大浪漫
ヒューバートは不死鳥へ駆けた。その鳥の魔物は威嚇するように6つの羽を広げ、体を大きく見せるばかりで動きが鈍い。好機だった。
──キャロルは不死鳥を芯から凍らせるだろう。
不死鳥が凍結すれば、血は取り出せまい。肉を鋸で削ぎ落として鍋で茹でることも考えたが、豚や牛の肉が凍ると風味を失うように、不死鳥の血も一度凍ってしまえば薬効を失いはしまいか。なぜ生き血を摂らなかったのだと、後で臍を噬んでも遅かろう。
だから危険は承知で駆ける。別に斃ったとて構わない。勿論生きているに越したことはないが、命などは惜しくない。それ程までに不死鳥の血が──不老不死が欲しかった。
作戦『春の目覚め』に於ける冷却は、飽くまで体温を下げる事が目的。翼に打ち付けられた聖杭を、自力で抜かせない程度に力を奪い、未来永劫生き血を摂る算段だった。
だが最早当初の作戦に固執する段階ではない。不死鳥は究極の魔物だった。血を摂るなど以ての外。手段を選ばず、今すぐ無力化しなくては世界が滅びる。……そんなことはヒューバートにも分かっている。だが、世界の命運を天秤にかけようとも、そうするわけにはいかなかった。
(印章は奪えた。血を摂る前に封じられることもあるまい。あとは俺次第だ。俺が上手くやれば──)
不死鳥は真っ赤な目をぎょろりとヒューバートへ向けた。迫り来る生々しい野望の気配を、無視することが出来なかった。
そしてケンと鳴き声一つ上げると額を左右にぱかりと割って、海鼠宜敷く触手を生み出した。それはしゅるしゅると撓りながら伸びて、ヒューバートを薙ごうとする。
すっと鋭く息を吸って、ヒューバートは公爵家に伝わる聖具『小ブルーノの青銅剣』を抜いた。研ぎ澄まされた神経、上下左右、触手が何処から来るか手に取るように分かる。岩をも切り裂く名剣で次々に断つ。
(良い集中力だ。恐れも不安もない)
──不老不死は浪漫だ。
以前、キャロルの前でそのように宣ってみせた。勿論嘘ではない。だがそれ以上に、この迷信にも等しい『不老不死』という怪しげな四文字に縋るしか、他に方法がなかった。
「!」
不死鳥は火を噴いた。黄昏の入江のような、金の炎だった。ヒューバートは避ける間がなく、真っ向から突っ込む形で灼熱に飲まれる。だが、足は止めなかった。黄金の中を愚直に突き進んだ。体から木々が芽吹いて鎧が弾け、口や鼻から芋虫が躍り出る。
(何も聞こえない)
瞬刻の間に、黙の世界に入門した。目の前に広がる光、その中を流れゆく大小に煌めく粒子。感覚も麻痺してきているのであろうか、地を蹴る感覚が足に伝わって来ず、宙を走っているような気もした。高揚感に満たされて、痛みも感じない。
一方で頭は冴えているから、炎に飲まれて痛みがないのは、どうにも妙だという理解はあった。そう言えば、戦士が魔物に囲まれた時、興奮が極限にまで達して恐怖感が麻痺し、死を恐れぬ狂戦士へと覚醒するのだ、と聞いたことがある。それに近いのだろうか。
(であれば俺は、死に向かって走ってるとも言えるな)
死を意識すると、記憶の断片がふつふつと浮き出た。それは例えるなら、眠りに落ちる前に僅か顔を出す、繋がりも脈略も曖昧な、しかし確かに経験したことに基づく淡い夢幻に近かった。
若い父の声。当時の傅役の顔があって、城の中庭に生えていた木々が風に揺れ、乳母の匂いがした。時も場面も総てめちゃくちゃ。……成程、これを走馬灯と言うのか。とヒューバートは感心してみせた。小説のようにはっきりと経験を甦らせるわけではないらしく、つまらぬとまでは言わないが、少し残念に思う。
漸く、まともに場面を追体験する。定められた人生を歩むことが嫌で、癇癪を起こし、部屋の扉を蹴り破った。尖った木片が脹脛を裂いて、皮膚を縫って水薬で治療をしてもらった。あれは痛かった。
やがて、水の涼しさが風に乗って吹いた。雨上がりの真昼時。暗い森、夏の光は届かない。馬宿の近くにあった吊り橋の上で、がおと大きな音を立てて流れる川を、じっと見下ろしている女がいた。身を投げようとしているらしい。
目の前で死なれては後味が悪いので『見張っているぞ』と雰囲気を出して横に立ち、同じように川を眺めた。すると人恋しかったのだろうか、イザベラはぽつぽつと自分のことを話し始めた。
聞いてみれば、まあ、何のことはない。都会で娼婦をしていて、その美貌のおかげで見事貴族の妾となったが、身籠ったのを理由に捨てられ、堕胎したらしい。よくある悲恋話だが、それが切っ掛けで二豎に冒されたのは悲劇だった。
子宮のない女はからりと笑って言った。
『楽園はどこにあるのかしら』
『さあな。この世界のどこにもないさ』
『──じゃあ瘴気の外にあるのね』
少しくらいは慰めてやるか、と上から目線でその女を買った。女はイザベラと名乗った。本名かどうかは分からなかったが、彼女を抱けば抱くほどに、兎角俺という人間の空っぽな様を理解させられる。俺は彼女を満たせず、彼女にとって俺はどこまでも客だった。
イザベラの病には薬は効かない。魔法も意味を成さない。貧血に倒れる事も多くなったから、直に死ぬだろう。だが、不老不死の力が手に入れば、イザベラを救えるかもしれなかった。
情けない事に、当の本人は俺が不死鳥の血を手に入れようとする本当の理由を知らない。未だに伊達や酔狂でやっていると考えている。そしてイザベラは今なお、心奥では、忘れるべき男を慕っている。情の深い女だと思う。
さて、空け者よ。そんな女の為にどうして躍起になる? 意地か? ある種の悋気か? それとも愛か? 答えは自分でもわからないが、イザベラのために命を懸けたという確固たる証拠が欲しいことだけは確かだった。
「見えた……ッ!」
ヒューバートは白昼夢を馮り、炎を抜けた。籠手に仕込んだ射出機から鉄線を射出。先端の鉤針が不死鳥の喉元に食い込む。次いで留め針を抜いて発条を解放、巻上げ機が作動して、引っ張り上げられるように高く跳んだ。
勢いそのままに、不死鳥の首元に剣をずぶりと刺す。灼熱の血が噴き上がる。それは酸を含んでいるのだろうか、鎧や鉄線が一瞬で腐食して、血塗れのヒューバートは背中から落下し、池の水が跳ねた。──高く天に突き上げた左手、ぎゅうと握った手巾は真っ赤に染まっている。素晴らしい! 十分に不死鳥の血を吸っているではないか!
「やった! 俺はやったぞ、イザベラッ!!」
不死鳥は血を噴き出したまま、錯乱して頭を振るった。そして巨大な嘴をヒューバートに叩きつけようとした。
「一緒に瘴気の中に楽園を探しに行こうぜ。楽しみだな」
だが、ヒューバートは面頬の下で目を輝かせながら、血の含んだ手巾をまじまじと眺めていた。避けるような気配もない。
そして嘴が彼の体を木っ端微塵に散らそうという時、一陣の風が吹いてヒューバートを攫った。空聖ローズマリーだった。不死鳥が頭を振ったことで上体が起きて、下敷きになっていた所を抜け出すことが出来た。
ローズマリーは襤褸のような体を風に乗せ、ヒューバートから生え出た木蔦に噛みついて掬い上げた。もう左肩と左腕しか残されていなかったので、それが精一杯だった。最中に鎌風を作って、彼の手首に括られていた嚢橐を破る。きらりと水晶の印章が光って、それは風に乗って放り出された。
その先にはキャロルがいる。陶瓦に根を張った樫の義足を折り、ヒューバートを追って高速で滑空していた。
キャロルは放られた印章を掴むと、陶瓦に顔を埋めた不死鳥の瞳に、飛び込むような形で印章を押し付けた。刻印が成され、封印の魔法が発動する。不死鳥は物語の中へ帰っていくようにして、不条理にも巨体をバキバキと折り畳み、ものの数秒で小さな印章の中へと入ってしまって、完全に姿を消した。
キャロルは池に滑り込んだ。ざばんと水が高く上がる。その後、立ちあがろうとして2度ほど倒れる。力がもう残っていない。残った足も腕も震えている。聖女は精霊と同化を始め、無尽蔵の魔力が湧き上がるものとされるはずだが、それでも再び義足を作り出すことさえ能わない程に疲弊していた。
結局赤子のように四つん這いになって、爛れた瞳が見せる滲む世界の中を多少彷徨いながら、ローズマリーの下に寄った。
「無事か、ローズマリー……っ」
そして1呎(30cm)程度の浅い池に沈むローズマリーを引き上げる。空聖もまた魔力切れを起こし、襤褸の体からは赤い血が滴っていた。
「あの人は……、無事……?」
少しの間を置いて、キャロルはその方を向いた。
ヒューバートの至る所から木々が生え出ている。それが根を張り、体は池から持ち上がっていた。まるで羊実草。奇妙な果実となったヒューバートの口からは絶えず芋虫が湧き出て、何匹かは美味しそうに緑の葉を食んでいた。
「いや」
キャロルはそれだけを言って沈黙した。彼はもう息をしていない。出し抜かれた挙句、死なれた。
エリカを人質に取るような真似をして、不死鳥の捕縛を持ちかけた、強かな男。見方によっては傲慢で、飄々として掴みどころのない一面もあったが、頭が切れ、理解も早く、領主としての手腕は確かだった。
「これがお前の言う、浪漫だったのか?」
彼が印章を盗んで駆け出した時、怒りや焦りの念は湧かなかった。ただ、妙に背中が大きく見えた事に驚いた。不意を突かれたせいでそう見えただけかも知れない。しかし、なんと言えば良いか、決して軽々しくはない覚悟がそこに滲んでいた気がした。
不老不死を手にしたい理由を浪漫だと語っていたが、本当か? 遅すぎる疑問、それを確かめる術はもうない。即ち、憂いを着地させる場所もない。雑に投げ出されたよう。
不死鳥の姿が消えたことで、周囲で祈っていた者らが醜怪的な果実の側に集まった。マン卿が震える声で『奇怪な』とだけ漏らして、それ以外に誰も口を開くことはなく、吹き付ける雪風の音と鉄漿の如く黒い体液が流れる音だけ聞こえていた。
キャロルはヒューバートの手から落ちそうになっていた血塗れの手巾を取り、絞ってしまわないよう丁寧に畳んで聖鎧の胸に仕舞い込む。
そしてローズマリーが掠れた声で言った。
「キャロル、何か嫌な気配が来る……」
「うん、分かってる。弔いは後だ」
風の音に混じって、ざくざくと雪を踏み鳴らす音が聞こえた。次第に音は大きくなって、幾重にも重なる雪の帷の向こうから、人影が列となって浮かび上がる。やがてそれらは銀と純白に艶めいた。
キャロルは爛れた目を細める。霞む目にも、それぞれ身に纏うのが精巧な彫り物の成された鎧だと分かった。精鋭部隊である。
「正教軍……」
王都派だろう。数にして一旅(500人)の軍勢は噴水を取り囲むように静止。銃兵が前面に出て、残りの兵は抜刀。
間も無く、杖を持った1人の老人が、ゆっくりと、ゆっくりと、キャロルと相対するようにして兵らの前に出た。次いで、馬印を持つ兵、軍旗を手にした旗持、香炉を手にした巫女衆が恭しく老人の背後に並ぶ。
キャロルは小さく呟く。
「ヴィルヘルム・マーシャル」
学園に在籍していた頃に何度か見る機会はあったが、こうして正面から向かい合うことなどは初めてであった。
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