呪縛
焦燥感が暗がりから手を伸ばし、躊躇なく首を絞めにかかったので、ローズマリーは目を覚ました。
心が早鐘を打ち、汗が顎を伝って落ちる。焦燥感の正体は旧友だった、と思う。これは本当に妙なことなのだが、脈略なく『キャロルが悩んでいる』『早く抱きしめてあげなくちゃ』という思いが湧き出て肝を縮めた。これは階段を踏み外した時の寒気に似ていた。2、3と深く呼吸をすると、その焦りは偽りであることが分かって、噛み締めるように安堵する。
ローズマリーはぐったりと建材の山に体を預けたまま、硝子の入っていない窓の外を見て時間を確認した。月の位置から思うに、夜明け前らしい。どのくらい眠っていたのだろうか。
とにかく頭が痛い。割れそうだ。顳顬のに杭でも打たれたかと思うほどに、或いは目の奥にいる将兵らが槍で視神経を寸断しようとしている。あまりの痛みに吐きそうなくらいだ。
痛みを忘れようと目を閉じた時、微かに寝息が聞こえた。それで初めて、隣にヴェラがいることに気がついた。同じように建材に靠れて寝ている。
健やかな寝顔だった。その面相はやはりマリアベル・デミと瓜二つで、近くで見てもほとんど違いがわからない。それが奇跡のように思えて、そのままじっと見つめてしまう。こんなに似た顔つきの他人がいるだなんて。ローズマリーは天文学的な確率が齎す空想的な情感に気を取られた。
睫毛が長い。黒子の位置もマリアベルと寸分違わない。月光を弾く艶やかな髪、風信子の色をしている。
(この子が助けてくれたんだっけ……)
彼女が目を覚ましたら、礼の1つくらいは言わなくてはならない。だけれど、お礼ってどうやって言えばよかったのだろうか。『感謝申し上げます』。硬いか。ならば『諸々大変な中で私を助けてくれて、ありかとう』が良いか。いや、彼女も別に私を思って助けてくれたわけではないと思う。聖女である私を死なせてはならないという義務感で行動をしたわけだから──、駄目だ。感謝の仕方を忘れてしまったし、無意識に言わない理由を探しているような気もする。
(私、人との関わり方が分からなくなってる)
不毛な思い巡らしをやめてヴェラを見つめていると、その指がぴくりと動いた。そしてもぞもぞと動き出したので、ローズマリーは急いで目を逸らす。
「うーん……」
唸りながらヴェラが目を覚ます。
「……聖女さま、起きてるのか?」
そして、目をしょぼしょぼとさせながらローズマリーの顔をじっと覗き込んだ。それでローズマリーはギョッとして、今度は顔を背ける。
「照れるくらいなら大丈夫そうだな。あーあー安心したぜ。具合はどうだ?」
ヴェラは大欠伸をして立ち上がり、眠そうに涙を拭った。
「結局、胸にぶち込まれた魔弾は取ることができなくて、諦めちまった。悪いな」
ヴェラはローズマリーが気を失った後も必死になって胸の魔弾を取り除こうとした。しかし、ローズマリーの体の中で魔弾が砕けているようで、胸の辺りをあっちにいったりこっちにいったりしたようで、収拾がつかなかった。
「もっと人体について勉強してりゃあ、どうにか出来たのかも知れんが……、見た目だけは立派でも中身はにわかなんでな……」
言って、バツが悪そうに頭を掻く。
「あー、それと……。あともう1つ謝らなきゃならねえことがある……」
恥ずかしさからか、ヴェラの頬が紅潮した。
「言い過ぎたよ。テメェだけが可哀想みてぇな言い方だとか、別に言わなくても良いような事まで言った気がしている。まあ……、少なくとも、死にかけの怪我人に対してぶつけるような言葉じゃなかった……」
ローズマリーは口を開くことなく、ヴェラの目を見るでもなく、ただ俯いている。でも、内心は必死だった。
ヴェラが話し終わった後で感謝の気持ちを口にしようと思っていたのだが、いざその瞬間になってみると口が開かずに困った。言おうと思えば思うほどに、口が重くて開かない。自分でも驚くくらいだった。
ただ、ヴェラにとってはローズマリーが無視している風にしか見えなかったので、ため息をついて肩を落とした。確かに無反応の方が助かりはするのだが、あまりに鰾膠も無いと言おうか、完全に無視を決め込まれてしまうとそれはそれで傷つく。
「まあ、もう暫くの辛抱だよ、聖女さま。今から私はここを抜け出す」
ローズマリーは顔を上げて、ヴェラをひたと見た。
「あの黒髪の将にコイツを突き立てて、名うての医者を呼ばせる。そんで、アンタの胸の魔弾を取ってもらう」
ヴェラは胸の詰め物から慣れた手つきで手製の小刀を取り出し、くるくると指で回した。まるで辻芸人だった。
「だから大人しくここで待っててくれ」
「やめて……」
また我儘が始まったと思って、ヴェラは小鼻を膨らませた。
「あのなぁ、何があったか知らねえが不貞腐れるのもいい加減に──」
「そうじゃない。あなたが将に小刀を突き立てて、それで命が惜しくて将が泣き喚いたとしても、彼らは医学者も薬師も呼べないの……」
ヴェラは小刀を回すのをやめて、眉を顰めた。
「どういう意味だ? 流行病で医者が動けないってことか?」
ローズマリーは首を横に振る。
「──彼らは逆賊」
「ぎゃ、逆賊だって……?」
信じられぬように言って、
「ちょ、ちょっと待て」
次いで腕を組み、小首を傾げ、
「あー、えーっと……」
頭の中で、部屋に将兵が押し入って来た時のことを思い起こし、
「いやいや。ヤツら、翊衛軍じゃないのか?」
釈然としない感じに問うので、ローズマリーは答える。浅い息で、苦しそうに。
「肩章も飾緒もバラバラだったでしょう……? 神門に入って来た翊衛軍は、魔法兵は勿論、砲兵に銃兵、儀仗兵も軍楽兵も混じっていた……」
魔法兵は文字通り魔法を用いて戦う兵である。砲兵は魔導砲や大砲を専門とする兵で、銃兵も言わずもがな銃の扱いが専門。儀仗兵は主に王室の儀礼を警護する兵で、前線に出ることはない。また、軍楽兵は部隊の戦意高揚の為にバグパイプや喇叭を演奏する兵で、基礎的な戦闘能力はあるものの花形の魔法兵と比較すれば幾分劣る。以上、これらの兵はそれぞれ役割も能力も違うため、当たり前ではあるが纏めて運用されることはまずない。
「ちなみに、外の見張りは軍楽兵……」
部屋の外で待機している兵は、ヴェラに対して聖女を治せと迫ったのと同一人物である。
「な、なんで分かるんだ?」
「肩章が兵卒のものだったし、手が綺麗だった。翊衛軍の兵であれば薬品とか植物素材とかで手が荒れてるのが、普通かな……。爪や指紋がない人とか、たまにいるじゃない……?」
一度手が荒れれば中々完治しないし、治ったとしてもひょんなことから再発する。それを『魔学かぶれ』と言い、魔学を身を窶す者が痔の次に嫌う病気である。
「そういうことだったのか……」
ヴェラは納得した。確かにあの兵は、息も絶え絶えな空聖を見ておろおろするだけで実に頼りなかった。不可思議に思ったが、成程、楽器の腕で翊衛軍に所属している兵だったのだ。
「あなたは、聞いた……?」
「何を?」
「国王アンドルーの目的は、正教会の傀儡となった聖女達を救う事……。それが、あの将──クラーク・エジャートンが私を撃つ前に放った言葉……」
「ああ、覚えてる。同じことを言ってたよ」
「けどね、国王アンドルーが翊衛軍を伴って神門を占拠できるわけがないでしょう……?」
「どうして?」
「考えてもみてごらん……。王になったばかりの、しかも政治的に弱い嫡弟が……、長きに渡って前王アルベルト2世に仕えてきた熟練の魔術師達を動かせると思う……? しかも場合によっては正教軍と戦になるかもしれない、こんな暴挙のために……」
言われてみればそうだ。足並みが揃うわけがない。
「指揮に必要なのは信頼、そして恐怖……。今の王にはそのどちらも欠けている……。騎士道物語のように新しい王が立って『さあ隣国へ攻めゆかん』と言った具合にはゆかないの……」
「じゃあ『国王アンドルーが正教会に鉄槌を下す』っていうのは」
「──彼らの願望」
ヴェラは理解した。つまり神門に押し入ったのは翊衛軍にして翊衛軍でない。
「そうか。決起か」
決起であれば、神門に入り込んだ将兵がみな若いのにも何となくの説明がつく。理想だけを胸に立ち上がり、勢いそのままに神門を制圧し、正教会の象徴である聖女をも支配下に置いた。
「少しは後先考えろ、馬鹿どもが」
苛立つ。人というのはどうしようもない。天変地異が起き、病が蔓延り、人と人が力を合わせて生きていかなきゃならない状況なのに、こんな状況でも利己主義をきっかけとして争いを起こしてしまう。これではいつまで経っても太平など訪れやしない。
団結の義務に目を瞑り、無責任にも聖女に瘴気を払うことだけを期待し──いや、そんな生易しいものではないか。聖女を政治に利用しようとするばかりで、住みやすい世なんか後回しだ。何が正教会に鉄槌を下すだ。どの口が言っている。もうヴェラは我慢ならない。
「それなら、話は早ぇ。さっさとあのクラークとかいう野郎の首を掻き切っちまおう。逆賊なら孤立無援の可能性も高え」
「油断しないで……。相手は翊衛軍。特に将は並じゃない……」
「我慢できんよ」
「だから、そうじゃなくて……」
ローズマリーは言いさして、口を閉ざした。
だけれどこれではいけないと思い、また口を開く。声に出して伝えなくてはならない。喉の奥で詰まる、重い塊のような声を出して伝えなくては。
「あなたが行くなら私も──」
ローズマリーはヴェラに礼を言うことができなかった。言いたかったのだけれど、それが出来なかった。その仄かな後ろめたさが、目の前の全てから逃げ出してきたローズマリーの背中を僅かに押した。
──あなたが行くなら私も行く。
声が口から出かかった時、急に寒気がして、声に釣られて胃液まで競り上がってきて、両手で口を押さえる。胃袋の中には何もないはずなのに、胆汁と胃液ばかりの吐瀉物が溢れて出た。
「だ、大丈夫か……っ!」
ヴェラはローズマリーの背中を撫でてやる。
「うぐっ、お゛ぇ……」
腹の魔弾が除かれて体調が良くなったと思ったが、まだ回復しきらない。故に吐き戻したのだろう。一瞬そう結論つけようとしたが、ローズマリーはすぐに自分で否定した。
違う。
私が、聖女であることを受け入れることができないからだ。
私は自分よりも優れた友を殺めた。
聖女であるべきは彼女たちだった。
私は聖女に相応しくない。
それなのに聖女の資格がない私が、聖女らしいことをしようとしている。聖女として戦おうと思ってしまっている。穢らわしくもヴェラを助けようとしている。つまりは、友を得ようとしている。
この口の中と鼻の奥を刺激する酸味と苦味は、卑劣で下品な自らの臭い垢の味。
血に汚れた手でキャロルを抱きしめたことも、垢に塗れる。
掌を見れば、じわじわと滲んだ血が泉の如く湧き出て見える。
──そして、そうやって吐瀉物を散らす時。決まってあの女は現れる。
「……出たな、化け物めっ」
ローズマリーは突如として部屋の隅に出現した多指の少女を見た。
「何を、企んでる……」
ヴェラは訝るように振り返る。ローズマリーの目線の先を見つめるが、何かがそこにいる気配はない。
「不死鳥が現れた時も……、フォルケ・セーデルブロムが倒れた時も……、翊衛軍が押し入って来た時も……、あなたはいた……」
ローズマリーの目の焦点は合っていない。瞳は小刻みに震えて、瞳孔は開き、しかも充血している。その気狂いの目を見た時、ヴェラの背筋に悪寒が走った。まるで麻薬に溺れた狂人だ。
「お前は私の記憶をも塗り替えて行く……っ。居るはずがないのに、私が初めて眼鏡をかけた時、笑ってそこに立っていた……。居るはずがないのに、遠足に一緒に行って苺を食べた……。居るはずがないのに、私が川でユーフェミアを探している時に──、お前は歯を見せて笑って、私を見ていた……っ!!」
ローズマリーは餓狼の顔付きで、部屋の隅の暗がりと対峙している。
「私の過去がお前で染まっていくッ!! どの情景を思い返してもお前がいるッ!!」
少女──神リュカは言った。
『5人の聖女が現る時、世界の太平成る』
強烈な耳鳴りと共に、その声はヴェラの耳にも届いた。恐ろしさに後退り、尻餅をつく。
『あなたの大切な友達は、私に選ばれなかった』
ローズマリーは涙を流しながら吠える。
「もうこれ以上、私に構うなっ。構うなぁッ!!」
『だけれどあなたは私に選ばれた。──夢が叶って、なんて素敵なローズマリー』
神の顔は無邪気な喜色に溢れていた。
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