苺を摘んだらジャムを(後)
「空聖さま。ローズマリーさま」
ひとまず体を揺すりながら呼びかけてみる。返事はない。果たしてこれは寝ているのか意識を失っているのか、判断つかない。
次いで傷口を確認した。撃たれたのは2箇所らしい。左の脇腹と左の胸。何やら傷口から微風が吹いているような気もするが、これは風の聖女の魔力の源だろうか。
ヴェラはじっと腹の傷口を見た。奥の方で青い光がきらりと光っている。
「……これが聖女をぶっ殺す為に作られた『魔弾』か。なんでこんなもん作っちまうかね。魔物より罪深いよ、人間様は」
ヴェラは腹の傷口に指を突っ込む。乱雑な方法ではあるが、弾丸を取り除く事ができれば良い方向に働くかもしれない。早速、指先に硬いものが触れた。魔弾だ。ゆっくりと引き抜く。それは青空を硝子に閉じ込めたような、美しい弾丸であった。首輪と同じ輝きを持つ。
「こんな綺麗なものが聖女を苦しめるんだな……」
その時、ローズマリーがゆっくりと目を開けた。
「目が覚めたか!」
よし、やはり魔弾を取り除けば幾許か回復していくらしい。少しばかり安心して、今度は胸の傷口に指を入れる。
「あっ……!」
しかし安心したのも束の間、ローズマリーの瞼が降りてゆく。弱い吐息。希薄な気配、冷気すら感じる。この瞼を降ろさせてはいけないと、ヴェラは焦った。
「聞いてくれ、聖女さま」
話しかけて、意識を保たせようとする。
「敵は禁軍の翊衛軍っちゅーやつらだ。だが目的はよく分かんねぇ」
ローズマリーの反応はない。が、目は薄く開いている。
「ただ、アイツらは私の目の前でアリス・ミルズっていう偉そうな女……、あー、つまりこの塔を護衛してた将をぶっ殺した。何の躊躇もなく、な」
ヴェラは話し続ける。こうした局面では、とにかく淡々と声を浴びせることが重要。
「アイツら正教軍が相手なら、見つけ次第殺す気なんだよ。つまりは正教会と本気で喧嘩するつもりさ」
胸に食い込んだ魔弾は相当深い。骨まで達しているのだろうか。まさか、心臓まで?
「私は頭が悪ぃから政治のことは何1つわからねえ。だが、これ以上に国が乱しちゃならんことは分かるぜ」
駄目だ。魔弾が指に触れない。
「争いが起きれば、もっと沢山の人が死ぬ。ただででも流行病で疲弊してるんだ。ここで聖女が立ち上がらなきゃいつ立ち上がるんだ。頼む、私たちを救ってくれ。頑張れ、魔弾なんかに負けるな」
やはりローズマリーの反応はない。そしてまた、瞼が閉じようとしている──。
「お、おい! あんた、北の人間なんだろっ。シャキッとしろ、北狄! 気合い出せっ!」
北方ファルコニア伯爵領の民は蛮族と揶揄される。領軍は好戦的で野蛮、百姓でさえ嬉々として亜人を農具で殺す。そんな北方の民を『北の野蛮人』を意味する、北狄と卑しめて呼ぶ南部者も少なくはなかった。
「もう……」
ローズマリーが口を開いた。まさか、煽りが効いたか。
「もういい……。私は、終わりにしたい……」
煽りが効いたならば、もっと煽ってやる。ヴェラは強い口調で言う。
「軟弱なヤツだな! あんた聖女なんだろ!? 世界を救う力があるんだろ!? じゃあそいつを使ってから終わりにしろよっ! 莫迦!」
煽るための言葉に、ついヴェラの想いと苛立ちが乗る。語気が鋭くなる。
「いいか、良く聞け。街の人間がどれだけ聖女の救いを待ってるか、お前に教えてやるっ」
ヴェラは胸の詰め物から石材で作った小刀を取り出す。胸を深く裂いて魔弾を取り出せないか挑戦する。
「……私は紛い物だ。聖女を演じて、時たま説法して歩いてる。練習した通りの薄っぺらい言葉を垂れ流すだけの、我ながら安い説法だよ。生きた言葉なんてありゃしねえ。だがな、そんな説法でも、街のやつらは目を輝かせる。涙を流すヤツだっている」
ヴェラはローズマリーの胸に刃を入れた。
「粉屋のハロルドのとこにはガキが生まれた。病が流行ってる中、頭下げて歩き回って、必死になって重湯の材料を掻き集めてる。靴屋のイーヴァは踊り子の夢を追って田舎から出て来たが、あいにく流行病を拗らせた。でも悲観せずに治す気でいる。塩屋のハリソンは死んだ子供の墓を作る為に店を手放した。今は薬を勉強して流行病と戦ってる」
肉を裂く。
「全員が必死になって生きてる。耐えながら、救いってやつを待ってる! 聖女のことを──お前のことを待ってる!」
またローズマリーの瞼が閉じそうになる。
「シャキッとしやがれ! 聖女ならそれに応えてやれってんだよッ!」
ヴェラはローズマリーの体を強く揺さぶった。寝させてはいけない。
「私は偽物でも聖女だっ! テメェにその気がねぇなら、その力を私に今すぐに寄越せよッ!」
ローズマリーの右手がゆっくりと動き、ヴェラの腕をぐぐっと掴んだ。
「さ、さっきから……。何も知らないで……、勝手なことばかり……」
祭服を引きちぎり、肉を毟らんばかりの力強さだった。先まで力無い表情だったが、今は確かに気色ばんでいて、怒りがその手に込められていた。
「聖女の力があったって……っ、私には何の意味もないっ! ──私が守りたかった子は全員死んだっ!! 大好きだったあの子たちは、私の為に死んだんだっ!! もう放っておいてっ!」
その利己的な言は、ついにヴェラを怒らせた。
「テメェだけが可哀想みてぇな言い方だな、この野郎……ッ」
血気に逸り、胸ぐらを掴む。
「私だってそうさ。何人もの仲間が殺された!」
そしてローズマリーにがつんと頭突きをかました。額と額をくっ付けたまま、強く言う。
「悔やんだって帰ってこねえ! 自分が強くなるしか、そいつらは報われねえ! 救えなかったなら、救えるようになれよっ! ──これ以上甘えたこと言ってみろ、私が望み通り殺してやるッ!」
ローズマリーは腕の力を弱めた。
──救えるようになる。
何故だろうか。それを言われて、ふと思い出した。……あの時、女神像を腐らせた上に、学園から追放された1人の少女のことを。
□□
背の高い人。夜空のような髪、凛々しい顔立ち、女子にしては低い声。男性役を演じる舞台女優のよう。故郷ではそういう子は周りにいなかったから、初めて会った時、新鮮に感じた。
あの子はよく本を読んでいた。小説、随筆、古文書、図鑑、学術書、魔術書。種類は問わず、なんでも読んだ。そして、いつも図書館で勉強をしていた。私と同じで、本の虫なんだと勝手に思った。
自分との接点を見つけてしまって、彼女に興味が湧いてしまった。でも、それを認めるわけにはいかなかった。私のように罪を背負った人間が、こんな感情を持ってはいけないと思った。
だけれど、やっぱり話しかけたい、仲良くなりたいと思う自分を消すことは出来なかった。根拠はないのに、話しかけることで延々と続く心の痛みが和らぐと思った。彼女はそう思わせる魅力のある女子だった。そして、彼女から話しかけてくれる前は、その2つの想いの端境に立たされて、図書館でぼうっとしていることも多かったように思う。
度々話をするようになったが、彼女は優しかった。いや、優しかったというのは正確ではないのかも知れない。何と言えば良いか、意図的に余白を作ってくれていた気がする。過去を聞くでもなく、変に期待するでもない。ただ静かに隣に座ってくれたし、ただ静かに存在を認めてくれた。
『──瘴気の外には何があるの?』
そのリトル・キャロルの声が頭の中で蘇った時、1つの景色が浮かんだ。朝、皚皚たる雪の中。その前の晩はひどく吹雪いたが、今日には細雪になっていた。
キャロルは学園の庭園で座っていた。長椅子でもなく、切株にでもなく、地べたに座っていた。彼女の故郷である貧民街から帰って来て、すぐの事だったと思う。
音がなかった。辺りは真っ白、学園の院が薄く見えるだけで、どこにも山の姿はなかった。勿論、誰もいなかった。キャロルが──、私ではない誰かが、ぽつりと世界に1人だけ生きているように見えた。
雪をぎゅっぎゅっと踏みしめながら、キャロルに近寄った。それで分かったのだけど、キャロルの目は涙でぷっくりと腫れていた。
あのキャロルが悲しんでいる。そう思ったら、切なくてどうしようもなくなった。透明な指の、透明な爪が、自分の心に引っ掻き傷を作っていた。
噂だが、キャロルは自分で故郷を滅ぼしたのだと聞いた。仔細はわからない。噂は噂なだけで、本当は違うのかも。でも、キャロルは悲しんで、雪の中に1人でいた。もうそれは十分な答えだった。
キャロルにかける言葉を探しながら、隣に座った。隣に座っても言葉が見つからなかったから、膝を抱いて、そこに顎を乗せて、静かにしていた。
するとキャロルはちらりとこちらを見て、優しげな笑みを作った。
「ありがとう」
「え……?」
「そばにいてくれるんだろう?」
やはり言葉が出なくて、代わりに、キャロルの肩に積もった雪を手で払ってやった。しゅうねく張り付くので、えいえいと強く払い直した。すると、キャロルはぽたぽたと涙を垂らした。
「虚しいんだ」
彼女が言葉を発する、その瞬間、息遣い、声、今でも鮮明に覚えている。
「朝起きて、涙が出ている。何も考えることができなくて、上手く物事に手がつかない」
活版刷りされたように耳に残っているのだ。だってその時は、嘘偽りではなく正真正銘、キャロルとキャロルの声しかこの世には無かったから。
「ただ、私の罪だけが漠然と目の前に広がっていて、それで、その先が見えないんだ。やがて、私の中から感心が抜け落ちてしまう気がして、すごく怖い」
その言葉を聞いた時、ローズマリーは焦った。まるで、長い階段から乳母車が転げ落ちる瞬間を目撃した時のように焦った。
ああ、いけない。
このままじゃ、バラバラになってしまう。
或いは、泡沫のように儚く消え失せてしまう。
キャロルはキャロルでなくなる。
私と同じにしてはいけない。
あとは無我夢中だった。気がついたらキャロルを抱きしめていた。両目からぼたぼたと涙を流して、バラバラになってしまわないように、強く、強く、抱きしめていた。キャロル以上に泣いていたかも知れない。
「ローズマリー……?」
えぐえぐと嗚咽を漏らして、抱きしめ続けた。怯えるように震えながら、渾身の力で、目を瞑って。
キャロルは何を思ったのだろう。もしかしたら、泣き顔が面白かったのかも知れない。必死すぎて深く理由を考える暇がなかったが、とにかくキャロルは少し笑って抱き返してくれた。
□□
ヴェラはローズマリーの胸に指を入れ、魔弾を探る。
ローズマリーは目を開けようとした。だが、もうこれ以上は意識を保つことが出来なかった。徐々に視界が霧がかって行く。あの雪の日みたいに、全てが白だ。薄れてゆく意識の中、遠くに、会話が聞こえる。たった2人ぼっちで話している。
「ローズマリー。私たち、聖女になって世界を救えるのかな。だって、私はこんなにも未熟だ」
「……きっと。きっと、キャロルになら出来る」
「もし私たちが世界を救うことができたら、何をしたい?」
「瘴気の外に行きたい」
「瘴気の外?」
「この世界は鳥籠。聖女は、鳥籠を開ける鍵になるの」
「素敵だな。……瘴気の外には何があるの?」
「何があるんだろう……」
「想像でいいよ。ローズマリーは何があるのだと思う? もっとローズマリーの話が聞きたい」
「……幸福な世界があるのだと思う。私たちが享受することができない、其処は彼とない幸せが、ずっと、地平線の先まで広がっている」
「それは良い」
「清らかな山気を漂わせた翠巒があって、縷々たる風が吹いている。原は青々として無限に広がり、灌木には動物が潜んで、清冽な泉では水鳥たちが歌っている」
「難しい言葉を知っているんだね」
「そして、春の実りが私たちを出迎えるの」
「春の実り? 苺?」
「そう。雪が解けて、春が来たら、苺を摘みに」
不思議だった。消え去りたいと思っていた故郷の記憶が、輝いてローズマリーを満たした。
「苺を摘んだらジャムを……」
キャロルを救いたいと思うほどに、救われていく自分があった。自身に流れる血は暖かく、鼓動は優しい響きを奏でていた。体の奥深くで活力が満ちて、少しも寒さを感じなかった。
それは自身の宿命から逃げ続け、目を逸らし続けたローズマリーが生み出した、一種の神秘だった。そして、他人を心から守りたいという強い意思と、暖かで献身的な願いが作り出した、救いの手でもあった。悲しい思い出は強さに変わった。克服という勝利が七色の煌星となって、この瞬間だけだったが、ローズマリーの頭上に燦然と輝いていた。
そして、自らが生み出した救いの手は、確実にローズマリーに差し伸べられていた。だけれど、ローズマリーはそのことに気が付かなかった。キャロルを温めるのに必死だった。
□□
リューデン公爵領ニューカッスルより飛び立った鳩のうち、1羽が戻ってきた。その鳩は、空聖ローズマリーに宛てた手紙を持っていた。
キャロルは鳩が目当てとなる磁鉄鉱を感知できなかったのだと思い、彼女の身を案じた。
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