苺を摘んだらジャムを(reprise)
──私がヴィルヘルム・マーシャルの子?
キャロルは頭の中が真っ白になった。手足は冷えて、胸が圧迫されるようにも感じ、胃液までもが迫り上がる。次第に耳鳴りが酷くなって、朦朧とした。
力も入らない。腕が瘧のように震えて、剣が手を離れそうになる。今にも目の前の老人に押し返されてしまうだろう。
「つあああああああッ!」
迷いを振り払うようにして、叫びながらの乱撃。嵐のような剣捌き。しかしヴィルヘルムは、風を切る音、雪を踏み締める音、荒ぶる息の音、それらを頼りに全てを防いでゆく。
「斯様な事で心が乱されるとは。仮にも輝聖が、なんと無様な」
そして大振りの一撃をするりと交わすと、ヴィルヘルムは居合切りの構えに転じた。紫電一閃、雪風を切り裂く。
「……ッ!!」
キャロルは剣でそれを受けたものの、激しく投げ出され、背から浅い池に転げた。片脚では踏ん張りが効かなかった。
(冗談じゃない……っ!)
立ちあがろうとする。折れた樫の義足の長さを見誤り、また転げる。冷静さを欠いていた。
(嘘だ。私を動揺させる為の詐言だ。或いは痴呆の戯言だ……っ!!)
キャロルは這いつくばりながら、朽ちた瞳でヴィルヘルムを睨め付けた。視力は戻っていない。それに目に涙も溜まっている。映るのは水中で目を開けた時のように不明瞭な巨悪の姿で、そこに重なるようにして、実にはっきりとした、神の姿が浮き出ている。
(この男は、自らの我見で真実を捻じ曲げ、権を握ろうとする穢らわしい悪党だ。この男は、駆け引きに無関係の人間を撃って、自分勝手に味方をも虐殺する悪党だ。それが、私の親だって?)
キャロルは親に会おうと思ったことはない。
貧民街での暮らしに満足していた。
だが孤児の宿命であろうか、やはり心奥には『親と触れ合えなかった寂しさ』と『いつかは親と巡り会うことがあるかも知れない』という抗い難い期待が確かに存在していたようで、その事実にもキャロルは狼狽している。それだけでも泣きたくなるくらいだった。
本来親無しでは生きることの出来ない、人間という弱い動物の、悲しい性だった。
(認めるものかッ! そんなの、認められるものかッ!!)
神リュカは石黄の髪を吹雪に靡かせ、口辺に僅かな笑みを浮かべた。この表情を見て、ヴィルヘルムの発言は嘘でも冗談でもないことをキャロルは理解した。
「……私は信じないッ!!」
キャロルは狂犬の如く歯を食いしばり、涎を垂らし、ふらりと立ち上がる。燃えるような息を吐き、毛を逆立てて、再び迫る──が、脚に襤褸になったローズマリーが、ぐいと攀じ登ろうとして、それでキャロルは躊躇した。
「ローズマリー……?」
そして不意に割れ鐘のような声が響いた。
「ヴィルヘルムッ!! ヴィルヘルム・マーシャルッ!!」
キャロルはハッとして顔を上げる。ヴィルヘルムの背後、クリストフ五世率いる大白亜派騎士7人が並び、一斉に剣を抜いた。
「ここまでにしておけ。とうとうボケて味方を殺すなど、正に失笑噴飯よ。儂が直々に癲狂院へぶち込んでやるわ」
ヴィルヘルムは振り返ることなく、耳を意識するように首を傾げて、時を止めたように立ち尽くした。その含蓄ある挙措と静かな背中が強者であることの説得力を産み、騎士達は攻め倦む。上手く説明は付かないのだが、近づいた瞬間に真っ二つになる様子すら想像でき、吹雪の中でも汗が噴き出た。
攻め倦ねた間、たったの10秒。今度はキャロルの背後から、鉄臍を装着した馬のパサパサと雪を蹴り進む音が聞こえ始める。
「ちぃっ! バカクソがッ! なんと間の悪い……ッ!!」
余裕なさげに悪態をつき、クリストフ五世はその方を目で威嚇した。
白く烟る中から現れたのは騎馬隊。数にして一両25人余の少数だった。翻す旗は5本、全て同じ図案で王都派正教軍のもの。率いるのはアリス・ミルズで、時折咳いて口から血を散らしながら、片手で腹を押さえ、苦悶の表情を浮かべて手綱を握っていた。
そしてがらがらと血の痰を絡ませながら叫ぶ。
「聖下をお救いしろッ!!」
アリスは落馬するようにして下馬。次いで騎馬隊は馬上で前装式銃を構え、それら全てをキャロルへと向ける。
「何をしておるッ! 守れッ! 光の聖女を守るべしッ!!」
呆気に取られていたリューデンの騎士らは、同じく作戦に参加していた銀鴉の騎士団副将フリッツ・カッセルの一言で目を覚ました。各々剣を抜き、キャロルの背中を守るようにして壁になる。一方で巫女衆も手を広げて密集し、ヴィルヘルムの前に立ちはだかって、輝聖を守ろうとした。
それでキャロルは焦ったように言う。
「みんな、退いてくれっ! 私はヴィルヘルムを斬らなきゃならないっ!」
脚元を見て、
「ローズマリーも。頼む」
しかし空聖は首を横に振った。
「どうして……っ!」
ローズマリーは折れない。首を横に振る。──キャロルは万全ではない。今この満身創痍の状態で、しかも冷静さを失ったままに戦えば、万が一の事態というものも起こりうる。世界が光の聖女という最大の希望を失えば、残る道は破滅しかないのだ。
だから聖女ローズマリーは、あの静かな雪の日の朝のように、キャロルに寄り添おうと思った。
キャロルがバラバラになってしまわないように。或いは、何処か遠いところに行ってしまわないように。キャロルがキャロルであるように。そして、決して私と同じにならないように……。
「あなたが……、誰の子供であるとか、私には関係ない……」
焼け爛れた瞳が僅かに揺れた。
「キャロルはキャロルだから……」
ローズマリーは力が抜けてしまって、ばしゃりと浅い池に襤褸の体を倒した。
「ローズマリー……」
その痛ましい様子に呟いて、キャロルはローズマリーを抱き起こす。
「学園でいつも1人でいる私を気遣って、話しかけてくれていた、優しいキャロルのままだよ。私はそんなキャロルが大好き」
キャロルは目を見開き、肩で息をしていた。意表を突かれたと言わんばかりに呆然とした。
『── あなたが誰かにやって欲しかったことを、あの人にもやってあげて』
ローズマリーの耳に、神門でのユーフェミアの言葉が蘇る。だから、たとえキャロルの体を抱きしめる腕が一本足りなくても、あの朝のように、ローズマリーはキャロルを抱きしめようとした。
「大丈夫。私がそばにいるから。私がいつだって、キャロルを守るから」
アリスは2人の様子に警戒しながらも、半ば這いつくばるような形でヴィルヘルムへと寄った。
「……聖下。郭の前に、ファルコニアの軍勢、数にして二軍(25000人)が、神門に囚われた空聖を救うべく押し寄せています。其々が顔に血化粧を施し、血気凄まじく、尋常ならざる仕儀に相成ります」
「空聖が王都にいることは秘匿されているはずだが」
「理由、定かならず」
空聖が魔弾で撃たれた翌日、翊衛軍の将エレノア・アシュリーがファルコニア伯爵領に鳩を放った。外圧で己らの過ちを正して欲しいと、願いを込めての事だった。
「大白亜派ジャック・ターナーとフレデリック・ミラーがなんとか宥めておりますが、ファルコニア伯爵は光の聖女を信じている由に御座います。輝聖を傷つけ捕らえたと知られれば、厄介至極」
不死鳥の攻撃により、王都派正教軍も余力を残してはいない。キャロルも直に傷を治すだろうし、ファルコニア伯爵領軍が彼女に味方をし、正教軍より王都を解放したと高らかに勝利を宣言されれば、光の聖女の名が轟く。
「この状況を打開する手立ては3つ。まず空聖の無事をファルコニアの軍勢に確かめさせること。次にリトル・キャロルをクリストフ五世に引き渡すこと。そして、不死鳥討伐という輝聖の功績を、聖下の御威光で全て帳消しにされますよう」
言って、アリスはキャロルを見遣る。心の中で『勘違いするな』『お前を助けたわけではない』と忠告をする。主人にとって、それが最良なだけだった。
吹雪の中、みなが口を閉ざした。リューデンの騎士は剣を強く握り、王都派はぴたりと銃を構える。巫女達は震えながら盾となり、大白亜派は息を荒ららげて剣を構えている。誰かが少しでも動けば、破裂しそうな気配さえあった。だが、その凍てつく程の緊迫も、密やかに話す2人の聖女を侵すことは敵わなかった。
「──約束、覚えている?」
キャロルの焦げついた頭では、それを上手く思い出すことができない。
「雪が解けて、春が来たら、苺を摘みに……」
鍋の焦げが剥がれるようにして、頭の中で情景が露わになった。学園の庭園。今日よりも乾いた雪が、疎に降っていた。辺りは細雪で白く烟って、学園の院さえも影にしていた。周りには誰もいなかった。
その中で何を考えて座っていたか、正直に言えばよく分からない。己を守るために、脳がぼやかしてしまったのだと思う。覚えているのは、ただ、果てしない悲しみだけが海のように広がっていて、その先がない事だけだった。
色も音もない世界に、ローズマリーは現れた。
「苺を摘んだらジャムを……」
何を言うでもなく、そっと隣に座ってくれた。それがどれだけ嬉しかったろう……。
キャロルは目からぼろぼろと涙を流し、きゅうと声にならない声を漏らしながら、力強くローズマリーを抱きしめた。
※※※
聖暦1663年。朔風二十六夜。
突如として王都に襲来した不死鳥は、水晶の印章に封じられた。王都派の記録によれば、之は空聖ローズマリー・ヴァン=ローゼスによる大成果であり、大白亜派の記録によれば、輝聖リトル・キャロルが空聖を導いて救世を成したものであった。
何れにせよ聖女が災厄を退けたことが公にされ、双方が布教戦に利用したこともあり、鶺鴒一揆の影響
で聖女が否定された地域に於いても聖女信仰の隆盛が見られた。
不死鳥を封じた印章は、リューデン公爵領内の荒地に作られた方尖柱に安置された。『荒地の針』と名付けられ、王都派、大白亜派共に之を聖地と定める。但し守護聖人は異なり、王都派に於いては風の聖女ローズマリー・ヴァン=ローゼス、大白亜派に於いては光の聖女リトル・キャロルとされた。
各地で復活した封印の獣は、聖女が其々を征伐、若しくは再封印を行った。正教会が分裂した『南北教会』の時代とともに幕を開けた天変地異は、不死鳥の封印と共にある程度の収まりを見せ、その頃から天に張り付いた彗星は青い空に溶けたと記録される。
※※※
大白亜では、不死鳥が封印の獣を蘇らせたその意味について詮議が尽くされた。しかし、不死鳥が輝聖と同じく『生命の力』を使用する事も争点となり、非常に難航。挙句『神の意見を聞く』として学者が寄って集って大真面目に籤引きまでやる始末であった。
大白亜派の神学者ジャック・ターナーは大白亜には戻らず、輝聖と共にリューデン公爵領に滞在。祈る事に努めた。その中で空を観察する事にも精を出し、風の中でも雪の中でも空を見上げること10日間、鴉が決まって東の瘴気を目指すことに気付く。瘴気付近の街では鴉の死体もよく降った。
また、安置されたリューデン公爵ヒューバート・ダーフの亡骸の頭が勝手に東を向くことから、これを瑞祥として大白亜に通達。『東から瘴気に入れ』と啓示が出たものとして捉えた。
クリストフ五世は王国東部、大白亜派プラン=プライズ辺境伯領ウィンフィールド近郊に砦の建築を命令。そこを拠点に、年を跨いで聖暦1664年、雛豆の作付を待って、光の聖女による瘴気の祓除を行うこととした。
之が人類が初めて瘴気の中に足を踏み入れたとして名高い『瘴気進攻』である。
□□
ヒューバートが客死した3節の後。美城クイーン・アイリーンの聖堂で列福式が執り行われ、リューデン公爵ヒューバート・ダーフは致命者として認められた。大白亜派による致命者とは即ち、輝聖の正義を立証する事を代償に、自らの命を捧げた者の事を言う。
その後、午後16時30分。ニューカッスルの街にバグパイプの音が響いて、ヒューバートの功績を伝える為の行進式が行われた。光の聖女リトル・キャロルを先頭に、騎士や貴族は其々遺品を持つ。従騎士により、枯れ果てた植物の絡んだ鎧と、羚羊の変わり兜が竿に掲げられ、それは暮れなずむ空の色を映した。
小山に建つ城の客室、エリカは1人窓辺に立つ。街の中央、惜しむようにゆっくりと流れる列を見下ろしていた。貴族の娘なのだろうか、寂しげな列には蝋燭を持っている婦女子も少なからずいる。それが豊作祷を思い出させ、心悲しい。
部屋に扉を叩く音が響いて、銀鴉の騎士団副将のフリッツが入ってきた。
「エリカ殿、出立の支度は整いまして御座る」
行進式が終われば、キャロル含め大白亜の全勢力は公爵領を出る。聖地巡礼を兼ねながら聖都アルジャンナへ向かい、特別な用が無ければこのニューカッスルの街に戻ることはない。
「結局、領主殿のお妾は参列されなかったようですな」
これはイザベラの事を言っている。
「妾ってわけじゃないらしいですよ。契りを結んでいるわけでもないらしいですが」
「複雑怪奇な関係に有らせられますか……。男女には間々あることです」
「殆どご飯も食べず、魂が抜けたように水薬を眺めています。椅子に座って、一日中……」
キャロルはヒューバートが所持していた『陸上災獣誌』に記された調薬方に従い、不死鳥の血を使った『不老不死の水薬』を完成させた。量にして半吧(約280ml)程しか出来ず、瓶に半分に分けて、1つはヒューバートの棺に入れた。もう1つは形見にと、一番親しかったであろうイザベラに渡された。
「まこと聞きにくいのだが、文献の通り不老不死になりましょうか、その水薬は」
少しの間があって、
「キャロルさんは、きっぱりと否定していました」
「まあ、そうであろうな……」
領主が無言で帰還して直ぐ、イザベラは倒れた。動揺から来る貧血と思われて、施療院に運ばれた。それでキャロルが診たが、顔も白く、足の裏がまだらに青くなっていたことから、魔法や薬ではどうしようもないほどに病が進行しているものと所見した。体の中に幾つかの腫瘍があるのだろう。不治の病、つまりは癌であった。
「多少の薬効もあるかも知れない、とは言ってましたけど、どうでしょう……」
エリカは自信なさげに言う。手巾に含まれた程度の血では、確と効能を確認できるほどの量は作れなかった。
「キャロルさん、延命出来ないか探ってました。それでも、奇跡でも起きない限り、多分、春を迎える頃には…….」
フリッツは気落ちするエリカの隣に立ち、同じように隊を見下ろした。
「真っ直ぐですなぁ、輝聖は。他人の為にいつも一生懸命で、なのに報われぬ」
目線の先には、馬上、堂々とリューデンの旗を掲げる光の聖女がいる。
「芥場に捨てられ。孤児として育ち。厳しい環境に生きたと思えば、唐突に聖女として見出され。故郷との別れを強制され。やっと掴んだ平穏も束の間、学び舎からも追い出された。それでも挫けず、世界の為にと立ち上がり、激しい戦いに身を窶す。世の為人の為、不死鳥のような鬼畜の怪物を命辛辛倒したとて、褒められもせず、包囲されて銃まで向けられる。その上、己を抹消せんとする宿敵が血の繋がった実の父ぞ。なんと寂しい事か……」
フリッツは声を詰まらせる。
「某は言葉が出ぬわ。神は残酷である。輝聖だから重い宿命を背負わされておるのか。それとも、人の象徴たる者、生きにくさの全てを背負うべしと仰せなのか。そこに理屈があるならば教えて欲しいものである。輝聖と言えど、まだ18の娘であろう。あんまりにも、これは、あんまりにも……」
エリカは話を聞いていて、思った。……焚木の中に燃える鵲。やはりあれは、ヴィルヘルムとキャロルの関係を暗示していたのだろう。
「ご自身も辛い思いをしたはずだが、恨みつらみは一言も申さず。リューデンの騎士らの前では主人を死なせて済まなかったと、丁寧に頭を下げて……。それでも堂々と旗を掲げ、胸を張るそのお姿に、涙が出る」
──エリカはキャロルと再会してから、あまり言葉を交わせていない。
死者の王を倒した事は、もちろん直接報告した。キャロルは喜んでくれたし、必ず倒せると信じていたとも言ってくれた。
でも、その報告をする時には既に王都で何があったのかを耳にしていたから、鬱悶として余裕がなかった。キャロルの言葉に何と返したのかすら、殆ど覚えていない。かける言葉が見つからないとはこの事かと遅れて無力さが込み上げ、1人になった時に膝を抱えた。
「今後は我らも忙しくなろうな。鶺鴒一揆を経て、大白亜派が立ったお陰で、正教会内の敵味方が見事に分かれた。その影響もあり、彼奴等はある種の盤石さを手に入れたものと思う」
なお、王都は不死鳥の閃光による被害が尋常ではない。フリッツが思うに、鶺鴒一揆で疲弊した王室だけでは復興敵わず、王都派正教軍の協力無くしては成せないだろう。翊衛軍が謀反を起こして、神門を占拠した影響もあり、王室の威光がさらに薄れていく事は必定。ヴィルヘルムが信仰と国を牛耳り、神となるのも遠くはない。
「……いや。そう仕組んだのやも知れぬな。もはや、全てが偽神の掌の上なのやも知れぬ。既に我らは、神の掌を離れたのやも知れぬ」
寂しげに呟き、そして縁起でも無いことを口走ったのを拭い去るように、少しばかり前向きになりそうな話へ変えた。
「輝聖は瘴気の中へ行くと聞き申した。そこにお仕えしたいと我儘を言うたところで、某のような凡人には着いて行けますまい。だが其方は違う。輝聖の従者は凡人に非ず」
そしてエリカは涙で赤くなった目で、静かに、囁くように、真情を吐露した。
「私、凡人ですよ」
「そのような事は……」
「いいえ。私は聖女のように神様に選ばれていません。だから、焦っちゃうんです。キャロルさんの為に何かをしなきゃ、って。じゃないと無価値になっちゃうんじゃないかって。私、キャロルさんを物差しにして、自分がどう見えているかを、いつも気にしています」
長い吐露だった。
「この感情はある種の呪いだと思います。キャロルさんの隣という特定席にいる以上は、避けられない罰なんです。きっとこの先も、完全に払拭することは出来ません。今までそれを認めるのにも怯えていた気がするけれど、今日はもう、認めてしまいます。キャロルさんの隣にいる事は、私の大事な絶望です」
何故だろうか。吐露していく毎に、胸の奥で引っかかっていた大きくて重い石が、すうっと溶け出していった。
「フリッツさんは私を凡人でないと言ってくれるけど、身も蓋のないことを言えば、この世界は『聖女かそれ以外か』だと思います。私の存在があるからって、キャロルさんの背負っているものを半分にすることは出来ません」
目線を落として、ちょっとだけ笑って続ける。
「別に拗ねてる訳でも不貞腐れてる訳でもないですよっ。悲しいは悲しい。……でも、私、そろそろ割り切らなきゃいけないんだ」
敗北宣言にも等しい吐露はエリカを癒した。自分の中で何度も消化する事を試みた無力感は、不思議なことに、自らの醜さを認めることで失せた。背中に羽が生えたかのような気さえして、とにかく胸が軽い。
「割り切った上で『それがどうした!』って言えるようになって、それで初めて、私はキャロルさんと対等になれる。他の聖女に負けないくらい、強くなれる気がするんだ」
言葉を紡ぐ毎にエリカの瞳は輝き、赤の色は澄んで冴える。瞬きをする度に別人になっていく少女の姿に、フリッツは呆然とした。──あまりにも静謐で神聖な覚醒だった。
「あと……、私はもう、世界が神様の手を離れたっていいんだと思います。偽神なんか怖くないです」
「なんと。怖くないと申されますか」
「はい。キャロルさんの良心に報いることで、自分の正しさを実感できる気がするから」
「良心に報いる……」
「私、いい人になりたいんです」
僅かな間があった。そしてフリッツは耳心地の良い言葉に喜びを覚えながら、窓の外、再びキャロルの姿を追った。
「……いい人か。輝聖も『いい人』になりたいと願っていると聞いたことがある。そうかぁ、『いい人』か。確かに、人が目指すべき場所として、これほど適した言葉もあるまい」
感慨深そうに言うのを聞いて、エリカは赤面した。
「こましゃくれた事を、すみません。その……、キャロルさんの真似をしました」
「いやいや、目から鱗が溢れ落ち申した。河海は細流を択ばぬ」
呟くように続ける。
「……ならばエリカ殿は、どんなことがあろうとも輝聖から離れぬよう。瘴気の中にまで引っ付いて行き、お支えくだされ。それが従者の役目でありましょう。エリカ殿は必ずや輝聖の孤独をお救いになる」
□□
キャロルは街の目抜き通りの中央で馬を止めた。列の後方が遅れ始めたと報告があった。
暮相の空、遠く、山々が白く霞んでいる。火山灰ではなく、土埃や花粉だろう。
「──もう、春が来るんだ」
立春過ぎて麋角の節、小望月、天気晴朗。南からの風10海里。
キャロルは霞む山々を見つめたまま、煙草を咥えて火をつけた。
□□
イザベラ・バークスは水薬を飲み、期せずして死病は根治した。
□□ 苺を摘んだらジャムを 了 □□
4章はここまでです。長い間お楽しみいただきありがとうございました。
また、ライトノベル.jp様 人気投票「好きラノ2025上」で不良聖女の巡礼が3位となったようです。
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