不死鳥(前)
「不良聖女の巡礼 3上」が6/25に発売されました。
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翠の旋風が不死鳥を飲み込んで、どれほどの時間が経ったろう。長い長い夜があって、景色が白んでも太陽がすぐに顔を出さず、ひどくゆったりと時が流れているようにヴェラは感じていた。
時が粘度を帯びて体に纏わりつくと、思い出す。まだずっと幼い頃。恐らくは4歳位じゃないかと思う。山羊の乳を売りにいくと言って家を出た母親が夕方にも帰って来なかった。夜になっても、朝になっても帰って来なくて、目を開けたまま横になって帰りを待った。母親が魔物に襲われて2度と帰らないと分かると、時の粘りは取れた。
葬送のバグパイプが流れて、近場に住んでいた老婆が涙ぐみながらも励ましてくれた。『夢でお母さんに会えるよ』。結局、夢で母親に会う事は一度もなかった。どんなに大好きでも、会いたいと泣く夜があっても、そんな事は関係なく、人というのは余りにも呆気なく、忽然と消えてしまうものなのだと知った。今では母親の顔も定かじゃない。
数時間前、夜半となった時に、漏斗状の竜巻から金の杖が落ちて来た。空聖が持っていた聖具だった。それは幾つかの建物を破壊して、65呎(20m)四方の凹孔を生み出した。杖は中央に刺さっている。
理外の力により、王都付近には生息するはずのない、況して雪の日に見るはずのない鮮やかな蝶や大きな蛾が杖の周りに集った。それも寒さですぐに死に、凹孔の中心には田植えでもされたかのように蝶の翅が雪から顔を出して、雪風に靡いている。もう新たな蝶は寄って来ない。
王都の空を埋め尽くしていた小翼竜の群れは消えた。竜巻に巻き込まれたり、兵らや冒険者によって粗方倒されたらしかった。だから全ての兵が病の民衆に混じり、固唾を飲んで竜巻を見上げていた。
──どうか、空聖が不死鳥を倒せますよう。そして空聖が無事でありますよう。
ヴェラは祈り続けた。途中、翊衛軍が凍えながら見守る民衆にスープを配るなどしたが、ヴェラは口をつけなかった。跪いて一心に祈り続けた。
聖女らしく整えていた髪は解いていた。神門から抜け出した時点では殆ど乱れていたけれど、少しばかり残った体裁まで廃した。彼女の事情を知らない兵や民衆も『聖女なら空聖と一緒に戦え』とは言わなかった。ヴェラの弱々しく祈りを捧げる姿が、どう見ても貧困に喘ぐ庶民と同じだったから、皆自ずと彼女を聖女とは見なくなっていたし、それに言及する者もいなかった。兎に角、皆が皆、空聖の身を案じていた。
『風が弱まっていないか?』。そう誰かが呟いたのを聞いて、ヴェラは恐る恐る目を開けた。天から衣が垂れているような竜巻の、雪を巻き上げる様、言われてみれば力なく感じる。それを認めると、竜巻はふらふらと頼りなく揺れ始めた。
──不死鳥を倒した?
思って瞬時、逆の可能性があることに気がつく。
──まさか聖女が、負けた?
そう考えたのはヴェラだけではなかった。風が鎮まってゆくのを感じ取った者の殆どに、その不安が頭に過った。……王都を焼いた怪鳥。あれは王城から放たれた世界最大の砲『アリアンロッド』の直撃を受けても蘇った。その魔物が、1人の乙女によって倒される姿が庶民には想像できない。だからこそ、多くの者が風を見守り、縋るようにして、夜通し神に祈りを捧げていた。
ああ、風が解れてゆく。ヴェラは神妙な面持ちで立ち上がり、巻き上げられた雪に閉ざされた風の中を見ようとした。そこにいるのはローズマリーなのか。それとも火の鳥なのか。
揺らぐ竜巻、糸巻きが解かれてゆくように風が霧散するのが見える。みるみるうちに勢いを失い、風の中が露になる。
──現れたのは、燦然と輝く怪鳥であった。
竜巻を囲っていた誰もが呆然とした。喋る者は誰もいなかった。足も動かず、吹雪の中で怪鳥が羽ばたき煌めくのを、全員が見つめていた。
(負けた……?)
決して認めたくない、最悪の結果。空聖の姿はない。あまりに呆気ないほどに、人は忽然と消えてしまう。ヴェラはさあと血の気が引いていくのを感じた。
「いや、まだだ。まだ、猊下は戦っている……!」
隣でフォルケが呟くのを聞いて、ヴェラは涙で滲む目を擦る。
「──!」
大帆船ほどある火の鳥の、その首元、襤褸のようになった空聖ローズマリーが、灼熱の肉に大鉈を刺し、取り付いている。
しかしローズマリーの下半身はない。千切れ飛んでいた。雪風に垂れた臓物が靡く。常人なら生きていない。聖女でも痛覚はあるから、気を失うほどに痛いはずだ。そんな姿になってもローズマリーは戦おうとしている。あの全てから目を背けていた少女が、諦めていない。
「勝て……」
ヴェラは叫ばざるを得なかった。
「勝てッ! ローズマリー・ヴァン=ローゼスッ!! あんな鳥1匹に負けんなッ!」
肩で息をして、天に向かっても叫ぶ。胸に去来するのは空聖の瞳の中の遥かなる哀愁。わけもなく泣きたくなる瞳だった。
「この野郎……ッ! 見てんだったら返事しやがれッ!! お前が選んだ聖女だろうがッ!!」
息を深く吸って──、
「もしローズマリーを殺してみろッ! 私は……、私はお前をぶっ殺してやるからなッ!!」
叫び尽くして、雪雲がぼんやりと虹色に輝いた気がした。突如として七色が帯となり、極光が発生した。次いで流星のような、きらりとした何かが空を切り裂いて、火の鳥に衝突した。
バツンと布が千切れるのに似た音があって、衝撃波が球になって広がる。火の鳥が興奮して金切り声を上げ、周囲にキラキラと真っ赤な羽毛を撒き散らす。花火のよう。
ヴェラは呆然とした。何が起きた。まさか天に啖呵を切ったから、神が意地になって火の鳥に対して攻撃をした? 流れ星を降らせたのか?
いや、違う。火の鳥の背中に人影。
「人が乗ってる……?」
その者は鎧を身に纏い、手には槍のように柄の長い武器を手にしていた。そして白く煌めくその武器を、鳥の背に突き立てているように見える。
「だ、誰……?」
「まさか──」
フォルケなどの霊感のある兵は揃って勘付いた。彼女から滲む聖の気配が尋常ではない。煌々と光が満ちて見える。それは原典から消え失せたとされる唯一無二の聖人であると認めざるを得なかった。
「光の聖女か……っ!」
輝聖キャロルは股鋤を不死鳥の背に深く差し込み、取り付いた。内部から極光で焼いてしまって、不死鳥を硫黄に変えようと考えていたが──不死鳥は首を180度ぐるりと回転させ、鳩のような熟した目でキャロルを凝視。その凄まじい圧に思わず躊躇した。
(──コイツ)
危機感が瞬時に膨らんでキャロルの体を縛り付けた。全身から汗が噴き出る。身の毛が弥立ち、手足が急激に冷えて、呼吸が浅くなった。
(マズい、思っていたよりも幾分強い……ッ!)
──羽毛の下、肉が沸騰するように隆起し、股鋤を押し返そうとしている。
キャロルは今日まで様々な魔物と戦い、勝利を収めてきた。5人の聖女の中でも実戦に長け、特に魔物を相手にした場合は基本的に常勝、右に出る者はいない。そのリトル・キャロルが、魔物に臆した。
自分でも分かる。己に備わる猿人の時代からの野生が甦り、『死ぬぞ』と警告してきている。悪寒に悲鳴を上げたくなる。……もう十分だ。理解した。不死鳥フェニックスは生半可な魔物ではない。他の魔物と比べても格が違うのは明らかで、果てしなく危険だ!
「ローズマリーっ!!」
キャロルは青い顔で、不死鳥の首元にしがみ付く空聖に叫んだ。空聖の限界はとうに超えている。下半身がないから丹田は消し飛んでいるし、体に残った魔力の滓だけでへばりついてるようなもの。指は炭化していて、布が水を含むように黒い部分が侵食していくのが見える。このままでは、不死鳥の体温だけで炭になってしまう。炭になって風に消し飛べば、聖女と言えども蘇る保証はない。
時間がなかった。キャロルは鋭く息を吸い、聖具に魔力を送り込む。刃の先端から極光を発生させ、遊色の帯で不死鳥を内から腐らせる──。
(手応えがない……ッ!)
腐敗しない。それどころか、不死鳥の体は春濤のように煌めき出す。刹那、キャロルは金の炎に包まれた。生命の力に裏付けられた、命の輝きの火であった。体の至る所から茂茂と藤が芽吹く。急速に成長し、蔓が体を締め付けてゆく。
炎の中でキャロルはエリカの言葉を思い出していた。第三聖女隊の書簡を持った鳩の骸、その中身は全て芋虫に変わっていた──、そしてキャロルの口から大量の刺蛾の幼虫が湧き出た。
(私の魔力を吸収している……ッ! 私が赤き竜の炎を吸収したように、コイツも私の魔力を吸収する……ッ!)
不死鳥の血を取る?
生捕りにする?
馬鹿な事を言ってはいけない。
今すぐにこの魔物を封印しなくてはならない!
(だが、ここから挽回する方法はあるか……っ!?)
膏肓に芋虫が入った今、このままでは脳まで芋虫になる。
1分も経たぬ内に脳漿は虫の体液になり頭蓋の中を満たして、脳の皺の一つ一つが模様を帯び、臓器を生み、脚を生やすだろう。
そうなれば私は私ではなくなる。
冷静にものを考える事ができるのは、きっと30秒が限界。
(……私が死ねば、世界は瘴気に飲まれる)
炎の中で呼吸はできない。ああ、水の中のよう、耳も聞こえなくなってきた。薄れゆく意識の中で、キャロルは勝利への糸口を探った。
(だが、神は滅亡を望んではいない)
絡みつく藤がキャロルの肋骨を何本か砕いた。痛みはなかった。
(神はリュカであり、もうリュカでない)
恐らくは筋肉が芋虫に変わって、力も入らない。
(人間の意志の融合体。混ざり合ってしまった。リュカの記憶と人格を持つ、いわば殻だ)
瞳が焼ける。ぼやける景色の中、リュカの顔が浮かんでいた。痛ましい生首の姿だった。それは不気味に、そして美しく、燦然と輝いていた。
(私は、それって、ちょっと寂しいと思う。お前も確かに、瘴気の外に楽園を見たい1人だったはずなのにね)
全てはリュカの小さな嘘から始まった。
彼女はいつも孤独だった。だから、同じく孤独を味わってきた奇形達と少しでも打ち解けたいと思った。その為の、純一で幼気な作り話が原典で、今では世界の希望となっている。
私たちは、生まれるずっとずっと前から、優しい嘘の方舟に乗って、ここまで来た。
(敢えて、人としてのお前を信じる。私は諦めない。だから、私に力を貸せ)
幻の中でリュカは微笑んだ。
その時、希薄なリュカの向こう側に気配を感じた。吹雪の帷の先に、目では見えないが、感じる。──数哩先の『赤目王の大門』から、何頭かの騎馬が怒涛のように押し寄せているのを。
先頭を行くのは羚羊の変わり兜を被った将。2人乗りをしている騎馬まであり、巫女も相当数王都に入った。猛吹雪の中を強引に突き進んだにも関わらず、脱落者、逃亡者はなし。距離的にも規模的にも間に合うはずのないリューデン公爵領軍大隊が、完璧な状態で王都に到着した。
「ローズマリーッ!! コイツを地に叩き落とすッ!!」
キャロルは全力で魔力を放出した。もうここで枯れても良いと思うほどだった。
不死鳥はキャロルの魔力を吸う。だがキャロルも力の限り、不死鳥の体の中で極光を炸裂させ続けた。吸われようと、関係ない。畢竟、吸いきれない程の光で、不死鳥の体を満たしてやればよい。そうすれば、いつかは体を腐らせるはずだ。そして内から翼を硫黄にすることが出来れば、地に落とせる。
ローズマリーもまたキャロルの叫びに応えた。眦を決して、全ての魔力を放出する。死を前にして脳の一切が覚醒し、額から光を発した。両耳からは電離が迸り、ぴしゃぴしゃと血が弾ける。垂れ出る臓物が魔力で焼け切れて、中に巣食った芋虫と一緒に落ちてゆく。そして空聖は破壊的な下降気流を発生させた。
差し込んだ股鋤、その根本から極光が帯となって出てきて、激しく暴れた。帯はキャロルを貫通。体、特に柄を持たない右半身、腕も脚も溶けて散った。残った硫黄が青く、どこまでも青く浅く淡白に、幽玄な光を放つ。これでは体が保たない──、が──、感覚的には──。
(あと……、もう一押し……)
キャロルは叫ぶ。
「リュカぁぁあああッ!! 私は瘴気を祓うッ!! 私を生かせッ!! 私を殺すなあああッ!!」
王城で第二王女ソフィアの命により、最後に残った『アリアンロッド』の一門が火を噴いた。不死鳥に放たれた砲弾は防護壁に阻まれて直撃こそしなかったものの、魔力を消費させる事に成功。ついに不死鳥の両翼は腐って千切れ飛んだ。
「ヒューバーーートッ!! ヒューバート・ダーフッ!! やれぇええーーッ!!」
翼を失った不死鳥は、黒煙を纏って落下を始める。
大通りを駆けるヒューバートにも、それは見えた。雪風の中で、何かが激しく明滅しながら地に落下していく。そして発煙筒に着火。火花を散らすそれを掲げ、合図。
「機会は一度っきりだッ!! 失敗は許されんぞッ!!」
背後の騎馬隊は各々十字を切り、石灰の袋に穴を開ける。凍結の魔法陣を記す準備を始める。
「──これより、『春の目覚め』を開始するッ!!」
「不良聖女の巡礼 3上」が発売されました。
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