襲来
時は遡り、夜の帷が下りる頃。王都神門、建材部屋に没薬の香りを纏わせた数人の兵が入って来た。その内ほっそりとした若い兵がヴェラとローズマリーの前で恭しく片膝をつき、言う。
「お2人とも、どうかお立ち下さいませ。そして、私たちと共に来てくださいますよう」
ヴェラは撃たれたはずの腹を気遣い兵を睨め付けたが、その後に続いた言葉を聞いて僅か耳を疑う。
「──我々と共に、国家の安寧をお祈り頂きたいのです」
「祈る?」
さて、どういう了見か。仮にも聖女2人──まあ己は影武者なのだが──を傷つけ、しかも放置しておきながら、祈らせる? 背景が見えない。不穏だ。安易に従って良いものか……。
(いや、待てよ。この部屋から出られるのか……?)
だとしたら、これは適さかの好機とも見れる。祭服に仕込んだ武器を使えば或いは、神門を抜け出すことが出来るかもしれない。例えば従順なフリをして兵の油断を誘い、首を掻き切る。もし将が出てくるのであれば、人質に取るのも一策か。
「……断ったとて、無理に連れて行くのでしょう? 従いましょう」
幸にして、錯乱していたローズマリーも今は落ち着いている。ヴェラは覚悟を決めて、ローズマリーを優しく立たせた。
□□
2人は兵らに囲まれながら、暗い階段を上る。その中でヴェラは攻撃の機会を探ったが、やはりと言うべきか警戒されていて、兵らは常に腰の長劔に手を添えていた。簡単に逃してはくれない。
(こうなりゃ我慢比べだな)
人間の集中力が保つのは精々15分程度。待てば必ず綻びが生まれるはず。
(さて、私に続いて一暴れしてくれりゃ助かるんだが……)
後方、ローズマリーの顔色を見る。目は虚ろ、ぼんやりとしている。覇気も生気もなく、憔悴していた。
共に過ごしたことで、空聖は魔弾に蝕まれているだけでなく、精神的に追い詰められているのが分かった。果たしてそれは聖女の重圧か、それとも心の傷によるものか。とにかく部屋の隅、暗闇を見つめるローズマリーの目、取りも直さず気触りの眼光は、己に幻想すら見せるほどの霊力があった。あれを見れば彼女が普通でないことは莫迦でも理解できる。何があったかは知らないが、無理はさせられない。咄嗟の判断も阿吽の呼吸も、期待はできないだろう。
言うまでもないことだが、己の命よりも彼女の命の方が重い。万が一の時には私を盾にして、ローズマリーだけでも走って逃げてほしいが、果たして上手く行くだろうか……。
□□
階段を上り切れば、建材部屋のあった7階よりも1つ上の階層である。天井はなく、いつ頃から天候が荒れ始めたのだろうか、吹雪が吹きつけていてヴェラは刺すような寒さに顔を顰めた。ここは屋上ではないが、8階部分に相当する建築途中の階。その為、壁はあったりなかったりで完全に四方を囲まれておらず、吹き曝しに近い。
中央には巨大な篝火が揺らめいている。捕えられていた神門の巫女や聖職者、それから神門で治療を受けていた第三聖女隊の内ある程度動くことが出来る兵らが輪となって火を囲み、一心不乱に祈らされている。この雪風の中でも没薬の甘い香りがしていた。相当な量を焚いているらしい。
2人を迎えたのは翊衛軍の将兵ら数名、中でもクラーク・エジャートンが目を爛々とさせ、勇んで寄ってきた。
(血を浴びている……)
軍服が赤黒く染まっている。印象的だったあの清潔感、行き過ぎて完璧主義すら彷彿とさせる怜悧さは失せた。目の下に隈を作り、窶れた顔、色も悪い。髪は乱れて艶がない。しかし目だけは輝いていた。頭の中の糸が切れたような危うげな気配。アリス・ミルズを刺した冷徹の将と同一の人物とは思えない。
(この顔を見りゃ、コイツらがどんな状況なのか分かるってもんだな)
ヴェラは緊張を顔に滲ませる。
「両猊下、お待ちしておりました」
クラークは2人の前に立つと威儀を正し、痛々しいまでに凛々しく、しかし明るく続けた。
「ご存じの通り、今、国家は未曾有の危機にあります。凡ゆる災厄が降りかかり、民草もまた疲弊しておりしょう。こうした時こそ、我らが神の僕であることを示すべきと、真理を得たのです。さあ、聖女様。共に安寧をお祈りくださいませっ。神から授かりし聖にて、我らの声を神にお届けくださいませっ」
万事休す、どうやら神に縋る以外に彼ら翊衛軍が出来ることは何もないらしい。ならば、上手く誘導したい。
「分かりました、祈りましょう。ですが、私たちの治療が先です。貴方の腰に下げたその鍵で首輪を外し、空聖の魔弾を除きなさい」
私たちに寄れ。寄ったところを斬る。
「安寧のお祈りが先にございます」
「聖女を殺すつもりですか」
「いいえ、祈れば完治致します。何故なら聖女は世界を太平へと導く存在です。即ち、国家安寧は聖女があってこそで、聖女のない世には訪れんのです。神の真心が、必ずや、お2人の傷も癒やしましょう」
仮面のような笑み。この吹雪の中で瞬き1つしない。気でも触れたか。
「もちろん私たちも謹請し奉る。さあ、篝火の下へ」
そしてヴェラは篝火の側に目を向け、慄然とした。
「──!」
乙女が4人、裸で正座させられている。手足は麻布で縛られ、寒さに体を震わせながら涙を流している。ヴェラにはその内の2人に見覚えがあった。以前に一言二言の言葉を交わしたに過ぎないが、確かに彼女たちは神門の巫女、その中でも特に年少の女子だったと思う。
「まさか、生贄」
漠然と国家安寧の為に祈れと言い、しかも贄まで用意しているのか。祈りの強さを示すためにそうする事もあると聞くし、穢れのない初潮前の処女は贄に適していると知ってはいるけど、あまりに残酷。思わずヴェラは5秒、6秒と、息をするのも忘れた。……彼らをそこまで焚き付けるものは何か。立場か、執着か、我執か。焦燥だけが先行して、迷走しているとしか思えなかった。
瀕死の空聖もまた慄然とし、目を大きく開けて、瞳を震わせた。
──死ぬためだけに生かされている。
彼女たちの姿が、故郷の、名前を思い出すことの出来ない、あの子たちと重なったような気がした。足が動かない。石になってしまったよう。
「こちらへ」
クラークはローズマリーの腕を強く掴んだ。
「いや……」
ローズマリーは青い顔で首を横に振る。贄の彼女たちに近寄りたくない。
「何をしておいでです。国家と王家の為にお祈りを」
「嫌だ……!」
「何故嫌がるっ! あなたは聖女でしょうっ!! 国の為に祈り1つ捧げられないのかっ!!」
クラークが勢いをつけて、ぐいと腕を引いた。ローズマリーは前のめりになり、べしゃりと力無く倒れる。その恐怖に歪む彼女の表情を見た時、ヴェラの手は胸の隠し小刀へと伸びた。守らなくてはならないと思った。
跳び、回転しながら横一閃。目にも留まらぬ早業。小刀はクラークの喉を掻き切った。
「……っ!」
花が咲くように血が迸る。
(浅い……っ!)
ヴェラは苦々しい表情で着地、思ったより深く斬れなかった。これでは致命傷にならない。
相手が並大抵の騎士であれば深傷も負わせられたが、クラークは厳しい訓練を重ねた翊衛軍の将。瞬時に体が反応し、刃を逸らした。そして、本能で反撃。ヴェラの髪を掴んで腹を拳で打つ。
「ぐっ!」
前屈みになったところ、顔面を蹴り上げる。ヴェラ鼻血を噴き出して激しく転がり、将兵らは息を呑んだ。篝火を囲む者たちも祈るのをやめて、その方を見つめた。
蹲り、腹を抱えて震える海聖の姿を見て、将の1人が言う。
「手負の聖女様に、なんて事を。貴様、度がすぎるぞ、クラークっ!」
しかしクラークは答えない。首から流れる血もそのままに、ただ黙って、ヴェラの腹を打った拳をじっと見つめていた。──妙な違和感。海聖の腹に魔弾が撃ち込まれてから数日と経ち、祭服は血で固まっているはずだが、布の強張った感触が拳に伝わらなかった。
違和感としては些細な部類に入る。だがとある予感をさせるには十分過ぎた。クラークは全神経を集中させてくんくんと拳を嗅ぐ。意識の全てを鼻に憑依させるので、舐め回すような仕草であったし、半ば白目も剥いていた。この様が気味悪く、将兵らは何事かと沈黙する。
「ああ、何だ……。僅かに、僅かに臭うのは……、鉄? いや臙脂虫の臭い……」
クラークは宮廷魔術師である。月のない夜にも孜孜として勉学に励む。真っ暗闇でも薬剤を手にする必要も当然あり、臭いで目当てのものを探し当てる能力も自然と養われた。それでなくとも光によって効力を失う魔法素材もあったりするので、宮廷魔術師は職業柄、臭いには敏感になるものだった。
「印気かなぁ……」
くんくんくんくんとしつこく嗅ぎ続ける。そしてビスター伯爵夫人が付着させた鉄の臭いをすり抜け、印気の臭いを嗅ぎ取った。まるで犬の嗅覚。
「……!」
その呟きが聞こえて、ローズマリーは全身から汗が吹き出た。──どうしよう。替え玉であることに気づかれてしまったかも知れない。
クラークは蹲るヴェラに寄り、髪を引っ掴んで体を持ち上げた。そして赤く染まる腹をぎゅうぎゅうと雑に揉む。
「怪我をしていないな。今までのは芝居か。そもそも俺のような兵に腹を打たれて倒れる程度のお前は聖女なのか? なあお前、本当は誰なんだ?」
ヴェラは痛みで息をするのも儘ならない。口も効けない。頭の中は煩雑だ。狼狽していると言っても良かった。──肋骨が折れた? 内臓が破けた? 殴られるのってこんなに痛かったんだっけ。野山を駆けなくなったから筋力が落ちたかな。違うな、やっぱり翊衛軍は只者じゃないんだろう。
ああ、視界の隅にローズマリーが見える。潤んだ目をして、私を見つめている。何かを言いたげに、口をぱくぱくさせて。成程、私を助けようとしているが、きっと体が動かないのだ。その姿を見れば心がきゅうと締め付けられた。
しかし何故、神は彼女を聖女としたのだろうか。こんなに痛ましく、か弱い彼女を。もっと他に適した人はいるはずなのに、まったく残酷だと思う。
(ええい、もう一度隙を作ってやる。聖女を逃すんだ)
決意するけれど、いい案が思いつかない。酸素が足りない。意識が弛緩してゆく。
(逆転の一手がどっかにあるはずだ……)
痛みで手足も痺れている。仮に痿疾に罹ったらば、このような感じになるのだろうか。
(くそっ。偽物でも、私は聖女だろうが……っ! 気合い入れろ、泣き言を言うなっ!)
太腿に隠した鎖分銅がある。それでクラークの首を締め上げれば──。力を振り絞って、脚に手を伸ばした時。ふいに、クラークの背後、ぼんやりと光が見えた。
(痛みで目までおかしくなって来たか……?)
いや、失神するほどの痛みは何度か経験してきた。確かに目の前は明るくなるものだけれど、ぼんやりとした光が見えると言うよりは、ちかちかとした光が散らばるのに近い。まるで花火のように。……ならば、あの光はなんだろうか。神が迎えに来た?
「おい、聞いているのか。お前は誰だ」
クラークが再度問うが、返答はない。ヴェラはどこか1点を見つめている。疑問に思っていると、背後からふんわりとした光が差して、2人の影が伸びていった。振り返れば吹雪の中、あるはずのない日輪が輝いている。他の将も、兵も、輪となる巫女も聖職者も、贄の乙女たちも、それぞれ顔を上げて幻の太陽を見つめた。
「火の鳥」
その光の正体を知る者は、ローズマリーだけだった。
「──火の鳥が私を追いかけてきた」
そして閃光は放たれた。見事な夕焼け空を思わせる、真っ赤な光だった。その場にいる者の影が色濃く浮き出て、床に輪郭を残す。次いで熱風が壁となって迫った。勘の良い将兵らは防護壁を張るなどして防御したが、炎の風はそれをも破壊し、数名が燃えて転げた。巫女や聖職者らは対処できず、木の葉のようにひらりと吹き飛んで、約7割が神門から落ちる。
クラークもまた防護壁を張って熱風を防いだ。しかし理外の光は壁を抜けてクラークの突き出した右腕を焼いた。皮膚が焼け爛れて煙を上げる。
「……何だ、今のは」
理解が及ばなかった。光が照って、一瞬のうちに壊滅。見渡せば巫女達は燃えて転げ回り、倒れている将兵らもいて、酸鼻である。そして己の爛れた右腕からは何某の植物が萌芽していた。見たことの無い魔法である。遅れて激しい痛みが襲い、クラークは腕を押さえた。
「な、何の魔法だっ。今の光は何だ! どこから現れたッ!!」
腕を捥ぎ取りたくなるほどの痛みに膝をつく。
「まさか神か。神自ら、我らに罰をお与えになっているのか……」
次いで、熱風に投げ出されて倒れたヴェラを睨みつけた。
「お、お前が神の子に化けるから……っ!」
ヴェラの体はクラークの防護壁によってある程度は守られていたが無事ではなく、壁が遮らなかった両脚が焼け爛れ、煙を上げていた。足底から縦に裂かれるくらいの痛みがあって、立つことが出来ない。もはや自分の足が存在しているかどうかすら分からなかった。痛みに悶えながら、燃える床、炎の中で蠢く芋虫の群れを見る。痛みで幻想が見えているのか、もしくは本当に炎の中で芋虫が蠕動しているのか。
一方でローズマリーは反射的に防護壁を張り、それは純度が高かったので無事であった。ただそれでも、血に濡れた祭服には蔦が絡んでいた。
恐る恐る、香箱のように折り畳んだ体をゆっくりと起こす。ぶちぶちと蔦が千切れる。震えながら王都上空で燦々と光る一点を見上げた。
「あ、ああ……っ」
光の中央に鳥の影。それは優雅に、嫋やかに、翼をはためかせている。間違いない、見紛うはずがない。やはり、火の鳥だ。
「ダメ……。あれには勝てない……」
不死鳥の出現は、即ち壊滅。フォルケ・セーデルブロムが各領の手練れを集めて編成した常勝無敗の第三聖女隊ですら敗走したのだ。
──なんとかしなきゃいけない。
あれを野放しにしては危険だ。瘴気の到来を待たずして世界が滅ぶ。
──みんな死んでしまう。
こんな腑抜けた私を必死になって治療してくれた、優しくて心の強いヴェラも、フォルケのように全身が膿むだろう。或いは、次の閃光で体毛1つない黒焦げの塊となって転がるかも知れない。
──あれをやっつけなきゃ。
でもどうすれば良い?
私の知る限り、究極の魔物だ。
意味不明な魔法を使い、しかも死ねば蘇る。
それをどうやって倒すのだ。
──勝算がなくたって、やらなきゃいけない。
ならば、誰がその役目を担うのだろう。
誰がそれを出来ると言うのだろう。
──私は?
え?
──私、ローズマリー・ヴァン=ローゼスは?
私が?
──聖女でしょう?
私には出来ない。
──また逃げるの? 永遠に蹲り続けるの?
聖女たる資格がない。
──資格って?
資格は、資格だ……。
──それは誰が決めるもの? 誰の意思によって与えられるもの? 実存しない『資格』を引き合いに出して、逃げることの口実にしているだけじゃないの?
「違うッ!! 私は聖女じゃないッ!!」
叫んで心の中の問答を断ち切った時、王城の方面から激しい光が放たれた。神門に向けられていた世界最大の砲門『アリアンロッド』が不死鳥を相手に火を噴いた。
5門の砲から放たれた砲弾の内、2つが不死鳥に直撃、爆発。強烈な呪詛の炎が不死鳥の体を蝕み、そこを目掛けて雷が落ちた。残る3つは街中に落ちて、生き物のような赤黒い炎を上げる。
効果があったか、火の鳥は金切り声を上げ、王城に向かって突進。幾つかの塔を薙ぎ倒しながら、嘴から火炎を放射。この攻撃で3門のアリアンロッドが爆発炎上、武器庫か或いは装填中の砲弾に誘爆して、呪詛の炎が王城を焼いた。
ローズマリーはその様子を青褪めながら見つめていた。
「火の鳥に攻撃をしてはいけないのに」
アリアンロッドは神聖カレドニアが誇る究極の砲門。連射が可能である。残る2門を火の鳥に向けて、もう一度弾を放った。腕の良い砲兵はそれを直撃させることに成功。炎が上がって連続で雷が落ち、火の鳥のけたたましい鳴き声が王都に響く。
「あれは死に際にこそ輝く」
無事な塔から大砲や魔導砲が放たれる。火の鳥は砲弾の雨霰に晒されて徐々に光を失っていく。やがて煙を上げながら、ゆっくりと、王城の側を流れるオブライアン川へと落ちていった。
巨大な水柱を上げたのを見て、倒れていた将の1人が安堵混じりに呟いた。
「や、やったのか……?」
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