罠
エリカは環状石籬の聖地、アシュリー・サークルの中央に犢皮紙を置いた。そして自らの髪を短剣で切り、それを魔法陣の中央に置く。鯨油を塗して燧石で着火すると、毛束がごおと燃え上がった。
見た目には分からないがこれで召喚術が発動した筈。死者の王が現れるのを待とう。いつかは分からないが、必ず現れる。
エリカは乗ってきた白馬の手綱を引き、それを控えめな石柱にしっかりと繋いで、決して逃げ出さないことを念入りに確認し、顔を上げた。この聖地に初めて来た時は夕日が全てを銅色に染めていたが、荒地に入ってから降り始めた雪が本降りとなって、今日に於いては鉛白の色に染まっている。
どこまでも無限の白が広がる。色が抜け落ちたような平坦な白に、自身を奪われるような気さえして、ひどく心細い。風が吹けば鋭い寒さに自身の存在を確かめることが出来るが、それさえもなければ森閑とした無の世界だった。
──瘴気の中も、この様な世界が広がっているのだろうか。
城の客間、紅茶を口に含んで思い巡らした疑問が、そっと背を撫でた。
一般的に、魔物は瘴気の中から生まれるとされる。魔物は人や家畜を襲う。だがその真の目的はわからない。それが捕食なら生存本能だが、例えば竜のような賢しい魔物は遊びで人を殺す。意味なく獲物を傷つけ、あの手この手で絶望を引き出し、散々遊んで塵として捨てる。
何故魔物は人を襲い、生活を破壊するのだろう。最終的には人の絶滅を目指しているのだろうか。確かに、中には『この世を魔物の楽園にしようとしている』言う人もいる。何にせよ、魔物は人間を破滅に追いやる存在だ。……でも本当に、人が滅んで世界が瘴気に飲まれたらば、そこは魔物にとっての楽園なのだろうか。
教えに熱心な人は『魔物は神が与える試練なのだ』と宣うが、残念ながら神が生きていた時代も瘴気は存在していた禍殃だ。だからエリカは、その説は正しくないと思う。
答えに窮してエリカは灰青の空を見上げた。世が音を立てて崩れ始めた日、目の前に皓皓と輝く鳥が現れた。あの神々しいまでの恐ろしさは、未だ褪せない。神が降ってきたのだと思った。鵲の啓示があってから、またあの鳥が襲いかかるのではないかと心配していたが、そんな気配もない。
もし仮にまた不死鳥が現れたら、どう攻略すれば良いのだろう。不死鳥は光の魔法を使う。自分もあの鳩と同じ様に、臓物を生きた芋虫にされてしまうかも知れない。
「まるでキャロルさんみたいな魔物……」
美しく、光り輝き、生命の力を使う。結局は、魔物も人と同じ……。
「──魔物も人と同じ?」
自分で考えて、自分で問う。力の抜けた、然して意味のない思考が、思わぬところに着地した。意表を突かれた気分だった。
「……」
それについて深く考察する間なく、傍で『ぶるる』と音がした。乗ってきた白馬が身を震わせたのだと思って、その方を見る。馬は首をくるりと捻り、額を逆さにして、真っ黒な目でエリカを見つめていた。股からは滝のように小便と糞が垂れ出て、湯気が上っている。
エリカは瞬時に取り憑かれた事を察し、直様に喇叭銃を握って発砲。聖別された散弾が放たれ、馬の額が吹き飛ぶ。
割れた頭から炎のように蚊柱が上がるが、エリカは全力で馬を蹴り倒し、その体に黒曜の剣を突き刺した。蚊は突き刺した腹からも煙となって立ち上がるが、そればかりで本体は現れない。
「取り憑かなければ、逃げられたのに」
『死者の王』は馬の中で串刺しにされて身動きが取れないでいる。既に勝負はあった。
弱冠18歳にしてエリカ・フォルダンは幾つもの死地を潜り抜けてきた。一度負けた相手に慄くような戦士ではない。そして数々の死地が教えてくれるのだ。賢しい魔物であればあるほどに、奴らは人間の恐怖を引き出そうとする。
魔物は人間を甚振り殺す。亜人や獣人のような矮小な種であればそうではないが、竜などの強力な種はそうした残虐性を持ち合わせている。娯楽として、楽しく元気に人間を甚振り殺す。しかしそれが魔物の弱点でもあるし、それが今日までに人間を滅ぼすことが出来なかった最もたる理由だろう。──つまりは獲物の前で舌舐めずり、油断するのだ。
エリカは蚊柱の中、蚊に全身を刺されながらも足元にボウガンを連射。聖別された短矢が馬の体に穴を開け、血がびしゃびしゃと跳ねた。死者の王の悲鳴か、娼婦の断末魔のような耳を劈く程の悲鳴を上げる。
「……!」
死者の王は苦し紛れに割れた額から黒い炎を噴き出す。炎で聖地諸共飲み込もうとするが、エリカはフランクリン鏡を構えて距離を取った。魔法はエリカに直撃することなく、四方八方に跳ね返る。
馬の中の死者の王は、ひたすらに黒い炎を噴き出すばかりで何も出来ない。やがて炎に巻かれて蚊が燃え落ちる。次いで馬の体から骸骨の手が6本程にょきにょきと生え出て、鎌をブンブンと振るうが、やはり串刺しになっているため、それだけ。離れた場所にいるエリカに当たるはずもなく、ただ虚しく足掻き続ける。
エリカは刃砕きに聖水を垂らす。キャロル曰く、この武器は刃を砕くことに使うより、櫛状の刃に聖水が絡む事を利用し、止めを刺すことに使用した方が良いらしい。
鋭く息を吸い、勢いをつけて、刃砕きを馬の死骸に投げる。それは割れた額の中に吸い込まれていった。ややあって、死者の王は全ての腕を馬の中に仕舞い込んで沈黙。魔物は聖に屈し、失せた。
──全て読み通りだった。やはり、死者の王は馬に取り憑いた。
死者の王は疫病を呼ぶ亡霊である。しかも封印の獣だ。賢しい魔物だと思う。うかうかと縄張りに入ってきた人間と、正々堂々戦いはしない。恐らくは、取り憑いて精神を蝕み嬲り殺す、或いは新たな病の媒介にするだろう。
取り憑かれたらお終いだ。魔法の使えないエリカには何1つとして対抗する手段がない。完全に意識が潰える前に、自身の首を切り落とすしかないだろう。守護球を持たせてくれたとはいえ油断ならないし、太平の為にそれだけは避けなくてはならない。
だからエリカは馬を穢すことにした。意図的に廃村に立ち寄り、病に斃れた䯐の肉を削いで、飼葉混ぜてそれを食わせた。家畜が人肉を食らえば魂が穢れ、亡霊を招きやすくなる。
そして死者の王は罠に掛かった。エリカの期待通り、馬は囮としての役目を全うした。
エリカはここに到着するまで、馬の体温を感じながら街道を駆けた。ずっと胸が苦しかった。休憩中、頬を寄せてくれたり、髪を優しく啄むなど、懐いてくれているのが嬉しくて、最後まで迷った。でも、結局は囮にした。……没義道でも良い。病に苦しむ人々と天秤にはかけられなかった。何より、負けることも逃げることも出来ない戦いだった。
雪の中、環状石籬の中央、パキパキと音を立て、千駄焚きのように馬の体が激しく燃える。炎はいつしか紅の色を取り戻し、相変わらず周囲は無限の白が広がっている。
エリカは十字を切った。この聖地を彼の墓とすることに決めた。墓標は黒曜の剣。母の名を継いだこの剣が、馬を天まで守り抜いてくれるはず。
「──もう聖女たちは、聖地に陣を構えたのかな」
そしてエリカは瘧を防止するための水薬を飲んだ。