失敗
文化広場に複数の騎馬が雪崩れ込んだ。掲げた旗は刈安で染められ、図案は聖杯に浮かぶ十字。大白亜派正教軍である。クリストフ五世は噴水から離れた場所に馬を止め、眉間に皺を寄せて白い息を吐き出す。
「ハッ。ものの見事に囲まれておるわ、キャロルめ」
クリストフ五世はヴィルヘルムが動く事を読んでいた。その為に要所で王都派正教軍を待ち伏せ、戦闘に及んだ。辛くも勝利したが、この様子を見るとヴィルヘルムは別働隊を動かしていたらしい。陽動だった。
「やれやれ、あの老耄のことはよう知っとるつもりだが、やはり一枚上手。キャロルが王都に来ると山を張っただけじゃあなく、儂の動きまで読んでいたか」
ヴィルヘルムもまた、神の意思を読んだのだろう。
「ここは自分が突貫してお救い致します」
騎士レジナルドが剣を抜く。
「ええい、待て待て。下手に刺激するな。ズタボロのキャロルに魔弾でも撃ち込まれりゃあ大事だ。……待っていれば必ず好機が訪れる」
一方でキャロルとヴィルヘルムは相対したまま動かず、祁寒に凍りついたようであった。
キャロルは肝が爛れる程の沈黙の中で、言葉を探していた。ヴィルヘルムは何を考えているか分からない。ただ黙している。さて、どう口を開くべきか。問いたいことなどは万万にあるが──。
「……王都に罷り越したこと、平にご容赦願いたい」
そしてヴィルヘルムは言った。
「空聖をこちらへ引き渡し、ご同行頂きたく存ずる」
包囲された今、キャロルに残された選択肢は僅かである。
「分かった。空聖はお返しする。だけれど、私にはやらなきゃいけないことがある。ここで降りるわけにはいかないんだ。ご勘弁願えないか」
ヴィルヘルムはそろりと右手を上げ、手信号で発砲を命じた。僅かな間の後、銃兵がリューデンの若い巫女に狙いを定めて腹を撃ち抜く。巫女は後ろに吹き飛び、水飛沫を上げて倒れた。浅い池に血が広がってゆく。周囲は蒼惶として尻餅をついた。
「──!」
流石のキャロルもこれは予想できず、言葉を失う。自分に魔弾が放たれるものと思って身構えてはいたのだが。
「動揺なされたな」
ヴィルヘルムは小揺るぎもせず続ける。
「貴女は忌まわしき力を持とう。手負とはいえ油断はならぬ。その額に魔弾を撃ち込もうとも、理外の力が働き、生きながらえる事もあるやも知れぬでな。故に周囲の人間から撃たせたが、中々如何して付け入る隙があるようで、安堵した。これ以上犠牲を増やしたくなくば、軽挙妄動は構えてお慎みいただく存ずる」
キャロルは銃兵の動きに神経を尖らせながら問う。
「教えて欲しい。何故、光の聖女を抹消しようとする……?」
首飾りを持ち上げる。
「原典に存在しないから、という答えはなしだ。大元はここにある。これにはリュカの血が入っていて、確と光の聖女の存在も記されている」
その首飾りは吹雪の中でも照葉の如く燃えて輝いていた。誰が見ても霊験灼然な聖具である。正教軍の内、何人かはそっと黒目を動かし、ヴィルヘルムの顔を見遣った。
「輝聖の存在を消す理由如何によっては投降しよう」
襤褸のようになったローズマリーが止めるように縋る。
「キャロル……」
「良いんだ。私は知りたい。私が抹消されなくてはならない理由を」
そしてヴィルヘルムは乾いた唇で語り出す。
「貴女の存在は、この愚僧にとって、ひどく囂しい」
正教軍の兵らは意外に思ったのか、僅かに目を丸くした者もいた。教皇は大元の原典に関して、否定しないのか? ならば光の聖女は本当は存在していて、意図的に存在を打ち消したと言うこと?
「──軽挙妄動はお慎みいただきたいと、お伝えしたはず」
キャロルはぴたりと動きを止める。ヴィルヘルムの答えによっては不意を突こうと、池に沈んだ『小ブルーノの青銅剣』にそっと手を伸ばそうとしたが、軽く指を動かしただけで容易く悟られた。この老人は盲のはずだが……。
「驚かれるのも無理はない。この膿んだ目には闇ばかりが広がるものと思うのは普通のこと。先までの貴女と同じようにな」
どうやら、目が焼けた事すら見通しているようだった。
「貴女は闇の中に、何を見た?」
唐突に問われ、キャロルは気抜けした。
「何を、見た……?」
「左様」
今は僅かに視力が戻ってきているものの──。
「何も見えない。真っ暗だった」
「違う」
ヴィルヘルムは被せるように言った。
「暗闇が広がるのは副次的な事象」
「それは、どういう……」
「闇とは知覚に左右されない大いなる本質によって生み出されよう」
続ける。
「思うに、闇は本質が生み出すものの内、最も純度の高い世界である。光が関与せぬ。毫も雑念がない。故に貪欲に闇を覗けば、本質の息遣い、本質の香り、本質の視線をも感ずるものと心得よ」
「本質……?」
「難しい話はしておらぬ。──世界の本質とは神であろう」
キャロルは息を浅くする程に、その話に耳を傾けていた。
「世の全てが神の掌の上である。海も、風も、火も、山も、光も、闇も、神の霊寵である。そして我々は神の慈誨に身を窶し、神の齎す希望に支配されて生きる。そうではないか?」
その意味を理解できるのは、キャロルとローズマリーだけだった。
「某の膿んだ瞳には、神しか映らぬ。沈澱する闇の中、年毎に僅か1吋しか動かぬ波の随に首が漂う。手を伸ばしても届かぬ。問いかけても答えぬ。神のみが某を見つめている」
額を指差す。
「時が経って、遂にここに神が棲まった。そうなれば分別が付かなくなり申す。果たして某は己の意思で生きるのか、将又、神に操られる傀儡となったのか。更に老いも進めば、その危機感さえも失い、追って自我をも失うであろうな……」
表情を変えず、死人のような面のまま、
「世も同じこと。尽る中で自我を失い、凡ゆる幸福も絶望も、神の恩寵となり申した。──貴女はこう考えたことはないか?」
「え……?」
「この世は果たして、今のように神のみの世界であったか? 不自然とは思わぬか?」
キャロルは言葉が出なかった。
「其々の尊厳はどこにある。木々は何の為に揺れ、鳥は何の為に歌う。雲は何の為に流れ、山々は何の為に幽かに烟る。海は何の為に煌めき、何故我々は今を生きる。全ては神のみの為、全ては神の掌の上か。貴女はどう思われる」
「それは」
言おうとしても、やはり言葉が続かない。
「思うに我ら人間は失敗したのだ。神を信じ、神に祈り、神を愛することで、その威光は増しに増し、何千年もかけて、丁寧に丁寧に失敗したのだ」
ヴィルヘルムは徐に自らの爪を剥がして、雪に落とした。
「そしてこの愚僧も同じく失敗したのであろうな。痴呆なりに己が本心を披瀝 するならば──」
ぽたぽたと血が落ちて、雪が丸く赤く染まる。
「──この世界を神から解放し、正そうとするのではなく。神の衷心を察するでもなく。ただ己に残る自我を証明するためだけに、こんなにも神になりたい」
雪に落ちた爪が黒く燃え、そこに胎児の脂肪で作った石鹸をごとりと落とした。
「やめろ」
キャロルが静かに言った時、魔法は発動した。唐突に正教軍の兵と巫女の首が飛んだ。強烈な呪詛で体が首を拒絶、血が噴き上がって吹雪に血煙が巻く。神に成り代わろうという真意を知ったからには、一人も生かす訳にはいかなかった。
異変を察したキャロルは十字を切って聖域を展開、不死鳥の為に聖塩を辺りに散らしていた事で、池の中の者は何とか無事。だが首を飛ばした敵兵に驚き、巫女などは裂帛の叫びを上げて、中には失禁する者もいた。
「有り体に言えば、この老いさばらえた手に全ての権を集約させたい。この愚僧が死ねと命じれば全ての人が死に、この愚僧が生きよと命じれば全ての人が生き生きと生を謳歌する。誰にとっての光であり、誰にとっての闇である。── 瘴気を祓い、救世を成し遂げ、某は神になりたい」
そしてヴィルヘルムは耳に神経を集中させるようにして、僅か首を傾げながら、ローズマリーの方へと顔を向けて言った。
「聖女は瘴気を祓えば用済み。忠を尽くして報いは求めるな。文弱の身で良い人生であったと、感謝せよ」
キャロルはぎゅうとローズマリーの手を握り、声を強張らせて言う。
「それでお前に協力すると思うか」
「応じぬでも良い。ならば皆で共に瘴気に飲まれて死ぬるのみ」
我慢の限界だった。キャロルは残った力を振り絞って、ぐんと地を蹴る。『小ブルーノの青銅剣』を手にし、ヴィルヘルムを縦に両断せんと迫った。
ヴィルヘルムは手にした杖──実の所、仕込み刀であるが──をそろりと頭の上に翳し、指一本分だけ刃を抜いて、振り下ろされた剣を防ぐ。瞬間、衝撃波が広がって雪が霧散した。
「気ぶりめ……ッ!! お前はここで斬るッ!!」
「気ぶり……?」
キャロルは力を込める。だが、きりきりと刃の擦れ合う音がするだけで、仕込み刀を断つ事が出来ない。正確には小ブルーノの青銅剣は刃に達しておらず、仕込み刀に刻まれた雲文、星宿文による重力の魔法が、已の所で跳ね返していた。この妖刀の名を『竹鞘の杖刀』。作られてから今日に至るまで500年、数多の要人の命を守ってきた、矛にも盾にもなる大業物で、人の贄を捧げることでより力を増す刀だった。
「その通り、某は狂人である。久しく人の道から遠のいた」
── 股鋤があれば。
キャロルは背後を気にする。崩壊した噴水の何処かに紛れているとは思うのだが。勿論探している余裕はない。焦燥が胸の奥で滲む。
「だが、貴女も同じ。万事同じ」
「何が……っ!」
ヴィルヘルムは目を見開く。膿んだ瞳が露呈した。
「神という本質に触れ続ける以上は、貴女も狂人となる! それが運命というものだ!」
「私は違うっ!!」
キャロルは隻腕だから力が足りないものと見て、身体強化を付与。さらに魔力を増大させ、押し切ろうと試みる。2人の魔力が干渉し、周囲に鞭のような稲妻が走った。
「何が違うものかッ!! 物の文色の分からん子供がッ!! ──その体に、同じ気ぶりの血が流れているのを感じぬのか、フェリシアァァアッ!!」
キャロルは癒着しかけた瞼を破り開けた。燋爛した黄金の瞳は、老人の膿んだ瞳と同じ色をしていた。
次で4章は終わりになります。最後までお付き合いいただけますと幸いです。
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