偽神(前)
王都大ハイランド南に滔々と流れるオブライアン川に沿うようにして王城は峙つ。第二王女ソフィアとその近臣のパウエルは王城の廊下を急き込んだ様子で歩いていた。向かう先は謁見室である。
──何をしているのだ王は。神門が占拠されてから何日と経つのに、状況が変わらぬではないか。
国王アンドルーがやっていることと言えば、臣下を集めて状況を吟味させ、その後はただ模様を眺めるだけ。宰相から手出し無用と言われていたから今日まで大人しくしていたが、もう我慢ならない。
「我が兄ながら情けない。どういう了見なんだ!」
「国王は決起隊が王家の為に立ち上がったのだと宰相から聞かされ、迷いに迷っている由。果たして倒してしまって良いのだろうかと……」
「奴らは王の僕を殺したのだぞ。挙げ句、聖女まで人質に取っていると言うのに、何故迷うっ! 撫で斬りにして、首を樫に吊るせっ!」
ソフィアが思うに兄アンドルーは駑駘の如き愚図である。何をするにも判断が遅い。王となる時もそうであった。アンドルーが戴冠するしか選択肢はないと言うのに、あれだこれだと理由を並び立てて判断を遅らせる。かといって第四王子にそれを譲る気も無い。
愚図なくせに近臣や従騎士には厳しく、説教に夢中になって職務を放棄することも屡々で、器が小さい。この有事の最中、昨日は紅茶の淹れ方1つで半日も侍女を叱責したと聞く。これは王になる前からそうで、第三王子が城にいた時は意地悪はするわ貶すわで気の毒であったと思う。
そんな兄の唯一の趣味は猫が交尾むのを眺めること。悪趣味な!
「そこ退けっ!」
ソフィアは護衛を押し除け、謁見室の扉を蹴り開けた。部屋にいた者の殆どがソフィアに注目。少しの静寂の後、青褪めて王座に腰を下ろしていた若き王アンドルーが潤けた笑みを浮かべて言った。
「お、おおっ! 安心したぞ、我が妹ソフィアよ! 丁度、お前を呼ぼうと思っていたのだっ」
ソフィアは兄と目を合わせようともせず、唯1人王の前で跪いたままの老人の背を見つめる。
「まさかヴィルヘルム・マーシャルか……」
ヴィルヘルムは杖を付いてのそりと立ち上がり、ソフィアに振り返った。そして威儀を正し、首を垂れた。
目元には大きな傷、誰が見ても盲人であると分かる。顔を上げた後は僅かに首を傾け、右耳をソフィアに向け、静かな呼吸で言葉を待っている。
ヴィルヘルムは教皇となりウィレム7世に改名したが、本来教皇が纏うべく帛御服も肩帯も、権威を象徴する『漁師の指輪』さえも身に付けなかった。変わらず正教軍大元帥の礼装を身につけ、手に持つのも権杖ではなく黒檀の杖であり、凡そ貴人が持つ程度の代物と変わりはない。ソフィアも教皇宣誓に列席したが、その際も教皇冠は頭に載せず、ただ受け取るだけであったと記憶している。
思案していると、パウエルが独り言ちた。
「何の要件だったかは知らぬが、彼奴を謁見室に入れるとは。王も無能であれば、宰相も無能……」
次いで耳打ちする。
「殿下。あの盲は妙だと聞き及んでおります」
「妙?」
「神に成り代わろうという噂を確かめる為、城の者が何度か会うておりまするが、揃いも揃って『神となるに相応しい』と……」
「馬鹿な。本気か」
「呑まれませぬよう」
2人の会話を遮るようにして、王アンドルーは腑抜けたとも苛立っているとも取れるような情けない声を上げた。
「聞いてくれぇ。王城の全勢力を差し出せと言うんだ。ぼ、僕にはどうした良いかまるで分からない。だって僕は王になってから日が経っていないんだ。なあ、ソフィアの賢明な考えを教えてくれっ!」
アンドルーの女々しい声に落胆と憤懣を覚えつつ、ソフィアは不機嫌に口を開く
「教皇聖下御自ら神門を解放されるおつもりと推察するが、その儀には及ばず。ここは王に代わって私が兵を率い、責任を持って聖女をお救いするので、まずはご安心なされよ」
「お、おい、ソフィア! 彼ら神門の兵たちは僕の為を思って剣を取ってくれたのだと、そう聞いているぞっ! それをやっつけちゃって良いのか!?」
「此度の謀叛は王室の不甲斐なさが招いたこと。王室の咎は王室が払拭する。聖下の申し出は有難いが、手出し無用と心得よ」
「ソフィア! 僕は王なんだぞ! 勝手に話を進めるなっ! 言うことを聞かねば、その澄ました顔を泣くまで引っ叩くぞっ!」
「教皇ウィレム7世、ご返答は如何に」
ヴィルヘルムは口を噤んだまま動かないので、ソフィアは切れ長の目で神経質に睨めつけ、続けた。
「ついでに問おう。聖下は神リュカを廃し、その座に着こうとしているのか?」
「その問答は」
「止めるなパウエル。世を統一するのが目的なら、王室はどうしたって邪魔になる。敵か味方か、この際ハッキリさせておいた方がいい。それに何時迄も正教軍に王城を闊歩されては目障りだ。……返答によっては斬ろう。剣を抜いておけ」
言われてパウエルが剣の柄に手を添えた時、
「──殿下」
ヴィルヘルムは口を開いた。そしてゆっくりと開眼し、黄色く膿んだ瞳──瞳だったかどうかすら分別つかない瘡痕──でソフィアを見つめた。その醜悪さにソフィアは身動ぐ。
「殿下と言葉を交わすのは初めてと相成りましょうか。もちろん貴女が幼少の砌には何度もお声掛けしたことがあるのですが……。畏れ多くも、抱き上げた事も一度だけ」
強張るソフィアとは対照的にヴィルヘルムの面持ちは幾分穏やかで、軍人の厳しい雰囲気は微塵もなく、好好爺のようであった。
「美しかった。あのような嬰児は見たことがなかった。まるで名画から抜け出してきたかのようであった。初めて貴女にお会いした時、この麗しい姫が健やかに過ごせる世を作らねばならぬと、身が引き締まったものです」
ソフィアにはヴィルヘルムと会った記憶は無かった。尤も嬰児と言っているから、覚えていなくても不思議ではないのだけれど……。
「さて、この愚僧は見ての通り、目が見えぬ。神に瞳を捧げ奉った」
瞳を神に捧げた? 神を敬っているのか? 苟も神になろうと噂される男が?
「人にとって、斯くも闇の世界は生きづらい。光を失った体は、両の耳と、この鼻とを敏感にした。……殿下は思案の臭いというのは、お分かりか」
「思案の臭い……?」
問い返した時、傍のパウエルが囁く。
「殿下、長く話をするのは危険かと」
ヴィルヘルムにもそれは聞こえたが、聞こえなかったものとして話を続ける。
「人は真心の動物に御座いまする。心に従って考えを巡らし、心に従って手足を動かす。心が病めば体が病み、心が輝けば体も輝く。転じて、心の匂いも体に滲み申す。例えば愛を想う時は甘い香りがして、恐れ悩む時は生臭く、苛む時には冷えた臭いがするもので御座いまするが、──では殿下の疑問に答えましょうか。一体、この愚僧は何を考えているのか……」
ソフィアの背筋に冷たいものが這った。ヴィルヘルムに考えを読まれた。
「正直に申し上げれば、何も考えておらぬのです」
「考えていない……?」
「つらつら惟るに、18年前の冬の日から此処の中身が変わってしまったのではあるまいか」
ヴィルヘルムは自らの額を指さした。
「額の中に貪婪な獣物が巣食うた。その獣物が某に代わって働き申す。有り体に申し上げれば気が触れたのでありましょう」
パウエルが『話を聞くな』と諫言するが、ソフィアは腐った瞳から目が離せない。粘度のある体液の奥に黄金の宇宙が覗いていて、それが神秘の磁力を帯びて、己の顔面を掴んで離さなかった。
「健常を装って生きていることに気がついた時、ついに分からなくなり申した」
「何が……」
そしてヴィルヘルムは歯を見せて笑った。ソフィアにとっては意味不明で、至極不気味な笑みであった。
「──己は人間なのか、それとも魔物なのか」
言って膿んだ瞳をソフィアから離し、謁見室の東に面した大窓に顔を向けた。いつしか猛吹雪となった外、白く烟って何も見えない。そして沈黙が訪れる。
パウエルがぽつりと言う。
「殿下……。光が。光が近寄ってきます」
言われてソフィアは外に目を向ける。真っ白な空間に、燈籠のような光が淡く浮いていた。その儚い光はゆらゆらと上下に揺れ、時折吹雪に流されるように左右に振れ、雪煙に遮られて明滅しながら肥大してゆく。
ソフィアは妖光の中の影を見逃さなかった。左右に伸びる翼、優雅に、嫋やかに、光の中ではためいている。
「まさか、パウエル……。あれは、リューデン公爵から報告を受けている不死鳥か?」
「いやはや、何とも」
吹雪の中の光は羊皮紙のような生成色から、徐々に鮭の切り身の色へ、やがて真っ赤に冴えた血蕪の色に変化してゆく。そしてその光は、菌が周囲を蝕むようにして、じわりじわりと広がっていった。
王アンドルー、宰相、大司馬、護衛、壁際に控える侍従や侍女、即ち謁見室にいる誰もが嫌な予感を胸にし、拳を硬く握っていた。
「来る……」
刹那、謁見室は照った。破滅的な一閃だった。大窓がぱりんと割れて吹き飛び、ほんの一瞬の後、全てを薙ぐ程の熱風と、全てを焦がす程の火炎が謁見室に吹きつけた。王都の砂と塵が熱で硝子になったのだろうか、追って燦爛とした粒を乗せた風が室内に吹き荒ぶ。
幸いにもソフィアは、パウエルが防護壁を張って庇った為に無事だった。王アンドルーに関しては光った瞬間に驚愕して王座から転げ落ち、それが炎を遮って無事だった。だがそれ以外の者は悲惨で、宰相他、護衛の兵や侍女は総じて炎に弾き飛ばされ、壁に体を打ちつけて倒れた。阿鼻叫喚、気絶しなかった者は体に燃え移った炎に驚錯する。
炎が謁見室の遠近から上がっていた。それは生ける炎であり、眩い渦となって激しく吹捲る。そして謁見室に存在するはずのない木々や花々を餌にして、炎はぐんぐんと成長していった。
アンドルーは自らの体に絡みつく無数の木蔦を蒼惶と払いながら叫ぶ。
「ひい!! あ、あれを直ちに撃ち落とせっ!! 僕の命令だぞっ! 誰か!! 早くしないかっ!!」
ソフィアは青い顔をして、倒れ込んだパウエルを抱きかかえた。
「無事か」
「え、ええ。何のこれしき」
気丈に言ってみせるが、右腕を庇うような仕草をするので、ソフィアはパウエルの上衣の袖を捲り上げた。
「──!」
腕がボコボコと隆起し、皮膚を突き破って何かが萌芽している。切り株からわさわさと生え出る櫟木の芽のような……。こうして眺めている間にも、葉は青々と茂り、すくすくと育っているのが分かる。
「な、なんと悍ましい。これが不死鳥の力か……」
ソフィアは辺りを見渡した。生き絶えたであろう者たちの体からは無数の植物が生え、亡骸を持ち上げている。しかも何人かは植物と同化をし始めているようで、亡骸の骨を割る音が不気味に鳴っている。
ヴィルヘルムは炎と塵と煙の中で佇んでいた。膿んだ目を開き、見えるはずのないソフィアを見つめている。老人の背後には、遠く、吹雪の中で不死鳥が輝く。不思議な事にソフィアには、その神秘の妖光がヴィルヘルムと重なり、神々しい輪光を作っているようにも見えた。奇怪だった。
「殿下は1つ、勘違いをしておられる」
「え……?」
「神門を奪取したいのであれば、正教軍だけでも出来ましょう。この愚僧が滅しなくてはならぬのは、決起の翊衛軍に非ず」
続ける。
「──輝聖を弑するのだ」
ソフィアは目を見開く。
「輝聖が来るのか、王都に」
ヴィルヘルムは頷く。
「貴女は第二王女。もっと自由に生きても良いはず。願わくば決して輝聖の運命に巻き込まれませぬよう、そしてどうか狂気に飲み込まれぬよう。1人くらいはまともな者がいなくては、太平が成ったかどうかを確かめる術がなくなり申す」
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