には嘴、梟に似ていた。時折カクカクと首を傾げながら、小さくほうほうと鳴き、黄色い目をキョロキョロと忙しくなく動かしている。
その魔物は意味ありげに木枠を5周すると、今度は後ろ足で首を掻いて、ごろんと寝っ転がった。
「なっ、なななな、なんじゃありゃ……!」
「梟熊だ。獣王だよ」
魔物の中でも特に群れることを嫌い、巣を持たない性質のあるものを『獣王』と呼称する。唐突に現れては家畜や人間を喰らって人々の暮らしを破壊するから、一般的に雷や山火事と同等の災害として数えられた。
「梟熊は見ての通りのデカブツで、とにかく力が強い。腕の一振りで塔を壊し、頭から突っ込んで城を崩壊させたなんて話は枚挙に暇がない」
しかし理外の力よりも恐ろしいのは、静かなことである。足音は殆どない。関節も柔らかく、猫のよう。熊が近づいて来るとぶうぶうと呼吸の音が聞こえるものだが、梟熊は顔が梟であるからか、息の音すら聞こえなかった。梟熊に目をつけられたら最後、ひっそりと背後から寄られて、気づかぬ内に殺されてしまう。それはそれである種幸福な最期かも知れないが、相手をするには厄介だった。
「街に住み着いた盗賊は梟熊に喰われたんだ。梟熊は狩人として有能。獲物を骨ごと丁寧に平らげるし、その場に血の一滴も残さない。次の獲物に警戒されないよう、自分のいた痕跡を消してしまう」
「な、何よ。随分と知った口ね。出会したことがあるわけ?」
「いいや、初めて見た。生齧りの知識さ」
しかし、随分とまあ、のんびりとした個体である。本来魔物というものは殺気に満ち満ちて、ピリピリとした空気を放つもの。群れることでしか事を為せない亜人でさえも、乱暴を働いてやろうというその嫌らしい瞳には悪寒を感じる。比べて、この魔物はなんだろう。その姿は見世物小屋の熊と然して変わりない。
「基本的に獣王は餌を求めたり殺戮を求めたりで移動を続けるものだけど、コイツにはそうするつもりも無さそうだな。何日もここに滞在しているんだろう」
「あの魔物を退けないと茄参が取れないわよ。栄光の手じゃどうにかならないの?」
「デカすぎる。無駄だろうな」
「じゃあどうすんのよっ。諦めろってわけっ?」
魔物は寝転んだまま四肢をぐいと伸ばし、大欠伸。蚤でも落としているのだろうか、全身を捩って地面に体を擦り付け、そのままごろごろと寝返りを打ち、そして動かなくなった。寝たらしい。
「なんて太々しいヤツ。完全に油断してるな」
思うに、盗賊たちが非力過ぎたのだ。彼らを襲うことは、枝に実った柿を毟るに等しかった。だから、この宿場で待っていれば時期に新たな獲物が現れて、また殺戮と食事を楽しめると見込んでいるのだろう。次いで、あの十字路もお気に入りだ。魔物は穢れの堆積した場所を好むわけなので。
キャロルは腕を組んで考える。さて、どうしたものか。己1人であれば悩む必要はない。真正面から戦っても良い。もし御朋輩がエリカのように戦えるならば、手伝って貰うのも良いだろう。しかしメイジーは戦えない。背格好は武芸を嗜んだ人間のそれではないし、魔法を使えるような気も感じない。ずぶの素人である。となれば──。
「茄参を使うか」
「へ?」
「因みにだけど、メイジーは茄参の悲鳴をどうするつもりだった?」
メイジーは目をぱちくりと瞬かせた。
「そりゃあ、まあ、耳を塞ぐつもりだったけど」
メイジーは肩に下げた皮袋から、小瓶を取り出した。中には白い塊が入っている。
「練り蜜蝋だな。ちゃんと耳に嵌るか?」
瓶からコロコロとした硬い蝋を出して、メイジーは指で捏ねた。体温で徐々に柔らかくなってゆく。
「あなたはどうするわけ?」
「こそっと寄って茄参を引き抜いて来る。耳元で悲鳴を聞かせれば、あの魔物も昏睡するはずだ」
「ひ、引き抜くっ!? 生身で!?」
「そんなに心配することじゃない」
「ちょっ。じゃ、じゃあこの耳栓をつけて行きなさいなっ」
「いや、大丈夫。メイジーはしっかりと耳を塞ぐこと。隙間なく蝋を耳穴に詰め込め。思うよりもデカいぞ、茄参の声は。出来るなら私が抜く瞬間に、その上から手で耳を覆うといい」
「というか、あの魔物の側を通らなきゃいけないんでしょ!? 危険よっ!」
「野性を失った魔物ほど簡単な相手はないさ」
言ってキャロルはやおら歩き出し、十字路に向かって行く。
(え〜〜〜〜っ!! いくら魔物が寝てるからって、あんな堂々と出てっていいの!?)
メイジーはわたわたと焦りながら蜜蝋を耳の穴に詰めた。
一方のキャロルは音を立てずに梟熊の横を素通り。当の梟熊は接近に気がつく事なく、くうくうと寝ている。キャロルは木枠にまで寄って、その根本に生えた菜っ葉を掴む。軽く力を入れて根の張り具合を確認。一思いに引き抜けるだろうと確信を得て、そしてメイジーに視線を送った。
(ほ、本気でやる気……?)
メイジーは身振り手振りで『戻ってこい!』と伝えた。茄参の声を聞けば人の心は壊れる。陶器を床に落とすかのように砕けよう。媚薬を夢見て気ぶりとなった商人の噂も五万とある。中には自分が誰であるのかも忘れる者もいるし、自らの糞尿を食い始めて親兄弟に埋められた者もいるのだとか。
「ああもう! 茄参はいいから、こっちに戻っ──」
そしてキャロルは肺いっぱいに空気を吸い込んで、凄まじい大声──と言うか怒張声に近い叫び──を上げながら、茄参を引き抜いた。
根が土から顔を出して叫び出す。空気をびりびりと震わせる。メイジーは咄嗟に両耳を塞いだ。勢い余って、両頬を引っ叩いたのに等しかった。
梟熊は目を覚ました。飛び跳ねたように立ち上がると、ぴんと手足を張って硬直。棒のように動かなくなって、そのまま後ろに倒れ込み、ズドンと地を揺らした。全身を痙攣させ、仰向けのまま立ち上がらない。嘴からは泡を噴いている。
キャロルは茄参が黙ったのを認めると声を出すのをやめた。そして梟熊の眉間に短剣を突き刺す。これで梟熊は死んだ。
「え? 終わった?」
メイジーは耳から蜜蝋を抜いて、キャロルに走り寄った。短剣が突き刺さったままの梟熊の傍を、怖々通りながら。
「あんた、大丈夫なわけ!? 気が狂ってない!?」
「私も一緒に叫んだから、茄参の声は聞こえなかった」
骨導と気導、内外双方から自分の声で内耳を満たし、周りの音を掻き消した。何故だかは分からないけど、体感的に茄参の声を認識できなければ、狂気に囚われることは無い。……とキャロルは説明し、メイジーはポカンと大口を開けた。
「なんって大雑把な……」
「学園でも茄参は植っていたけれど、わざわざ耳栓を用意して引っこ抜くヤツなんていなかったよ。大概ぎゃあぎゃあと叫びながら抜くもんだ、こんな野菜は」
茄参は万能な薬材である。従って、聖隷カタリナ学園の薬圃にも植えられていた。キャロルが思うに、耳に詰め物をして茄参を抜くような生徒はローズマリーくらいのものだと思う。普段声を荒げる事のないマリアベルでさえ、その時ばかりはわあと叫んでいたはず。犬を使っても良いが、犬が可哀想だった。
「学園? それって聖霊カタリナ学園のこと? あんた、学園に通ってたの?」
「通ってたも何も、私は聖女なんだって」
メイジーは一瞬きょとんとすると、直ぐに怪しむように腕を組んで、キャロルの顔をじろりと睨めた。
「あんたみたいなガサツな女が聖女なわけないじゃない。魔物を倒したのは認めてあげるけど、調子に乗って妙な事を言わない方がいいわよ」
□□
媚薬を作る際には、茄参の根に泥が付いていてはならない。しかし、少しでも根が傷ついて仕舞えば薬効が鈍ってしまうのが厄介だ。神経質に、撫でるように、時間をかけて洗う必要があった。茄参を扱う時は『新婚初夜と思え』という金言もある程で、薬学を志す者の間では共通認識にもなっている。
茄参を洗ったらば、まず根を笹掻きとする。熱が入り易いよう1吋(3cm)未満に仕上げるのが良い。葉は使わないので捨てて良し。根を全て笹掻きにしたら、林檎酢、或いは葡萄酢で煮る。煮沸させてはならない。凡そ10分経ったら阿片と生姜を入れる。一先ずそれで完成である。その後10分煮込むと輝きを増すから、そこで麝香があれば砕いて入れると良いし、貴重故に手に入らないならば井守の黒焼きを潰して入れると良い。効果が倍に増す。
味は美味である。不思議なことに葉は不味くて臭いが、茄参の根は桃に似た味をしていて、馥郁たる梔子の香りがした。而して果物酢と混ざるとさらに良い風味となる。すっきりと飲みやすく、清涼感もあって、鼻に抜ける香りも華やか。蓋し数ある薬の中で最も美味であろう。
色も良い。まるで風信子石のように甘い胡桃色をしていて、常にふわりと発光している。見る角度によって桜色にも空色にも変化し、宝飾物のようだった。
キャロルは出来上がった媚薬を、鍋から練り蜜蝋の瓶へと移した。馬宿の黴臭い調理場に優しい光が広がって、メイジーはその美しさに息を呑んだ。
「これが媚薬……?」
メイジーがそっと瓶に手を伸ばすが──。
「ちょっと待った」
直ぐにキャロルがそれを引っ込めてしまった。
「えっ!? 渡さないつもり!?」
「タダじゃ難しい」
「こ、ここに来て交渉ってわけ? あなた思いの外商売上手ねっ……!」
「違う違う。金なんていらないよ。いいか、メイジー。私の話を聞いてくれ」
キャロルは媚薬の入った瓶を、窓から差す光に透かした。不純物のない、出来の良い薬となった。十分過ぎる程の効果が期待できる。
「媚薬を使うのは道徳上良くない。惚れた男には真っ向勝負しないと。ここまで付き合っておいて途中で梯子を外すのもどうかと思ったから媚薬を作ったが、出来ればこれは使わずに取っておいて欲しい。不妊や婦人病にも効果がある。他人に飲ませるのは遠慮して欲しいんだ」
メイジーは眉根を寄せて、キャロルをじっと見た。
「そんな顔をしたってダメ。もし他人に飲ませないと誓うなら、渡してやっても良い」
そしてメイジーは居丈高にため息をついて、
「はぁ〜〜。あんたねぇ、人の話を聞かないで説教を垂れるのは良くないわよ」
「それをお前さんが言うのか……」
「──飲ませようたって、もう相手がいないんだから。そんな事、出来るわけないじゃない」
□□
来た道を戻った。栄光の手を高く掲げてオールドマン湖を越え、飛蝗飛び交う荊棘の道を行った。飛蝗に縄を食いちぎられて地に伏した吊られた男を横目に、南へと進む。道は二股に分かれた。一方はキャロルが通って来た方面、即ちマーシア公爵領北東ハルフォードへと繋がる道である。もう一方はホーソーン街道を荊棘が覆ってから新たに拓かれた童心街道へと繋がる山路だった。
山路を行った。只管に坂を上った。崛起する山々を抜けて視界が開ければ、遠い山嶺に雪の冠、冬の足音が聞こえる。肌寒い。行く毎に風が冷えて、飛蝗は徐々に数を少なくした。道の辺には時折小さな女神像が立つ。花や硬貨が供えられていた。中には素人が作ったであろう不恰好な木彫りの女神像もあり、それにも供物が供えられている。山路を行く誰もが直向きに旅の安全を願う。
煙霞に灰色の街を見た。斜面を背に作られた街だった。メイジー曰くハイシェパーストウという街で、極端な田舎らしい。その街には入らずに暫く細道を行くと、唐突に墓地が現る。円形状の墓地、中央には柳の大木。それをぐるりと墓石が囲んで、離れた場所に白い教会がぽつりと建つ。管理はされていないようで、煙突は倒れ、屋根も落ちていた。
メイジーは井戸から水を汲んで墓石の一つに寄ると、えいと水を浴びせた。次いで舌打ち、墓の横に置かれた馬毛の束子で頑固にこびり付いた鳥の糞を乱暴に落とし、媚薬を墓前に置く。粘板岩の墓石に掘られた名前はオズワルド・ブラウン。生年月日を見るにキャロルと同い年、没年月日は3年前だった。
「これで後腐れなく終われるわ」
メイジーは勝ち気な笑みを作って、鼻息荒く勝利を宣言した。
「万事よし。あんたは私に惚れた!」
甲高い声が山々に谺する。
「……そんなに良い男だったのか?」
「ふんっ。何処にでもいる下男よ。私の知らない所で勝手に魔物に襲われて、勝手に死んでた」
メイジーは続ける。
「私はメイジー・ゴドウィン。ゴドウィン家の一人娘。どうせ知らないだろうから教えてあげるけど、そりゃあもう名家中の名家なんだから」
ゴドウィン家はマーシア公爵領東部商工組合の象徴たる豪商である。領内、食肉や薬材の流通を一手に握り、評議員を務める他、影響力は大きい。
「ハイシェパーストウは羊の産地として名高いわ。だけれど、この通りのド田舎でしょう? 貴重な山野草もわんさか取れるのよ。私もお父様の命でハイシェパーストウに足繁く通ったわ。商売は習うより慣れろってね。まっ、そんなこんなで植物に詳しいこちらの下男とも多少の関わりがあったってわけよ」
メイジーは寂しい目をして、じっと墓石を見つめた。
「いくじなしなのよ、この男。私に気があるくせに、いつまでも避け続けて。私からやんわりと好意を伝えても躱されるばっかり。業を煮やしてハッキリ好きだと言ったらば、身分が違うとか言い出す始末。なんって失礼なのかしら。恥をかかせられたわ」
冷たい風が吹いて、メイジーの髪を揺らした。
「私ね、王都の商人の所に行くの。もうここには来られない。毎節のように来てたけれど、今日でおしまい。最後にこの男を本気にさせたかった。……朝起きたら空を飛蝗が埋め尽くしていたわ。媚薬を手に入れるなら今しかないと思った。それで周囲を振り払って屋敷を飛び出して来たけれど、我ながら正しい選択をしたわよね」
「嫁ぐんだな」
「馬鹿ね、妾よ。そんな幸せなものじゃない。飽きられたら田舎に追われて終わり。きっと子供も望めない」
しかし、メイジーは胸を張る。
「でも良いの。この天変地異で次々に商家が取り潰しになる中、ゴドウィン家は守られた。私さえ王都に行けば融資を受けられるのよ。私が家を守っただなんて、名誉なことだわ」
にっと笑って、キャロルに振り向く。
「人に飲ませる為に媚薬が欲しかったわけじゃない。私の中の区切りをつけたかっただけ。納得出来たかしら、小煩い聖女さま」
「聖女だって信じてくれるのか?」
「あら、調子に乗らないでくれる? あんたに合わせてやっただけよ。私は然う然う他人に心を開かないんだから」
キャロルは軽く鼻で笑って、聖水を墓石に垂らして十字を切った。
「因みに、ここではどんな花を買っていた?」
「この時期なら撫子かしらね……」
「暑邪を去る良い薬になるな」
「何よ、藪から棒に」
「私からも何かしら手向けないと失礼に当たると思ってね」
立膝をついて、キャロルは地に手を置く。無詠唱、体の内で光の力を増す。──僅かに地が輝く。ふわりと髪が躍ったかと思えば、幾つかの緑の芽がふつふつと土を押し上げた。瞬く間にそれが花開く。次々に芽吹いて、咲いて、最後には墓地全体に撫子の花が爛漫とした。
メイジーは呆然と立ち尽くした。辺りを見渡せば薄桃色の海。たった一呼吸する内に、柳を中心に花畑が現れた。
「……凄いわね、あなた」
「そういう芸事が得意なだけだよ」
そしてメイジーは花畑に恋焦がれた男の幻影を見た。秋の日に初めて出会った時の光景だった。マーシアの山々で育った撫子が如何に丈夫かを丁寧に教えてくれた。実に冴えない男だったが、誰よりも優しい笑顔の持ち主だった。
「さあ、行こう。大きな街まで送ろうか?」
「私はもう少しここにいるわ。きっとこの花畑も、飛蝗が来たら消えてしまうでしょう?」
キャロルは無言で肯定した。
「今日は私の自己満足に付き合ってくれてありがとう。あなた、名前は?」
「リトル・キャロル」
「ふぅん。どっかで聞いた事のある名前ね」
「よく言われるよ」
2人は花畑の中で別れの言葉を探した。長い沈黙を経て、先に口を開いたのはメイジーだった。結局選んだのは、飾り気のない在り来たりな言葉だった。
「さようなら、キャロル。楽しかったわ」
「うん。さようなら、メイジー。体に気をつけて」
キャロルはメイジーに背を向けて、薄桃色の墓場を出た。太陽は西に傾き始めている。あと数刻ほどで空は紺色に染まるだろう。雲は無い。代わりに飛蝗の群れが遥か遠くを烟らせている。蟲嵐が冷気の壁を越えようとしている。
背後から啜り泣く声が聞こえた。やはり一緒に山を降りるべきかと立ち止まったが、彼女の時間を奪ってはならないと思い直し、煙草に火をつけて去った。吐き出した白い煙は程なくして風に消えた。
★「不良聖女の巡礼」が次にくるライトノベル大賞2025にノミネートされました★
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