苺を摘んだらジャムを(前)
その日、ローズマリーは穏やかな夢を見た。冷えた海で溺れる夢ではなかった。
矩形の硝子窓からは木漏れ日が垂れていた。柔らかな光が調理場を明るくし、接骨木の影は優しく踊っていた。
炉の前に4人の乙女たちがいて、楽しそうにおしゃべりをしている。何かを作っているようだったから邪魔をしてはいけないと思って、ローズマリーは離れた場所から彼女たちを見ていた。
淡い色をした炎が炉で揺らめく。鍋を熱している。ふつふつと軽やかな音がしていた。甘酸っぱい香りがして、ローズマリーは懐かしさに切なくなった。
乙女達はローズマリーの気配に気がついて、1人、2人と振り返った。彼女たちの面相はよく知っていた。知っているのだけれど、夢だからだろうか、名前や思い出は曖昧で、会えたことの嬉しさだけが胸を暖かくした。幸せだった。
乙女の1人が問う。
「もう疲れたの?」
寄り添うような優しい声。誰の声なのだっけ。
「疲れてしまったのね、ローズマリー」
その名前が喉まで出かかっているのに。
「もう終わりにしてしまう?」
終わりに?
「良いのよ、それでも」
そうか、終わりか。
そうしようかな。
ローズマリーが調理場に入ろうと歩み出した時。誰かがその手を掴んだ。振り返ると、そこにはリトル・キャロルが立っていた。
キャロルは言った。
「私たちは自分で終わりを決められるほど、もう、小さな存在ではなくなっちゃったんだ」
悲しげに笑む。
「さあ行こう。私たちは遠足に招待されていない」
□□
王都神門は未完成である。急速に建築が進められてはいるものの、今現在の最上階は9階。計画では40階を目指していて、完成すれば世界で最も天に近い塔になり得る。
9階はまだ機能しておらず、様々な建築資材を管理しておくための部屋があるに過ぎなかった。そして、腹に傷を負って動けぬことになっている海聖の影武者ヴェラ・ウルフは、その内の1つに放り込まれていた。
──この部屋に連れて来られてから暫くが経った。
禁軍の兵卒に嵌められた『青い宝石の首輪』。これのおかげで、些か都合よく事が進んでいるような気がする。
この首輪は例の魔弾とかいう、聖女を殺すための弾丸と同じ宝石で作られているのだろう。聖女の力を奪うのだろうけど、ヴェラはそもそも聖女ではない。従ってこの首輪も飾りに過ぎなかった。だから度々様子を見に来る兵や、飯を持ってくる兵の前で、腹を抱えてうーんと苦しそうに突っ伏していれば、それだけでやつらは油断した。首輪様々である。
お陰でヴェラはのんのんと武器を準備する事ができた。この部屋には大量の建材があるから、材料にも困らない。今日までに作れた武器は小刀が20本。これは石材や屑鉄から作った。飛び道具にもなるから便利である。あとは木材を削って作った小さい槍が1つ。これは太腿に隠せる大きさにした。あとは鉄の腕輪。これは敵の剣を弾くために使用する。それから鎖に鉄の塊をつけたもの。いわゆる分銅鎖だ。振り回して敵の顳顬に当てれば、筋骨隆々の兵でも一撃で死ぬ。
十分なほどの暗器を準備する事ができた。しかも苦労することなく。何回か投獄された経験のあるヴェラだが、はっきり言って禁軍翊衛軍とやらは、かつて無いほど甘っちょろい。
(どうしてこんな、砂糖みてぇに甘っちょろいんだ。天下の禁軍だぜ?)
他にも何点か気になることがある。
1つ。この部屋の外で見張っている兵、定期的に様子を見に来る兵、飯を運んでくる兵、そのどれもが若い。自分と変わらないくらいの年齢か、若干年上の者ばかりである。考えてみれば、奇襲された時にいた兵達も若かったように思えるし、兵を率いていた中将──、確か名前をクラークとか言ったか、あの黒髪の彼も若いように見えた。
ヴェラは盗賊。正教軍や領軍を相手に戦ってきたから分かるが、これだけ若者ばかりの部隊というのも珍しい。特に歴史ある禁軍翊衛軍が若者だけで組織されることなど、あるのだろうか。
もう1つ気になるのが飯だ。毎度、硬いパンに干し肉を食わされる。まるで兵糧である。味方の支援の届かない僻地の砦なら分からんでもないが、ここは王都。禁軍の根城だ。何故こんなに犬の飯ばかり食わされる。
理由はなんだろう。黒死病の影響で用意できない? あと、王国南部では飛蝗が暴れ回っていると聞くから、そのせいだろうか?
「あー、ダメだ! バカだから考えてもわかんねぇ! 途中でこんがらがって『いーー!』ってなるッ!」
ヴェラが頭を掻き毟った時。扉の向こうで話し声が聞こえた。
(ん? 飯の時間だな……。よし、ここいらで兵を殺して抜け出すか)
ヴェラは撃たれたはずの腹を押さえて、横たわった。兵が飯を運んでくるのを待つ。
武器の準備は整った。あとは行動に移すだけ。部屋を抜け出して、隠れながら進み、敵の長を仕留めてしまおう。翊衛軍は輝聖がどうとか言っていたが、聖女に対して魔弾を撃ち込むくらいだ、何もかもが信用ならない。
兵が入って来たらば、うまいこと油断させて顳顬に小刀を刺す。そして装備を剥ぎ取り、兵に扮してかき乱してやろう。ヴェラは小刀を隠している胸の詰め物に右手を近づけた。
扉が開き、若い兵が入ってくる。しかし、ヴェラは気がつく。
(飯の盆を持っていない……?)
若い兵はヴェラの近くまで来ると、静かに言った。
「聖女様、動けましょうか。もし動けるなら、私と共に来ていただけませんか」
想定外の言葉。
「お願いがございます」
頼み事?
「──空聖の様子がおかしいのです」
□□
ヴェラはその若い兵に連れられて、9階の別室に入った。
至る所に建材が積まれた小部屋だった。膠灰を作るための火山灰や石灰の袋、海水の入った大壺などに囲まれて、腹と胸から血を流す少女がいた。銀の髪に眼鏡、空聖ローズマリーだった。
どうやら自分と同じく銃撃されたらしい。肌にべっとりと張り付いた祭服が赤く濡れて、もちろん青い首輪もつけられていた。見る限り、呼吸は浅い。顔色は悪く、唇も白く、目を閉じていて、まさに死に際といった具合だった。聖女が死ぬ事はとても考えにくいが、だがこの姿を見ればそうしたこともあるかもしれないと思えるほどには危ないように見えた。
(──青い宝石の毒が、聖女の体を蝕んでいるんだ)
冷や汗がヴェラの背筋を伝った。
「いつからこの状態なのですか」
聖女らしい言葉遣いで問う。
「そ、それは……、この部屋にお越しいただいた時から……」
兵は言い渋りながらも続ける。
「し、しかし。僕にもよく分からないのです。聖女ならば魔弾を受けようとも、多少の気怠さがあるだけで、どうという事はないと教えられたのです。どうにも可笑しいのです!」
保身の言葉を並べるので、ヴェラは焦れこむ。
「まずは聖女の力を奪う首輪をはずしなさい」
「そ、それはできません……!」
「彼女の姿が目に入らないのですか」
「しかし、僕の判断では首輪を外す事など到底できません」
そのもどかしい態度に、ヴェラは舌打ちをしながら言う。
「聖女である私の命よりも大事なことがありましょうか。ここで私の命が聞けないのであれば、あなたが空聖ローズマリーを殺したのと同じこと。神は怒り狂い、あなたとあなたの母の名を魔の類として広めるに違いありません」
脅されたことで兵はさらに焦り、より保身のことしか考えられなくなった。
「せ、聖女が死ねばどうなるのですか? やはり世界は滅びるのでしょうか。だ、だったら早くなんとかして頂けますよう、お願いいたします。そうでなくては困ります!」
「首輪を外しなさい」
「で、出来ないと言っているでしょう! 僕は大義のために働いたんだ! なのに、なんで世界を滅ぼすことになるんだ! 聖女は世界を救うんだから、人に責任を押し付けるなよっ! 喋ってないで今すぐやれよっ!」
逆捩を食わされ、ヴェラはぽかんと立ち尽くした。二の句が継げない。
兵は肩で息をしながら額の汗を拭うと、逃げるようにして部屋を出て、扉を勢いよく閉めた。
「……ケッ。しょーもな!」
あの必死な顔に拳を叩きつけてやれなかったことを悔やみ、ヴェラは唾を吐く。それから困ったように頭を掻きながら、ローズマリーの下に寄った。
「やれやれ。しっかし、治せと言われてもどうしたもんかね……」
本物の水の聖女であればどうにか出来るのかも知れないが、ヴェラはそうではない。医学の心得はメアリに教わった程度で、あとは盗賊時代に培った民間療法が少し備わる程度である。
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